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天知るや 陽の御影  作者: 日向あおい
7/13

7、嵐が去って

 

 天に謀られたかのような澄み渡った青空だった。


 その眩しいばかりの青を切り取るように、華那の地を囲む山々の緑が色鮮やかに萌えている。山々を縫うように流れ来て集落に寄り添う川がキラキラと陽の欠片を散らす様子は、まるで純白の貝殻を砕いて粉にしたものを撒いたかのようであり、なんとも心を奪われる眺めであった。


 しかし、その眺めを存分に味わえる者は限られている。――華那の支配者。つまり、衣紗だけだった。


 彼女は物見櫓の上に登り、東から西へと吹き抜けていく風に黒髪を遊ばせながら南に連なった山々の先を見つめる。


 衣紗は生まれ落ちてから一度も華那の地を囲む山を越えたことがなかった。だが、聞くところによると、いくつもの山を越え、数日かけて南下すると、やがて豊津原に行き着くという。


 豊津原は今、人を集めつつあった。どんな怪我も病も治すことができると吹聴している小娘を頼り、豊津原を訪れる者は以前からいたが、一時の滞在ではなく移住し、豊津原の民になることを望んでやってくる者たちが続々と押し寄せているらしい。


 これは、先日の嵐の被害を豊津原だけがほとんど受けたかったためであった。


 嵐に紛れてやって来た死霊たちに黄泉の国へと連れ攫われた民の数が、他國に比べ豊津原は圧倒的に少なく、そして何よりもまず、豊津原以外の多くの國々では田植えを終えたばかりの水田を荒らされ、悔しさと絶望の涙を流していた。


 ぷかりと水田に浮かんだ苗を急いですくい上げ、乾燥させることができた國はまだ良い。その苗を植え直せば良いからだ。だが、完全に苗を駄目にしてしまった國では、今年の収穫を諦めなければならなかった。



「豊津原では今ごろ田植えが行われているらしいわね」


「はい、そのように聞きます。豊津原の小娘は嵐が来ることを読んでいて、嵐が去るまで田植えを待ったとか」


「ふん、偶然よ。あの娘に天意が分かるはずがないわ」


「そうでございます。分かるはずがありません。ですが、民はすべて豊津原の小娘の読み通りだと噂し、小娘を敬っているのだとか。婿候補を名乗る他國の王子たちも豊津原に続々と訪れていると聞きます」


「婿候補? ふふふっ、婿候補ねぇ」



 衣紗は胸を大きく震わせて笑い、梯子を伝って物見櫓から地面に降り立つ。ふんわりと、貝紫染めの裳が空気を含んで南瓜のように膨れてから、衣紗の歩みに従って左右に揺れ動き始めた。


 衣紗は自身の居館である異国風の御館に向かう。集落の中心に建てられた御館は、がっしりとした木組みの壁には黒漆が塗られており、そのような造りの建物を見慣れぬ者たちの心を圧倒し、そこに住まう主の権威の前に屈服させた。



「それで? どこの國の王子が豊津原に滞在しているの?」


「富彌國、一支國、烏那國、津島國、それに九夜國です。富彌國の王子は先日の嵐で亡くなったとかで、もうひとり新たに王子が豊津原を訪れています」


「あら、伊都國はどうしたの?」


「伊都國の動きはまだございません」


「そう。あの國はいつも腰が重いのだから仕方がないわね」



 衣紗は階を上がり部屋の中に入ると、鹿皮の敷物の上で膝を折り、鏡面のように美しく磨き上げられた漆塗りの肘置きを引き寄せる。肘置きに体重を預けながら足を流すように横座りし、侍女に視線を向けた。



「咽が乾いたわ」


「果実の搾り汁をお持ちいたします」


「水でいいわ。冷たくなければ嫌だけど」


「承知いたしました」



 衣紗より幾分か歳を食った侍女は深々と頭を下げると、部屋の外に控えた若い婢女に命じて水を持って来させようとした。だが、その時、衣紗の片眉がぴくんと跳ね上がる。絹を引き裂いたような甲高い怒鳴り声が響いた。



「なぜ、まだ若い女がいるのです! 若い女はすべて館から追い出せと命じたはずです!!」


「申し訳ございませんっ」



 侍女も婢女もすぐさま潰れたヒキガエルのように身を伏せる。額を床に押し付けて何度も何度も謝罪を口にした。



「申し訳ございません。申し訳ございません」


「その女を直ちに追い出しなさいっ! 千隼様の目に触れる前に。早くっ!!」



 袖を大きく振り乱しながら怒鳴り散らす衣紗に、婢女はすっかり縮み上がり身動きが取れない。青ざめた侍女は婢女を拳で叩き付けながら御館の外へ外へと追い払った。


 若い婢女の姿が見えなくなると、衣紗はホッと息を吐いて肘置きに寄りかかる。老いていく自分の周りを若い女がちょろちょろと動き回るなど、不愉快でしかなかった。


 それに万が一、千隼の目を惹くような若い女が自分の居館にいたとしたら、衣紗は悔いても悔やみ切れないだろう。見知らぬ他國の女が千隼に触れただけでも、その女を殺さずにはいられないほど胸を焦がすのに、自分の婢女がその穢れた手で千隼に触れた時には、おそらく衣紗の心は憎しみに溢れ、壊れてしまうに違いなかった。


 衣紗は、どんっと激しく音を立てて肘置きに拳を叩きつける。



「水はまだなのですか!? 咽が乾いたと何度言えば、お前たちの耳に届くのでしょう!」


「すっ、すぐにお持ちいたします!」



 侍女も部屋の外に控えていた他の婢女たちも衣紗の怒気に震えながら、水を求め四方八方に走り出す。あまりの恐怖に足が覚束なくなったひとりの婢女が泥土に足を滑らせ、腹から倒れた。その音を部屋の中から聞いていた衣紗は苦々しく顔を顰める。



「なんてみっとも無い婢女かしら。殺しておしまい」



 婢女の悲鳴が上がる。たちまち兵士たちに囲まれた婢女には泣き縋る猶予すら与えられなかった。びゅっと剣が振り下ろされた音を聞いて衣紗はくすくすと笑みを零した。水を待つ間の余興になったと言って。


 やがて玻璃の水差しが運ばれて来ると、それを部屋の入口で婢女から受け取った侍女が衣紗の前まで進み出てきて、水差しを傾け瑠璃でつくられた高坏の杯に水を注いだ。



「衣紗様、お持ちいたしました」



 差し出された瑠璃の杯を受け取り、衣紗はすぐに唇を押し当てる。だが、こくりと一度だけ喉を鳴らしただけで、すぐに飽いたように杯を遠ざけた。豊かな睫毛に縁取られた黒く濡れた瞳で、衣紗は周囲を大きく見渡す。すると、その黒曜石のようだと讃えられる美しい瞳に、先ほど水差しを運んできた婢女の姿が映り込んだ。衣紗の艶やかな唇にまるで新しい遊びを見つけた幼子のような無邪気で残酷な笑みが浮かぶ。



「お前、瑠璃の杯に口を付けてみたくはない?」



 思いがけず衣紗に声を掛けられた婢女は、部屋の外の階の下で額を地面に擦りつけながらガタガタと体を震わせる。彼女の視界の端には、ついさきほど衣紗の命令で殺された婢女が地面を赤く染めながら仰向けに転がっていた。無念を訴えているかのように薄く開いた口元。命ある者を妬んでいるかのように、その目は大きく見開かれたままだ。


 力無い婢女にとって、主である衣紗に言葉を貰うということは、ほぼ死を意味していた。故に婢女は心底震えあがり、己の身に降り掛かって来ようとしている災難からどうにか逃れられないものかと、神々に祈るばかりだった。


 衣紗は侍女に命じて同じ形の瑠璃の杯をもうひとつ用意させると、自ら水差しを傾けて、二つの杯に同じように水を満たす。



「さあ、飲んでみなさい。ただし、この二つの杯のうち、お前に許されるのは片方の杯だけです。選んで飲み干しなさい」



 衣紗は二つの杯を手にして部屋の外に出ると、階の上に立ち、階の下で這い蹲う婢女を見下ろす。侍女に杯を預け、婢女の目の前に二つの杯を置かせ、再び命じた。



「さあ選ぶのです。飲み干すのです」



 衣紗に急かされ婢女は恐る恐る向かって右側の杯を手に取る。にやりと衣紗の顔に歪んだ笑みが浮かんだ。



「そう、そちらを選んだのですか。じつは、二つの杯のうち一つに毒を入れました。お前が選ばなかった方は私が飲み干します。すると、私か、お前か、どちらかが死ぬことになるでしょう」



 言って衣紗は侍女に婢女が選ばなかった方の杯を運ばせ、それをひと息に飲み干した。そこに欠片の躊躇もない。自分が飲み干した杯に毒が入っていないことを知っていたからこその振る舞いだった。


 婢女の顔が、さっと青ざめる。すでに死んでいるかのように血の気のない顔で、衣紗を見上げ、己の手の中に納まった杯を見下ろした。杯の中で水が大きく波打っているのは、婢女の手の震えが止まらないからだ。


 衣紗が怒鳴るように声を張り上げる。



「お前が選んだ杯です。生か死か、選んだのは、お前自身です。さあ、飲み干しなさい!!」



 やがて口から大量の血を吐いた婢女が、先に死んだ婢女に重なるように倒れると、衣紗は上機嫌に声を上げて笑った。けらけらと、まるで若い娘のように。


 その様子を遠巻きに窺いながら、他の婢女たちは災難が己の身に訪れないことを祈っていた。人の命など、衣紗にとって暇つぶしの玩具でしかない。そして、秋の空のように変わりやすい衣紗の心が、いつどのように移ろうのか誰にも分からなかった。


 ただ、はっきりとしていることは、いずれまた荒れ狂い、虫を殺すように彼女たちの命を奪うのだということ。そうと悟った時、彼女たちは華那の地を覆う澄んだ青空が恨めしく思えた。


 ――空でさえ数日間は晴れ渡るものなのに、華那の女王の心は一瞬で嵐が吹き荒れる。


 衣紗の逆鱗に触れないよう息を殺しながら彼女に仕える者たちは、ふと我に返ると、いつも南の空を仰ぎ見ていた。南の空の端を連なる山々の向こうを行くと、やがて豊津原にたどり着くという。








 豊津原では田植えをする民たちの楽しげな唄声がそこかしこに響き渡っていた。簡単な節のついた短い歌は豊作を祈る歌である。民は皆で声を重ね、繰り返し繰り返し唄い続けていた。


 田植えは、男も女も身分の区別なく集落に住まう全員で取り組む。それは副王も巫女も例外ではなかった。須鞘は腰布一枚で、日和は裾の長い裳を脱いで、たっぷりと水を張った水田に入る。


 やがて日が暮れ、自身の影で手元が見えなくなると、田植えを指揮していた大人たいじんの号令で作業が中断された。皆、唄うのをやめて水田から上がる。張った腰を拳で叩きながら、植えた苗の様子を改めて見渡し、各々の住まいへと戻って行った。


 日和も両腕を天に掲げ、大きく伸びをしてから水田を上がる。何度か休息を入れての作業だったが、長時間も泥に浸かっていた足はすっかり冷えてしまい、草の茂った大地を踏みしめると、ほんのりと暖かく感じるほどだった。


 田植えは明日も続く。集落の人々が総出で行っているので、あと五日ほどで終えることができるだろう。いや、もしかすると、三日で終えてしまうかもしれない。空模様を映す鏡のようだった水田が明るい緑に色づいていた。例年よりも進みの早い田植え作業は、豊津原の人口が増えたおかげである。これからもさらに民が増えるのであれば、水田の数を増やすことも考えた方が良いだろう。


 そんなことを思いながら日和が北の内郭に建つ女王の館に戻ると、老巫女が若い巫女に夕餉の膳を持たせ、巫女たちの厨房からやって来るところだった。老巫女は日和の前まで来ると、膳を持った巫女に膳を日和に渡すよう命じる。



「日和や、女王様のお食事じゃ。気を付けて運ぶのだぞ」


「わぁ、今日は栗があるのね」


「こら、早くお持ちせぬか。女王様をお待たせしてはならん」


「はいはい」



 日和以外の巫女たちは館のひとつめの部屋から奥に入ることができない。それは老巫女も同様なので、女王の食事はひとつめの部屋で日和が受け取り、奥まで運ぶことになっていた。


 日和は老巫女が巻き上げてくれた麻布をくぐり、長方形の部屋を抜けると、片手で御簾を捲り上げ、女王の居室へと入る。居室はいつも通り静まり返っていて、その中央に堆黒の机が置いてあるだけだった。


 膳を床に置くと、日和はその前に正座する。今晩の女王の食事は、蒸した玄米と干した鹿肉、ハマグリの潮汁、長芋の煮物、そして、栗が三つ。日和はそれらを眺めながら、ぱちんと鳴らすようにして両手を合わせた。



「いただきまーす」



 さっそく長芋の煮物を手掴みすると、口の中に放り込む。玄米は木製の器に装われていた。これも手掴みで口に放ると、冷えて固くなりかけている玄米を何度も噛み締めてから呑み込む。干し肉に齧り付き、力いっぱい奥歯で噛み締めて引き千切ると、ヤマグワの椀を手に取り、ハマグリの潮汁を啜った。



「よほど空腹だったんだね。飢えた狼みたいな食べっぷりだ」


「きっと俺以外の男なら、百年の恋も一時で冷めるな」


「兄上は冷めないのですか?」


「俺はむしろ惚れ直すね。よく食べる元気な女は嫌いじゃない。と言うより、好きだ!」



 振り返ると、御簾を捲り上げている二人。いつからそこにいたのだろうか、日和が食事を取っている様子を眺めていた。


 来たのなら来たと言えばいいのに、黙って見ているなんて失礼にも程がある。しかも、人の食べっぷりをああだこうだ好き勝手に言ってくれる。


 日和は二人を、キッと睨みつけ、飲み終えた汁椀を大きく腕を振って投げつけた。



「そこ、うるさい! 見て分かんないの? 今、食事中!! だいたい、なんで覇玖が奥まで入ってくるのよ。許してないわよ!」


「うおっ。あぶねぇな。物を投げるな。当たったら痛いじゃないか」


「痛がれ。存分に痛がれ。そうしたら、私が大笑いしてやるわよ。あははははは!」


「当たってないから笑うな。ちゃんと受け止めたからな、ほら!」



 日和が投げた椀を覇玖は掲げてみせる。悔しいことに、渾身の力を込めて投げつけたものを、覇玖は容易く片手で受け止めていた。



「まあまあ、いいじゃないの。兄上は女王の事情を知っているわけだし、僕たちの力になってくれるって言ってくれているんだからさ」


「そういうことだ。日和も須鞘も安心しろよ。俺は口が堅い。そんでもって、めちゃくちゃに頼りになる男だ。どんどん頼ってくれていいぞ」


「ねえ、須鞘。ものすごく堅い棒で頭を殴ったら、殴られた人は記憶を失ったりしないかしら? 私ね、今、覇玖に秘密を打ち明けたことをとっても後悔しているの」


「何故だ!」


「自分で自分のことを頼れる男だとか言うからだと思いますよ、兄上」



 ぽん、と須鞘は覇玖の肩に手を置いて御簾の中へと促した。日和と向かい合うように座る。



「あ、僕たちはもう食事を済ませて来たから気にしなくていいからね」


「言われなくてもあんたたちの食事なんてここでは出て来ないわよ。むしろ、そっちが私に気を使いなさい。私、食事中!」


「気にせず食えよ」


「食えるかぁーっ」



 日和は大声と共に両手でつくった拳を天井に向かって突き上げた。見られながら食事を取る気まずさったらない。気にするなと言う方が間違っている!


 仕方が無く日和は食事の手を休めて二人に話題を振ることにした。覇玖の顔をちらりと見やる。



「そう言えば、覇玖って、女王が衣紗と謁見した時に、女王の護衛として一緒に華那の集落に行ったのよね?」


「ああ、九年前のことだろ。衣紗の居館の前まで行ったぜ? でっけぇ黒塗りの御館だったっけなぁ」


「衣紗の居館は黒いんですか?」


「黒漆を塗ってあるんだ。あの時、日和も女王に従って一緒に行ったから覚えているだろう?」


「えっ。……ええっと、私はあんまり」



 覚えていないのだと言うと、覇玖はさも納得した様子で、わざとらしいほど深々と頷いた。



「だよなぁ。俺と会ったことさえ覚えていないんだもんなぁ。日和が衣紗の居館を覚えているはずがないよなぁ」


「何よ、失礼ね。だったら聞くけれど、覇玖は九年前に女王と一緒に華那まで行ったのでしょう? 当然、女王の顔を覚えているはずよね? 豊津原に来てからだいぶ経つけど、この集落で民として暮らしているはずの女王を見つけられないって、どういうことかしら?」


「あのなぁ。女王はずっと輿に乗っていたんだ。でかい箱みたいな輿で、めちゃくちゃ重そうなやつさ。男が六人がかりで汗だくになりながら輿を運んでいるのを見て俺は思ったね、中にいる女王はどんだけ肥えているんだ!! って。そういうわけで、いくら俺の記憶力が抜群でも、見てもいない女王の顔を覚えているわけがないだろ。その代り、女王の輿の横に付いて歩いていた日和のことなら、ものすごく覚えているぞ」


「そう。私って、女王の輿の横を歩いていたのね」


「おいおい。そんなことも覚えていないのかよ。日和こそ堅い棒で頭を殴られたんじゃないのか?」



 呆れたように言って覇玖は女王の膳に手を伸ばした。ひょいっと軽く栗をひとつ摘まみ上げる。あっ、と日和と須鞘が短く声を上げると同時に、覇玖は自分の口の中に栗を放り込んで笑った。



「ん。美味い!」


「ちょっと! なんで覇玖が食べてしまうのよ。私の食事よっ!」


「お前がなかなか食べないからいらないのかと思ってさ」


「いるわよ! 今から食べるところだったの!!」



 どんっと日和は拳を机に叩きつけた。


 栗は昨年の秋に収穫して食糧倉に保管して置いたもので、今年の秋までの一年間をかけて少しずつ消費していく貴重な食べ物だ。他のおかずならばまだ許せても、よりにもよって栗を食べられてしまうなんて! これが怒られずにいられるわけがなかった。


 じろりと日和が睨むと、覇玖は身を竦め震える真似をしながらも満足そうな表情だ。憎たらしい。



「返して。吐いて返して! 私の栗よ」


「ねぇ、日和。兄上が栗を吐いたら、日和はそれを食べるの?」


「食べないわよ! けど、覇玖のお腹の中に私の栗があることが許せないの!」


「日和って、栗が好きだものね」


「そうなのか。なら、秋になったらたくさん採ってきてやるよ」


「今、採って来い! 今!」


「今? 無理言うなよ。今行っても花しかねぇよ。ほら、吐いて返してやるからよぉ」


「吐くな! 返すな! 汚いっ!!」



 どっちだよ、と覇玖と須鞘がすかさず言葉を放つ。日和は、むっとしながら残った二つの栗を膳から取り、手の中に握り締めた。視線を覇玖から須鞘に移動させる。



「なんで分かったの、私が栗を好きなこと。黙っていたのに……」


「食事をしていた時に顔に出ていたよ。日和はすごく分かりやすい」


「うそ」


「本当。長芋を食べる前に一度、玄米を食べながら一度、そして、干し肉に手を伸ばす前に一度、栗に視線を向けていたよ。ああ、それから汁椀を呑む前に一瞬、栗に手を伸ばしかけたよね?」


「どんだけ、しっかり見ているのよ!」



 これだから須鞘は油断ならない。今年もたくさん採れるといいね、などとのんびりした口調で言っているが、須鞘は十一歳にして豊津原の副王となり、大人たちの間で揉まれてきた少年だ。武尊に従って戦場に出たこともある。十二歳で豊津原に移って以来、そこから出たことのない世間知らずな日和が適う相手ではなかった。


 それにしても、と覇玖が気持ち悪いくらいに頬を緩めて言う。



「日和の好物が栗だなんて嬉しいな。俺も栗が好きなんだ。好きな女と好きな物が同じだなんてこれ以上に嬉しいことはないよな!」


「覇玖兄上は本当に日和のことがお好きなんですね」


「おう、最初からそう言っているだろ。九年前からずっと日和のことを想い続けてきたんだ。それなのに、なんで日和は覚えてないかなぁ。栗が好きだって言うのなら俺のことも覚えていてくれてもいいじゃないか。――けど、仕方がない。どうしても思い出せないって言うのなら、これからたくさん俺との思い出をつくれば良いんだ。そして、日和。覚悟しろよ。絶対にお前を俺に惚れさせてやる!」



 びしっと人差し指を突き付けられ、日和は絶句した。覇玖の表情に嘘偽りの影はなく、その言葉は真冬の川の水のように清らかで純粋だ。


 もしも日和が日和ではなく、ごく普通の少女だったら喜んで彼のまっすぐな想いを受け入れたかもしれない。だが、今の日和には、彼の想いが純粋でまっすぐなほど、鋭利な刃物で胸を刺されているように感じられた。


 なぜこんなにも自分を好いてくれるのだろう。


 こんなにも、こんな自分を。



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