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天知るや 陽の御影  作者: 日向あおい
4/13

4、嵐の前

 

 日和の朝は女王の洗顔の水を汲みに行くことから始まる。水は館の裏の水甕に貯めてあるものを使えるので、集落の外を流れる川まで汲みに行く必要はなかった。


 水甕から土器の壺に水を移すと、ついでに自分の洗顔を済ませ、壺を抱えて館の奥に戻る。女王の居室は出てきた時と変わらず静まり返っていた。水を平たい器に移し、壺も器も堆黒の机の上に置く。机は、武尊が楽浪郡から取り寄せて女王にと贈り付けてきた品物で、居室の中央を堂々と陣取っていた。


 日和は伸びをしたり腕を振り回す運動をしながら、しばらく時間を潰す。それから器の水を壺に戻し、壺を持って館の外に出ると、草木に向かって壺の中の水を撒いた。


 豊津原の朝は、乳白色に包まれている。まるで水中にいるかのように霧が深かった。


 しっとりと水分を含んで重くなった黒髪を、日和は木綿でひとつにくくる。姿無く囀っていた鳥の声が不意にやんで名を呼ばれた。見やると、霧の中から溶け出すように老巫女が現れる。



「日和や、今朝は女王様からお言葉を頂けたのかい?」


「おはよう、オババ。まだよ。女王様は何もおっしゃらないわ」


「まったく困ったものよ。すでに田植えの時期だろうに」



 老巫女は緩やかに頭を左右に振ると、日和の前を通り過ぎ、再び霧の中へと姿を消していった。


 豊津原では今、誰もが女王の言葉を待っている。


 朝霧が晴れれば、豊津原は暖かな黄色に抱かれた。まるで陽だまりに染まったかのような菜の花が青々とした野原に咲き乱れ、優しく柔らかな香りを放っている。――オババの言う通り田植えの時期だった。


 だが、豊津原では女王の号令なく田植えをすることができない。春は嵐が多いからだ。せっかく植えた苗が雨風に流されてしまうことも少なくなかった。故に皆、天を読むことのできる女王の言葉に従うのだ。


 女王は毎年、苗が水田に強く根を張るまで嵐が来ない時期を占い、その結果を日和の口を通して皆に告げていた。ところが、今年に限っては女王の言葉が未だ無い。よその集落では既に田植えを済ませたらしいと聞けば、男も女も気が急くようで、皆、日和の顔を見る度に尋ねねばいられない様子だった。  


 日和は昨晩の月の形と星の位置を思い出しながら、指折り日数を数える。



(そろそろなんだけど……、まだなのよね)



 須鞘も日和の事情をよく分かっているはずなのに、近頃では田植えを急がせるようなことを言い始めていた。おそらく須鞘は長老たちから毎日のように急かされているのだろう。


 だけど、こればかりは事を慎重に進めなければならなかった。もし日和が判断を誤れば、今年の米の収穫が無くなってしまうからだ。そうなれば、豊津原の民は皆、飢えて死んでしまうだろう。


 しかし、問題はそれだけではなかった。日和の誤った判断は、女王の権威を失墜させる。日和も須鞘も、そして武尊も、そのことを何よりも恐れていた。



(私がしてはならないことは、誤った判断。私がすべきことは、女王の奇跡を作り上げること。それだけはいつも胸に刻んでおかなくっちゃ)



 この時代、人々は何よりも神々の力に畏れを抱いていた。炎の神、川の神、豊穣の神、疫病の神。あまたの神々がいるが、いずれの神も共通して言えることは、機嫌を損ねると非常に厄介であるということだ。


 故に、神々に愛されているということは、人の上に立つ者の絶対条件であった。神々に疎まれた王の國は、日照りが襲い、病が流行り、多くの民が飢えて死ぬと強く信じられている。


 また、神々に愛される王は、その愛の証に奇跡を起こすことができると信じられていた。


 奇跡。――それは大小さまざまあるが、誰の目にもはっきりと分かるものの方が良いに決まっている。


 太陽が豊津原の真上に昇った頃、日和は数人の巫女たちと共に水で満たした壺をいくつか抱えて館から外に出た。北の内郭を囲む城柵には既に人だかりができていて、彼らは日和の姿を見ると、我先にと城柵の内に入ろうとし、声を張り上げて日和を呼ぶ。



「巫女殿、診てください。わたしの祖父の病を。眩暈がすると言って、体を起こしていることがとてもつらそうなのです」


「巫女殿、わたしの母を診てください。腕が痛くて上がらないと泣くのです」



 巫女殿、巫女殿、と自分を呼ぶ声を制して日和は人々の顔をぐるりと見渡す。怪我人と病人、そして、その家族が集まっていた。彼らは皆、女王が怪我も病も治してくれると信じている。


 ――これこそが日和が作り上げた奇跡だった。


 巫女たちの指示で、咳が止まらない女が日和の前に進み出て来ると、日和は彼女の訴えを聞き、ヤマグワの根皮を乾燥させ粉末にしたものを彼女に与える。



「女王様を信じて飲みなさい。必ず良くなるでしょう」


「ありがとうございます。ありがとうございます。女王様に感謝します」



 何度も頭を下げながら女が後ろへと退いた。すると、今度は、高熱が下がらない子供を抱いた母親が前に進み出てくる。日和は詳しく聞いた症状から薬草を選び、煎じて渡してやった。



「女王様を信じて飲みなさい」



 このように女王が民の怪我と病を看ているのだということを印象付けて、日和が薬学書で学んだ処方を施していた。


 日和に薬草を煎じて貰えた者は大方、症状が改善し、女王の力で治ったと喜ぶ。その喜びが大きければ大きいほど他人に話したくては堪らなくなり、やがて豊津原の女王はどんな怪我も病も奇跡を起こして治すことができるという噂が広まった。今では、よその集落からわざわざ女王を頼って来る者も少なくない。



「巫女殿、女王様にお尋ねください。わしの足は治りますでしょうか」



 日和の前に足の悪い男がよろつきながら前に進み出てきた。日和は男の訴えを聞くと、しばし考え込み、水で満たした壺を差し出す。



「女王様が神々から授けられた神水です。この神水を毎日お飲みなさい」


「おお、神水だ」


「神水とは羨ましい」


「ありがたや。ありがたや」



 周囲から歓声が上がり、男も感極まったような表情を浮かべる。額を地面に擦り付けながら両腕だけを高く上げて壺を受け取った。


 そんな人々の様子を日和は苦々しく思う。なぜなら神水だと告げて手渡した水は、女王の館の裏の水甕に溜め置かれていたものを壺に移しただけの、ただの水だからだ。


 日和が持っている薬学書にすべての病が書き記されているわけではなく、どうしても書物とは異なった症状を訴えてくる者がいる。また、書物に記された薬草が手には入らない場合もあった。だが、だからといって、怪我人や病人を前にして『何もできない』と言うことは、日和には許されないことだった。――故の神水なのである。



「女王様が神々から授けられた神水です。この神水を毎日お飲みなさい」



 そう言って恭しく差し出せば、皆、その水さえ飲めば病や怪我が治ると信じて、額を地面に擦り付けながら受け取る。


 不思議なことに、薬学書では治せないと判断した者たちが、この神水を飲んで本当に完治することが稀にあって日和さえも驚かせる。おそらく、神水さえ飲めば必ず治ると強く信じる気持ちが病を払い退けたのだろう。


 その上、彼らは日和が煎じた薬よりも、ただの水である神水の方をありがたがった。とは言え、神水を不必要にばら撒くつもりは無い。その日の分の薬草が尽きると、どんなに人々が縋って来ても、日和は女王の館の奥に隠れた。


 女王に救いを求める人々の声と、彼らを宥める巫女たちの声を聞きながら日和は女王の居室に向かう。日暮れ前の数時間はいつも女王の居室で書物を読んで過ごしていた。特に薬学書を。


 今日、訴えを聞いて貰えなかった怪我人や病人は、明日も北の内郭の城柵に救いを求めてやって来ることだろう。彼らにはできるだけ、神水ではなく薬草を煎じて飲ませてやりたかった。


 そう思い、堆黒の机の前に腰を下ろした日和だったが、わずかもしないうちに自分を呼ぶ声に気が付く。手にしていた薬学書を机の上に戻して、部屋の入口に振り返った。



「日和、大変だ! 思いがけないことが起きたよ!」



 須鞘にしては珍しく興奮した様子で葦の御簾を払い上げて部屋に入ってくる。



「冨彌國から使者が来たんだ。使者は富彌國王の息子で、自分を女王の婿候補として認めて欲しいって言ってきている」


「ちょっとそれどういうこと?」


「とにかく彼と話してくれないかな。女王との謁見を求めているんだよ」


「そんなの断ればいいでしょ」


「覇玖兄上のようにはいかなくて。女王の一番弟子の日和から、びしっと言って貰えれば、諦めてくれるかもしれない」


「須鞘は副王じゃないの! 毅然とした態度で、ちゃんと断りなさいよ」


「だって、よその國の王の息子なんだ。よその國から見れば、僕は副王とは名ばかりの、実質上、投馬國に属する、いち集落の副首長だ。強くは出られないよ」


「もうっ!」



 日和は、ばんっと音を立てて両手を堆黒の机につくと、弾みをつけて立ち上がった。御簾を払い上げ、ずかずかと次の部屋を突っ切る。


 須鞘の言う通り、豊津原では副王を名乗っていても、よその國の者から見たら豊津原は投馬國の内のひとつの集落に過ぎず、須鞘は副王どころか副首長に値する。投馬國王の息子として他國の王族と対等に話すことはできても、強気に物を言える立場にはなかった。


 そうだと頭では理解していても日和は、須鞘に故意に面倒事を押し付けられたような気がしてならない。須鞘には時々、自分ひとりでも解決できることなのに、わざと日和に判断を委ねるところがあった。今回もきっと、そういうことなのだろう。


 部屋を仕切る麻布の前まで来ると、日和はぴたりと歩みを止めた。どんなに頭に血が上っていても、この場所で須鞘を待つことは忘れてはならない。この麻布の外に出れば、日和は須鞘の後ろを歩き、けして前に出てはならなかった。


 顎で須鞘に先を譲ると、麻布をくぐり、巫女たちが待機する細長い部屋に出る。両脇に一人ずつ一定の間隔を置いて座る巫女たちはいつものように須鞘が前を通り掛かると、床に額をつけるようにして深く頭を下げた。そして、須鞘が完全に過ぎ去ると、ゆっくりと上体を起こし、日和に視線を向けて眉を顰める。


 自分では抑えているつもりだったが、抑え切れない機嫌の悪さが彼女たちに伝わってしまったようだ。気まずさから日和は彼女たちを視野に入れないようにして女王の館から外に出た。


 生暖かい風が西から東へと駆け抜けていく。すぐに日和は辺りの異様な雰囲気を感じ取って、即座に空を仰いだ。雲の流れが不気味なほどに速い。西の空から迫りくる暗雲は、まるで荒れ狂う濁流のようだ。心なしか、肌にまとわりつく大気がじっとりと濡れているように感じた。嫌な気分だ。



(もしかして)



 すぐさま頭の中で日数の計算を始める。昨夜、眺めた月の形と漢国の暦、そして、日和自身が数年をかけて記した豊津原の天候録を思い出す。



(嵐が来る! 間違いない!!)



 ごくりと、喉が鳴った。


 それは日和の読み通りであったが、嵐はけして歓迎すべき客ではない。田畑を荒らし、人家を破壊するからだ。だが、それだけではない。毎度多くの怪我人と、運が悪ければ死者が出る。嵐という天災はそういうものだった。


 ――かと言って、運が悪かったと嘆いて諦めるわけにはいかない。豊津原の支配者として、豊津原を護るためのできる限りをしなければならなかった。



「須鞘、嵐が来るわ。嵐に備えるよう皆に命じなければ」


「なんだって? 嵐が?」


「早く。今にも雨が降り出してしまう」


「わかった。そっちは僕に任せて。日和は客人の方を頼むよ」


「今どこにいるの? 正門?」


「まさか。丁重に南の内郭にご案内したよ。覇玖兄上が話し相手をしてくれている」


「ちょっと! 客人に客人の相手を頼んでどうするつもりよ!?」


「だって、他に頼める人がいなかったんだ」


「もういい。行って!」



 片手を払って須鞘を追い立てると、日和は南の内郭へと急いだ。みるみるうちに辺りが暗くなっていく。まだ日暮れ前だと言うのにまるで夜のようだ。そして、日和が南の内郭の来賓所にたどり着いた頃には、砂を巻き上げるような強い風が吹き始めていた。


 豊津原で『来賓所』と呼ばれる建物は、そのように大層な呼び方をされているわりに、庶民の住まいと変わらぬ竪穴の建物である。須鞘の住まいよりいくらか大きいといった程度だ。


 日和は声を掛けてから入口の麻布をめくり上げた。近付く嵐のせいか、中はひどく暗い。目を凝らし見渡せば、手前に覇玖が、奥に青年がひとりいることが分かった。



「灯りをお持ちしましょう」


「いや、その前に紹介が先だ。日和、もっと中へ」



 火を取りに行こうとする日和を覇玖が引き留める。その表情がいかにも必死で、天からの救いに縋り付くような様子だったので、日和は覇玖に従って入口の梯子を降りた。


 おそらく覇玖は、須鞘から客人の相手を頼まれたものの、女王との婚姻を望む者の相手をすることに気まずさを感じていたのだろう。覇玖もまた、女王の婿候補という立場にあるからだ。


 地面に藁を敷き詰めただけの床に胡座をかいて座る彼らを一瞥してから、日和は覇玖の一歩後ろに腰を下ろした。


 闇に目が慣れてくると、しだいに青年の顔がはっきりと見えてくる。覇玖と同じような年頃だ。横幅衣を腰に巻き付けただけの格好をしており、刺青が施された上半身を大きく晒している。



「この娘が先ほど話した女王の一番弟子の巫女――日和だ。女王に一番近い存在で、いつでも自由に女王と謁見できるのは、この日和だけなのだそうだ」



 覇玖が客人に日和を紹介すれば、日和は覇玖の言葉に合わせて頭を深く下げた。


 覇玖が豊津原に来てから七日が経っていた。その間に彼が豊津原で思い知ったことは、噂以上に豊津原の女王が人前に姿を現さないということだ。七日も豊津原で暮らしているというのに、覇玖は未だに女王の影すら見ることが叶わなかった。


 豊津原の女王に会うことは、大海を渡るよりも難しい。――そう暗に言って覇玖は、客人を見やる。その眼差しは、彼にしては珍しく真剣なもので、相手を牽制しているのか、彼の父親の武尊を思い起こさせるような鋭いものだった。ところが。



「では、女王に会うためには彼女の許可が必要なのだな? 俺は富彌國の八潮やしお。女王に会わせてくれ! すぐにでも求婚したい。女王を妻にするのは、この俺だ」



 日和はわずかに気押される。覇玖の牽制がまるで効いていないではないか。ちらりと視線を覇玖に向ければ、覇玖は先ほどの鋭さが嘘のように目を線のように細めて腑抜けた表情を浮かべている。心なしか体が斜めに傾いているような。



(完全に投げたな)



 このやろう、と胸の内で悪態をついて、日和は両手を前に突き出した。



「女王に会うことは叶いません。女王がそれを望まない限り、何者であろうと謁見は叶わないのです。――おそらく今宵は嵐になるでしょう。ここに留まられるのが安全かと思います。ですが、明日以降のことはお考えください。その結果もし豊津原に長期滞在をお望みでしたら、住まいを用意させて頂きます」



 ぴしゃりと言って日和は立ち上がる。そして、麻裳についた藁を軽く払い落としながら、さらに続けた。



「豊津原に滞在なさるのでしたら、女王の婿候補として、そちらの覇玖様同様の扱いをさせて頂きます。しかし、明日去られるのでしたら、それまでの縁。また、女王が不要だと判断なさった場合もそこまでの縁だったとご承知ください」 



 感情の温度を見せず淡々と、相手が口を挟む余地を与えないように言葉を放つと、日和は梯子を上がり入口の麻布をめくった。生暖かい風が吹き抜ける。外に出て麻布から手を放すと、麻布は風に踊らされ、ばたばたと激しい音を立てた。



「嵐か……」



 すぐ背後で呟きが漏らされて日和は振り返った。踊り狂う麻布を片手で捕らえ、覇玖も外に出てくる。再び自由になった麻布が騒ぎ立てる声を聞きながら、覇玖は日和の風上に立った。



「女王の館に戻るんだろ? 途中まで送るよ」


「結構です」


「そう言うなよ。だいたい、なんてそんなに素っ気ないんだ。もう七日も経っているんだぞ。いくら昔の記憶が無いからって、七日間も会って話していれば、もう少し仲良く打ち解けてくれたっていいじゃないか」


「……」


「そこで黙るな。泣くぞ、俺は」


「分かりました。覇玖様が泣かれない程度には努力します」


「おう、じゃあさ、まず『覇玖様』はやめようぜ? 覇玖って呼んでくれ。そんでもって、堅苦しい口調もやめような」


「……」


「うぉっ、また黙った! その無言は拒絶なのか!? 俺に対する拒絶なのか!?」



 とってもよく分かっているではないか。日和は眉間に皺を寄せて足早に歩み始める。覇玖を置き去りにするつもりだった。


 ところが、覇玖は長い脚を悠々と運びながら、日和に追いついてくる。日和は足が早いなぁ、などと呑気な口調で言ってくるから腹が立った。


 風が強い。あっという間に髪を乱されて、日和は頭の後ろで髪を結っていた木綿を失った。ばさばさと長い黒髪が風に煽られ広がる。その髪を日和が両手で押さえ付ければ、不埒な風は袖を強く引いて日和を転ばせようとしたり、麻裳を大きくめくり日和を辱めようとするから堪らない。


 髪の乱れと覇玖を置き去りにする計画を断念して、ついでに覇玖に対して丁寧に応答する気力さえ失いつつ、日和は麻裳の両端を握り締めるようにして地面を踏み締め歩いた。



「なぁんだ、ゆっくり歩けるじゃないか。それとも風に煽られていたのか? 日和は軽そうだからなぁ」


「……」


「それにしても、こんな風じゃあ住まいを吹き飛ばされて失う者が出てきそうだな」


「……そうね」


「けど、壊れたものは何度でも作り直せばいい。問題は、潰された家屋の下敷きになることだ」


「ご心配なく。少しでも頑丈な建物に避難するよう命じているわ。風に飛ばされ凶器になりそうな物――甕などは室内に移動するように副王や大人たちが指示を出しているはずだし」


「なるほどな。それでさっきから須鞘の姿がないわけだ。見つけたらただじゃおかないと思っていたところだ。この俺に客人の相手なんかさせやがって」


「まったくよね。須鞘ったら、いくら兄弟だからって、なんで貴方みたいな人に接客を頼んだのかしら。――でも、助かったわ。ありがとう」


「どういたしまして……って、おいっ。俺みたいな人っていったい何なんだよ」



 日和は顔を背け答えなかった。


 二人の兵士が護る城柵の出入り口をくぐり南の内郭から出ると、城柵に添うように歩みながら北の内郭に向かう。



「まあ、いいさ。そんなことよりも富彌國の王子のことだ。それと、俺のことも。――親父殿の思惑が分かったような気がする」


「はぁ? たけっ……投馬國王の思惑?」



 思わず口にしてしまった武尊の名を慌てて言い直すと、日和は覇玖をそろりと仰ぎ見る。一介の巫女が大國の王を呼び捨てにする不自然さに覇玖は気付いてしまっただろうか。


 否、気付いていない様子だ。丁度良い時に強い風が吹き、日和の声を消し去ってくれたらしい。ごうごうと燻るような風が耳を打つ。



「親父殿の思惑通り事が運んでいるのだとしたら、他の國々からも女王の婿候補とやらが押しかけてくるはずだ」


「まさか」


「そもそも俺を『婿』とせず、『婿候補』としたことから胡散臭い。俺が婿候補として豊津原に来たことで、現状がどうなっているのか考えてみろよ。女王が婿取りできる年頃になったことと、まだ正式な婿が決まっていないことが周辺の國々に明らかになった。そうだろ?」


「それは、そうだけど。……でも、それでどんな利益があるの?」



 投馬國王がやることに無駄なことなど無いはずだ。そう告げれば、覇玖もはっきりと頷いた。



「おそらく、ていの良い人質なんだろうな」


「人質?」


「華那にいる女王は既に夫がいるだろう? 耶羅國王のように予言の女王を妻にしたいと思っている男は大勢いる。そこに、まだ幼いと思われていた豊津原の女王が婿取りを始めたと聞けば、名乗り上げない理由はない」



 北の内郭を囲む城柵が見えてきた。すると、その城柵の内に入ることを許されていない覇玖の歩みが遅くなる。こんな中途半端な状態で覇玖との会話を終わらせる気がない日和も歩みを緩め、覇玖の次の言葉を待った。



「豊津原の女王の婿に名乗りを上げることがどういう意味を成すか。それは、華那の女王に背を向け、耶羅國と敵対するということだ。おそらく親父殿の狙いは、婿候補を豊津原に差し出すことができる國はどこなのか、敵か味方かをはっきりさせること。そして、豊津原の女王が華那の女王に対抗できる力を手にすることだ」



 ぴたりと日和の足が止まる。体ごと大きく覇玖に振り返った。



「もし本当にそれが投馬國王の狙いだとしたら、今、女王がすべきことは……」


「夫を選ばないことだ。すべての男に可能性があるような素振りを見せ、できるだけ多くの男を、そして國を、女王の懐に入れること。その國の要人が女王の婿候補として豊津原にいる限り、その國は女王を裏切らないだろうから」



 覇玖も城柵の入り口を護る二人の兵士の前で立ち止まり、そして、城柵の内側にそびえる女王の館に視線を向ける。



「だが、気を付けろと女王に伝えてくれ。富彌國の八潮は、親父殿の思惑など知らない。また、知っていたとしても関係がない。自分こそが女王を手に入れるのだと、強い意志を持ってやって来ている。女王を手に入れれば、女王の力を利用して他の王たちを支配することができるからな。そういう輩は何をしでかすか分かったもんじゃない。強引に仕掛けてくるかもしれないぞ」


「仕掛けてくる、って?」



 何をと聞き返した日和の言葉は、どうやら覇玖の耳には届かなかったらしい。覇玖は日和を城柵の内へと促した。


 ぽつり、ぽつりと、大粒の滴が日和の頬に落ちる。地面に目を落とせば、黄土色に渇いた土に濃い茶の円模様がいくつも描かれ始めていた。やがて水甕をぶち撒いたような大雨が豊津原を襲い、日和の視野は乳白色のしゃに覆われたようになる。


 建物の中へと駆け込む巫女たちの喧噪を聞きながら、日和は再び覇玖を振り返った。彼は城柵の外から日和を見つめ返し、早く館の中に入れと顎をしゃくる。もう一度問いかけようと日和が薄く口を開くよりも、覇玖が踵を返す方が早かった。南の内郭に用意された彼の住まいへと走り去っていく。


 ――日和には覇玖が何を心配しているのか、分からなかった。



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