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天知るや 陽の御影  作者: 日向あおい
12/13

12、逃亡と再起

 森の囁きとも違う、雨の奏でとも違う音が、ごうごうと聞こえて来る。それが川の呻りだと気付いたのは穂積だった。顔に掛かってくる枝を切り払いながら先頭を進んでいた穂積の視界に、大きく渦を描きながら北から南へと流れ行く川が現れる。


 森から出て砂利の敷かれた川原を歩き進むと、砂利に埋もれ隠れるように放置された古びた小舟を見つけた。



「使えます。川の水位も十分です。きっと雨が降る前でしたら舟など浮かべられませんでした」



 衣紗の雨が自分たちを逃がしてくれる、と皮肉めいた物言いをして穂積が笑った。


 日和も小舟を覗き込む。どれほどの歳月をこの小舟はこの場所で過ごしたのだろうか。深く積もった埃が小舟を置き去りにして過ぎ去った時間を感じさせた。


 埃を払い落としながら小舟に乗り込むと、干し肉が詰め込まれた皮袋を見つける。もちろん古くなり過ぎていてとても口にはできない。



「この小舟で川を下って逃げようとした者が過去にいたのかもしれないわね」



 その者が無事に逃げられたかどうかは、放置された小舟を見れば察することができる。そして、そのおかげで日和たちが逃げられるのだと思えば、何とも感慨深かった。


 久しぶりの雨を喜び荒れ狂う川に小舟を浮かべると、小舟は日和たちを乗せて坂道を滑り落ちるように川の道を駆け始めた。川は華那の集落の東を沿うように流れ、やがて集落から遠ざかると、山々の狭間を縫うように流れる。


 そびえるほど高い山から次第に椀を逆さにしたようななだらかな低い山へと景色が移り、その頃になると、雨はだいぶ小降りになっていた。日和は濡れた前髪を掻き分け、顔を手のひらで拭う。


 このまま何事もなく進めば、朝陽が昇る頃には波里國に入ることができると覇玖が言った。僅かに小舟から身を乗り出すと、覇玖は川のずっと先を指さす。



「日和、この川はな、波里國の集落の南を流れて海に出るんだ。このまま小舟に乗っていれば海を見られるぞ」


「そう……。海ね」


「女王でいることに恐れを抱いているのなら、俺と一緒に海を渡ってみないか? 大陸で住まいを見つけて一緒に暮らすんだ」



 気の無い返事を返せば、覇玖が不可解なことを言い出した。日和が片眉を歪めて覇玖を見やると、覇玖は振り返って、にかりと子供のように無邪気な笑みを浮かべる。



「生きている意味が分からないと言ったな? そんな理由で生きていることをやめたくなるのなら、俺が日和の生きる意味になってやる。お前は俺を幸せにするために生きるんだ。俺を幸せにできるのはお前だけだ。お前が死ぬば、俺も死にたくなる。だから、お前が女王だと知っている者が誰もいない土地で、俺と一緒に暮らそう。夫婦になって子を儲け、子を育てながら田畑を耕して毎日たらふくメシを食うんだ。そうやって俺と暮らそう」


「そんなこと、できるはずがない」


「できるさ。簡単だ。このままこの小舟に乗っていればいい。豊津原に帰らなければいいんだ。俺はさ、日和が女王でなくとも構わない。ただ日和が楽しそうに笑って生きていてくれれば、それでいい」



 最後の力を振り絞るように、しとしとと降り続いていた雨が、いつの間にか止んでいた。小舟は緩やかな風を切るように進む。日和は瞼を閉ざして覇玖が語る未来を思い浮かべてみた。


 誰もが日和を女王だとは思わない土地で、日和は覇玖の子を産み育て、田畑を耕しながら生きていく。それは平穏で幸福な夢のような日々である気がした。想像しただけで胸が熱くなって、頬が緩んでしまう。



「どうして覇玖は、こんな私を好いてくれるの?」


「こんなとか言うな。――投馬の集落で日和を初めて見た時から好きだった。白状するけど、以前、須鞘が言っていた通りなんだ。最初は俺の一方的な『出会い』だったよ。城柵越しに日和を見た。日和は神殿から外に出ることが無かったから、ずっと眺めていることしかできなかったんだ。なんて言うか、神殿には女王に仕える巫女がたくさんいたけど、城柵越しに見つめる日和は他の巫女たちとは違っていて、キラキラ輝いて見えた」


「キラキラ?」


「そう、キラキラ。日和だけが異質に見えたんだ。それから女王が衣紗に謁見することになって、俺は迷わず女王の護衛に立候補した。きっと日和も女王に付き添って華那の集落に行くと思ったからだ。城柵越しではない日和に会える。もしかしたら言葉を交わすことができるかもしれない。そう思った」



 日和は覇玖の言葉を聞きながら朧げな記憶を手繰り寄せようとする。すると、不意に胸騒ぎを覚えて胸元を抑えた。今にも衣紗の喚き声が頭の中で響き渡りそうになる。嫌なものを振り払うように頭を左右に振って、日和は覇玖に尋ねた。



「それで、その時、覇玖は私と言葉を交わすことができたの?」


「ああ、華那の集落からの帰り道にな。日和は女王の輿のすぐ傍らを歩いていて、今にも倒れそうなくらいに青白い顔をしていた。だから、俺が駆け寄って声を掛けたんだ。大丈夫か、って」



 そうか、と日和は理解する。過去に覇玖と出会った記憶がないのは、衣紗との対面後だったからだ。衣紗から浴びせられた罵声に大きな衝撃を受けた日和は、その後の記憶が曖昧になってしまっていた。どうやって投馬の集落まで帰ったのか、そんなことさえ覚えていない。


 申し訳なく思って口を閉ざし俯いていると、ほら、と言って覇玖が小さな何かを差し出して来た。見れば、それは栗だった。いったいいつからどこに隠し持っていたのだろうか。訝しげに見やれば、覇玖はへらりと悪戯っ子の笑みを浮かべた。



「あの時も俺は自分の非常食にと栗を懐に隠し持っていて、それをお前に差し出したんだ。お前は食べたくないって言っていたんだけど、俺が無理やり口の中に突っ込んでやったんだ。そしたら、お前、ものすごく怒ってさ。何度も何度も叩いてきて大変だったんだ。でも、すぐに日和はそんな風に怒っている自分自身に驚いた表情をして、突然けらけらと笑い出した」



 覇玖は思い出の中の幼い日和を脳裏に浮かべて、彼女と同じようにけらけらと笑った。



「それで、俺はますます日和が好きになって、もっともっといろんな表情が見たいと思ったんだ。だからさ、ほら。そんな悲痛そうな顔ばかりしていないで、この栗を食えよ」



 ぐいっと再び差し出された栗を日和は受け取ると、促されるままに口の中に放り込む。噛み砕くと、柔らかな甘みと極上の優しさが口の中に広がって、日和は小さく微笑んだ。


 覇玖が満足そうに目を細めて言う。



「ほらな。好物を食うと、幸せな気分になる。きっと人はそのために生きているんだ。だから俺たちは自分の腹と大切な相手の腹、そして、俺たちの周囲にいるひとりでも多くの者たちの腹を満たすために生きればいい」


「自分と大切な相手と、……ひとりでも多くの者たち?」



 こくんと喉を鳴らしてから日和は覇玖の言葉を繰り返した。 


 その時、日和は辺りが明るみ始めていることに気が付いた。東の空を振り返る。すると、今まさに必死に逃げてきた華那の山々の狭間から燃えるような朝陽が生まれ出てくるのが見えた。朝陽はみるみるうちに丸い形を露わにし、空高く昇り始める。赤よりもなお激しく燃え、もはや人の目には眩しすぎると、日和は朝陽から顔を背け、視線を川に移した。


 川には朝陽が散らした光の欠片でいっぱいだ。欠片は小舟を追うようにキラキラと輝き、日和の気を引こうとする。


 日和は、もう一度、東の空を仰ぎ見た。そして、意を決したように言葉を放つ。



「私、豊津原に帰るわ」



 自分自身で選び取った答えが声となって耳に響く。ただそれだけで日和は満たされた想いがした。


 おそらく覇玖は日和が本心から望めば、遠い地まで日和を連れて去ってくれたに違いない。夢のような未来を選択することが日和にはできたのだ。そう思えばこそ日和は、ひとりでも多くの者たちの腹を満たすために豊津原に帰ることを選んだ。



「私らしく生きたいと思っていた。本当の私をさらけ出して、堂々と生きたいって」



 女王であることを隠して生きている今はすべてが偽りで、本当の自分はこんなんじゃない。本当の自分をみんなに知って貰いたいと願うように思っていた。


 だけど、と日和はまるで独り言のように呟いた。



「みんな知っていたのよね、私が女王だって。だから、みんなにとって私はいつだって私でしかなかったのよ」



 巫女であり続けようと、今さら女王だと名乗ろうと、栗が好物であることが変わらぬように、日和の性格が大きく変わるわけではない。結局、日和は日和が選択した生き方を力いっぱいに生きていくだけだ。


 穂積が小舟を岸に寄せて、辺りを窺いながら小舟から降りた。続いて覇玖が降りて、彼の手を借りながら日和も小舟から降りると、陽射しを全身に浴びるように大きく体を伸ばす。両手を陽に向かってかざせば、白く輝くそれを掴めそうな気がした。


 日和は光に向かって歩き出す。



「ねぇ、覇玖。武尊よりも大きくなって。千隼よりも強くなって」


「なんだ、女王命令か?」


「そうよ、女王命令よ。大きく強くなって私の傍にいなさい」


「そしたら、女王様は俺の想いを受け入れてくださるのかな?」


「いいえ、都合良い時に顎で使うだけよ」


「なんだそりゃぁ」


「それでも私、覇玖のことが好きよ。だから私の傍にいて、いつでも私を連れ去る準備をしておいて」



 覇玖はわずかに瞳を見開き表情を固めてから破顔する。


 そんな準備は必要ないだろ、と言って。










 衣紗は自分のもとから逃げ出した日和を捕えようと、波里國と支惟國に使者が送りつけた。波里國王と支惟國王は衣紗に従って即座に追っ手を差し向けるが、日和たちはそれらをすべて回避し、波里國を抜けて支惟國と投馬國の境にたどりつく。


 一度は、あわやと思う事態にも遭い、日和自ら使い慣れない剣を握らなければならない時もあった。


 人の肉に刃物を突きつけ、肉を切り裂く。そこから溢れ出た暖かい血に手が染まれば、冷たい川の水でいくら手を洗っても、生暖かいその感触はいつまでも消えず、今まで人の死を目の前で見たことが無かったわけでもないのに、人が死ぬ、人を殺すということを改めてこういうものなのだと、日和は知った。


 疾うに失ってしまった履物のせいで足が傷だらけだ。腕にも肩にも、いつ負ったのか分からない傷がたくさんある。それらは十分な手当てができず、傷口に泥が入り込み、まるで刺青のようになっていた。


 身に纏った貫頭衣は誰のものか分からない血で汚れ、嫌な臭いを放っている。だが、それでも日和は生きていた。生きて、あともう少し――川に沿って南に下れば豊津原だというところまでたどり着くと、そこで砂塵を巻き上げ近づいてくる大きな影に気が付いた。日和も覇玖も一瞬、息を詰める。新たな追手だと思ったのだ。


 ところが、影は日和たちの後方ではなく北から近づいてくる。やがて砂塵を払って姿を明らかにした人物に覇玖が大声を上げて日和の肩を抱いた。



「助かった! 日和、助かったぞ!」



 浅黒い肌をした体格の良い男が、墨で描いたような大きな黒馬に跨って駆けてくる。真新しい白絹は遠目にも眩しく見え、片手を添えて肩に担いだ大剣は一振りで数人の首を一度に撥ねられそうな重量感があった。あんな大剣を自在に扱える者など、日和の知る限り一人だけだ。日和はその人物が自分のもとに駆けてくるのを立ち尽くして待った。


 大きな山が覆い被さって来たかのように日和の視野が陰り、黒馬の嘶きが響く。



「大変な旅になったな、日和」

「武尊……っ」



 黒馬から降り立った男の名を呼べば、もう大丈夫なのだという安心感に熱いものが込み上げてきた。日和は、ぐっと下唇を噛みしめる。すっかり緊張の糸が切れてしまい、今にもその場に座り込みそうだった。


 この男に関しての不満はいろいろと尽きないが、実際に会ってしまえば、いつも日和は幼い子供に戻ってしまう。分厚い胸板に抱きついて、大きな手で頭を撫でて貰いたい。よく頑張ったと言って貰いたくて、自分に起きたことをあれこれ話して聞かせたい。そんな衝動が全身を駆け巡り、心を荒れ狂わせた。


 だが、もはやこの男に甘えたりなどしない。一方的に甘えたり護って貰うのではなく、背を預けられる相手を他に見つけたからだ。


 手のひらで顔についた泥を力強く拭い、日和は顔を上げた。



「戦になるわ。――いいえ、戦をするわ。人が不条理に死なない国をつくるために、数十年続いた争乱を終わらせるために、最後の戦をするわ」


「ようやく逃げることも隠れることもやめたか」


「投馬國王、武尊に命令を下します。ここに陣を敷いて、女王に仇なす者たちを打倒しなさい」



 武尊は鋭い眼光を驚きに染めて日和を見下ろす。そして、膝を折って頭を垂れた。



「御意に」








 数日後、衣紗は耶羅國を含めた十二の國々に号令を発して挙兵させると、支惟國の東に広がった平地に陣を敷き、先に陣を敷いていた投馬軍と睨み合うかたちになった。


 さらに数日後、今度は日和が各地に号令を発する。これに応えたのは、富彌國、一支國、烏那國、津島國、九夜國、そして、伊都國であった。この伊都國王の参戦は、敵を動揺させ、味方さえも驚愕させる。


 血筋を辿れば、伊都國王は日和の祖父にあたる人物であるが、伊都國王と武尊の間には明琉をめぐる確執があった。故に、これまで伊都國王は衣紗の味方にはならなかったが、同時に武尊を後見人に持つ日和の味方にもならなかったのである。



「なぜ、私を助けてくださるのですか?」



 戦支度に沸き立つ軍営で、唯一、穏やかに時間が流れるのは、この老人の周りだけに違いない。そう思わせるような、どっしりと大きく構えた老王であった。武尊を始めとする王たちが軍議を行っている天幕に伊都國の老王を案内しながら日和が尋ねると、老王は日和の武装姿に瞳を細める。


 日和は動き難い裳を脱ぎ捨て、貫頭衣の上に鹿皮の胸当てを身に着けていた。長く伸ばされた黒髪は頭の後ろでひとつに束ね、高く結い上げている。装飾品は、たったひとつ。錦の紐に通した瑪瑙の勾玉の首飾りだけだ。


 老王は日和の後ろに控えた護衛を指す。その指先を追って振り返れば、穂積がニヤリと笑みを浮かべた。



「あれは儂の末の息子でな、二年前から女王の動向を探らせていた」


「え、まさか穂積が? だって、そんな素振りは一度も……」



 日和の驚く様を見て老王はくつくつと笑い、言う。



「あれが衣紗ではなく、女王に味方せよと申すのでな」


「あの者を信頼されているのですね」


「なに、あれの言がもっともらしかっただけだ」


「――と申しますと?」



 聞き返せば、老王の目配せを受けた穂積が答えた。



「衣紗は確かに神がかり的な力を持っているのかもしれません。ですが、その力は衣紗だけのものです。彼女が死ねば失われる力であり、そうなれば、衣紗を軸にまとまった國々を再び争乱へと陥れるでしょう」



 対して、と老王は節くれ立った指で日和を差して穂積の言葉を継いで言った。



「女王は徳と知識を用いて人々を治めようとしておられる。徳は生まれもったものが大きいが、後から身に着けられないものでもない。また知識に関しては言うまでもなく努力で得るものだ。故に、女王が後の者の教育を怠らなければ、女王がまとめ治める國々は百年先も続く大国となろう」


「後の者……。つまり、統治者は己の死後も見通して人と土地を治めなければならないということですか」


「それが国だ。少なくとも伊都國では代々の王たちがそのように考え、次の王を育てる。ひとりの支配者が己の欲を満たすために人と土地を思い通りにすることを国とは言わん。嵐のような一時的な災難に過ぎないだろう」


「巫女殿、いえ、女王様には束の間の統治者ではなく、倭国の主となって頂きたい」


「倭国?」



 穂積を振り返り聞き返してから、ああ、と日和は頷く。



「私たちの國のあるこの島全体を指す名ね。かつての伊都國王が漢の皇帝に使者を送った時に、そのような国名を付けられたのだとか」


「伊都國は、もっとも古い時代から國を興し、大陸との交流を持ちます。いわば、倭国の歴史と言えます。女王様はその伊都族の血の流れを受け継いでおられます。女王様こそ倭国の歴史に刻まれるに相応しいのです」



 穂積は熱に浮かされたように語る。その様子を日和はどこか覚めた想いで見つめた。


 伊都國が他の國々と一線を画しているのは日和も認めるところだ。事実、伊都國が日和に味方したことで、にわかに衣紗の陣営に加わることを決めた國々が大きく動揺している。だが、倭国の主だの、倭国の歴史だの言われても今の日和には、ぴんと来なかった。



「私はただ、一日も早く戦のない平和な世を迎えて、ひとりでも多くの民が健やかに暮らせる国をつくりたいだけよ。嵐が相手でも血が滲むほど悔しいのに、戦で田畑が荒らされるのは我慢できないわ。ただでさえ寒くてつらい冬に食べるものが無くてひもじい思いをするのも嫌。何のために生まれて死ぬのか分からないまま生き続けることは嫌だから、せめて美味しいご飯をお腹いっぱいに食べる楽しみを持ちたい。そのために私は戦うの」


「それでよかろう」



 老王は深く頷く。そして、それにしても、と日和の顔をしみじみと見つめながら呟いた。



「女王は少しも我が娘に似ておらんな」


「不満ですか?」


「いいんや、それで良い。あの娘に似ていたら儂は到底、投馬國王なんぞと同じ陣営に留まる気にはなれなかっただろうよ」


「駆けつけて下さったことを感謝します。どうか、戦が片付くまで武尊と争いを起こされませんように」


「なぁに、それは投馬國王しだいだろうよ」



 日和と老王が天幕の前までやって来ると、その気配を感じ取って王たちが天幕の内から出てきた。富彌國王、一支國王、烏那國王、津島國王、九夜國王を順に見渡して、日和は武尊を見やる。



「そろそろ時刻かしら?」


「本当に行くのか? 正気とは思えんな」 


「そうだよ、日和。どうして今さら衣紗と会わなければならないの? これから戦が始まるんだよ? 危険すぎるよ」



 豊津原から呼び寄せた須鞘は武尊と並ぶと、本当に顔立ちがよく似ている。日和は異父弟に歩み寄ると、その肩を軽く叩いた。



「この戦に勝つということは、私が衣紗に勝つということよ。それなのに、私自身は一度も衣紗に勝利したことがない。それでは駄目なのよ」


「気持ちは分かるけど……」


「分かるのなら従って。それから須鞘。今後、私の名前を呼ぶことを禁じるわ」


「え……」


「私は貴方の姉で、貴方は私の弟だからよ」



 一瞬、言葉を失って青ざめた顔に理解と納得の色が浮かんだ。須鞘は日和に向かって膝を折った。



「承知致しました、姉王あねうえ



 日和は頷いて須鞘の腕を引いて立たせると、武尊と他の王たちを見渡す。



「護衛は互いにひとりだけの約束だから、覇玖を連れて行くわ。覇玖、お願い」


「おう、任せろ」


「待て。衣紗は約束を破るかもしれん。近くに兵士たちを潜ませよう」


「必要ないわ。衣紗が約束を違えるのなら、衣紗がその程度の人間だったっていうことだもの。私は約束を違えない。武尊も私を信じてここで待っていて」



 訴えれば、武尊は口も瞼も閉ざして両腕を組む。誰もが押し黙り、固唾を呑んで武尊の答えを待っていた。


 やがて武尊の力強い眼が日和を映す。



「信じることも、その者の力量のうちか。良かろう。行ってくるがいい」



 日和は覇玖が手綱を引いてきた馬の背に跨って、馬上から武尊や須鞘、同盟國の王たちを見渡した。そして、彼らに仕える兵士たちの顔を見渡し、片手を掲げる。



「必ず勝って帰るわ」



 後ろに乗った覇玖に馬の手綱を預けると、日和は衣紗との会談の地へと向かった。








 敵対する二つの軍営のちょうど真ん中、平原にぽつんと異国風の方卓と椅子が用意されている。そこに先にたどり着いたのは衣紗であった。


 開戦前に会談をしたいと願い出たのは日和の方で、衣紗はそれを受け入れたわけだが、今さら姉妹で何を話し合うというのだろうか。戦いを避けられるわけがなく、衣紗には愚かな妹の考えがまったく理解できなかった。



(投馬國王と伊都國王の庇護下に入り、気が大きくなっているのね。なんて頭の悪い娘かしら。あれほど無残な敗北をしたのも、つい先日のことだというのに)



 雨祈祭の時のことを思い出しながら衣紗は目を細めて一里先の敵陣を眺めた。


 やがて敵陣から、ちらりちらりと小さな影が見え始める。それは次第に衣紗へと近付いて来て、騎乗した日和の姿となった。約束通り供はひとりだけで、日和の後ろに跨って馬の手綱を操っている。


 馬が衣紗の前で歩みを止めると、日和は飛び降りるように下馬した。常にそうであるように女神のごとく着飾っている衣紗は、まるで少年のような出で立ちの日和を見て軽く鼻で嗤う。



(あれで女王を名乗っているのだから滑稽だわ)



 生まれ落ちた時から美しさの欠片もない妹だった。


 何の力もない。簡単に捩じ伏せることのできるちっぽけな存在。


 日和が望むのであれば、何度でも何度でも日和をめちゃくちゃに打ちのめしてやるつもりで、衣紗はゆったりとした袖を風に靡かせながら日和に歩み寄った。


 ――だが、その時。衣紗は違和感を覚えて立ち止まる。何とも言い難い不安が胸をよぎった。



(おかしい。何か変だわ。この娘、こんな顔をしていたかしら?)



 つい先日までの日和は、仔鼠のようにびくびくと怯えて、衣紗の顔さえまともに見ることのできなかったはずだ。


 ところが今、日和は顔を逸らすことなく真っ直ぐに衣紗を見つめている。戸惑いを隠せない衣紗に日和は椅子を勧めた。



「戦の前に、姉上様にどうしても豊津原のお酒を召して頂きたくてわざわざお越し願いました。先日の返杯だと思い、お受けください」


「なんですって?」



 椅子に腰掛けて訝しげに日和を見やれば、日和は馬に括り付けてきた荷物から杯を二つと酒瓶を取り出し、方卓の上に並べた。酒瓶は碧く輝く玻璃でつくられており、中に満たされた濁り酒が透けて見える。


 そして、二つの高坏の杯のうち一方も玻璃でつくられた杯だった。杯の表面には鷺と蔦模様が刻まれており、飲み口は金で縁取られている。煌びやかな渡来品を見慣れている衣紗の目さえ惹くほどの逸品であった。


 だが、もう一方の杯は、不格好な土器であり、使い古された様子がある。しかも、何やら臭うのだ。眉を潜めて見やれば、杯の表面に馬糞を塗り付けられていることに衣紗は気が付いた。


 素知らぬ顔で酒瓶を傾け、二つの杯に酒を注ぐ日和に、衣紗は口元を袖で覆って言った。



「これはどういうつもりですか?」


「返杯だと申し上げました。この二つの杯のうち一つをお選びください」


「どちらかの杯に毒を入れたと言うつもりですか?」


「はい、入れました」



 答えてすぐに日和はドクゼリを煎じてつくった毒薬をぽちゃりと玻璃の杯の中に落とす。衣紗は片眉を跳ねさせた。



「さあ選んでください。賢い姉上様のことですから、当然、選ぶべき杯を分かっているはずです。選んで飲み干してください」



 衣紗は日和を睨み付け、馬糞にまみれた土器の杯に視線を流す。


 白く濁った酒の表面に藁くずが浮いていた。その藁に今まさに、ブーンと小さな羽を震わせ飛んできた虫がとまろうとして藁ごと酒の中に沈み、ぷかりと六本足を長く伸ばして水面を漂う。


 衣紗は、ひぃっと小さく悲鳴を上げて杯から顔を背けた。到底、飲めるわけがない。白く滑らかな手が汚れることを恐れて、むっと臭いの立ち込める杯に触れることさえできなかった。


 すっと日和の瞳が細められる。ひどく冷めた眼差しで衣紗を見やり、日和は力いっぱいに土器の杯を握り締めた。そして、躊躇いもなく杯を飲み干す。


 だんっ、と激しく音を響かせて方卓の上に杯を叩きつけると、日和は手の甲で濡れた唇を拭った。



「私はこのようにして貴女に勝ちます! 数多の神々が貴女を女王にと望んでいたとしても、私に何一つの奇跡を起こす力が無いとしても、私は貴女を打ち破り、耶羅國も投馬國も統べる唯一無二の女王となってみせます」


「戯言を」


「いいえ、戯言ではありません。この二つの杯でしてみせたように、毒の入っていない杯を貴女がけして選べないように細工すればいいのです。私はどのような杯でも生き延びるためなら飲み干せます。ですが、それができない貴女は毒を呷って死ぬしかない。衣紗、貴女の負けです!」



 莫迦な、と衣紗は声を震わせる。



「私の負けですって? そんな莫迦なことあるわけがないわ。そんな莫迦なこと! 嘘よ。嘘よ!!」



 衣紗は椅子を後ろに引き倒して立ち上がり、喚き散らしながら腰まで伸びて黒髪を激しく振り乱した。



「私にどうしろと言うのですか! どうしていたら良かったと言うのですか。私は間違っていない。私はけして間違ってなどいない。私が選んだことです。私が自分の意思で選んだことが誤りであるはずがない。そうよ、私は正しいわ! 私は女王。天意を受けた女王なのだから私が負けるはずがない!! 私じゃない。負けたのは私じゃない! お前よ。お前なのよ!!」



 茹るように熱く顔を赤らめ、極限まで眉を吊り上げて白い歯を大きく剥き出す。その顔は、誰もが身震いするほど浅ましく、まるで恐ろしい悪霊に憑かれているかのようだった。



「あの時、そうよ、あの時。もしお前が私なら、お前も私と同じ選択をしていたはず。一族の仇だからって何だと言うの!? 死にたくはなかった。私は誰よりも愛され、誰よりも幸福にならなければならなかった。だから死ねなかった。それなのに、なぜお前は亡くなった父王と同じ眼差しをして私を責めるのですか。私は悪くない。私は間違ってなどいないわ!!」



 血を吐くように叫び、髪を掻き毟る。完全に正気を失った眼だった。その虚ろな眼差しが、衣紗に付き従ってやって来た兵士の腰に帯びた剣を捉え、爪を長く伸ばした手がそれを掴む。


 兵士の制止の声が上がるのと、覇玖が日和の肩を掴んだのは、ほぼ同時だった。



「お前など死んでしまえ!!」



 両手で剣を構え、日和に向かって突っ込んできた衣紗を、日和の肩を後ろへと押しやった覇玖が体当たりして弾き飛ばす。ばたりと地面に倒れ込んだ衣紗だったが、すぐに体を起こし、剣を握り直した。


 覇玖に背で庇われた日和を、キッと睨みつけながら立ち上がると、再び日和に向かって剣を突き付ける。



「殺してやる。私の手でお前を殺してやる!!」


「やめろ、衣紗」



 草むらに潜んでいた影が大きく姿を現す。日和も覇玖もギョッとしてその人物を見やれば、彼はつかつかと真っ直ぐ衣紗に向かって歩み寄り、その細い手首を掴んだ。


 カラン、と音を立てて衣紗の手から剣が滑り落ち、地面に転がる。



「千隼様、なぜ……」


「衣紗、そこまでだ。あとは、わたしが投馬國王と決着をつける」


「ですが、千隼様。私は……」


「分からないのか? お前の負けだ」


「いいえ、嘘です。私は負けてなどおりません」


「いや、お前は負けたのだ。豊津原の小娘はお前との約束を守って、たったひとりの護衛だけでここまでやって来た。だが、わたしはお前を護衛ひとり付けただけではこの場に送ってやることができなかった。日和が約束を違え、お前に危害を加えるのではと案じたからではない。衣紗、お前に不安を覚えたからだ」


「聞きたくはありません!! なぜそのように小娘の肩を持たれるのですか!? 千隼様は、その小娘に毒されているのです。だから、小娘を逃がしたりするのです! まさか私が知らないとでも思っているのですか!?」


「それは……」


「千隼様は惑わされているのです。正気に戻ってください。いいえ、私が戻してさしあげます。千隼様の心を取り戻すために小娘を殺すのです。千隼様のために一刻も早く殺さねばなりません!」



 千隼は頭を緩やかに左右に振った。有無を言わさず衣紗の体を軽々と抱き上げ、衣紗がここまで乗ってきた、木組みの上に椅子を設えただけの輿にその体を乗せる。



「何をっ。降ろしてください。小娘を。あの小娘を!!」


「衣紗、お前はずっとあの日のことを後悔していたのだな。だが、わたしはあの日お前を選んだことを悔いたことが無い。何度やり直しても、どんなに強く流生に止められようと、やはりわたしはお前を選び、娶るだろう」


「千隼様……。いいえ。いいえ。私は後悔など……」



 大きく袖を振り回し暴れ狂っていた衣紗だったが、千隼の言葉に放心したかのように大人しくなった。


 四人の担ぎ手に支持を出して輿を持ち上げさせると、千隼は日和に振り返る。



「戦場では手加減はしない」


「私も貴方に借りがあるとは思いません。返す必要のない情けを一度だけ頂いたのだと考えます」


「それで良い」



 踵を返し、輿と共に去っていく千隼を見送って、日和は衣紗という女が理解できたような気がした。方卓の上に残された二つの高坏の盃に視線を向ける。


 おそらく衣紗の人生とは、毒が入っているが美しい玻璃の盃か、毒は入っていないが酷く汚れた土器の盃かを選ぶ人生だったのだろう。そして、衣紗は千隼に肉親を殺されながら、美しい玻璃の盃を選んだのだ。


 その選択を後悔していないと彼女は今後もずっと言い張るだろう。だが、心の奥底で燻る何かがあるからこそ、日和にもふたつの盃を突き付けて選ばせたのだ。


 ――私の選択は正しい。お前の選択は誤りだ。故に、天意を受けた女王は、私だ!


 瞼を閉ざせば衣紗の声が今もなお高らかに響いて聞こえる気がした。だが、日和は言い返す。


 ――ならば、私は天意に背いて女王になるわ。




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