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天知るや 陽の御影  作者: 日向あおい
11/13

11、暴かれた自分

「その娘を捕えなさい!」



 響き渡った声は、日和のものではなく衣紗のものであった。それは広場に集まった人々の歓声を引き裂く。広場は時が止まったかのように、しーんと静まり返った。衣紗が大きく袖を払って腕を真っ直ぐに伸ばすと、その指先を人々は一斉に振り返る。そして、彼らはまるで円を描くように日和たちの周りを取り囲んだ。


 覇玖が剣の鞘を払い、日和を庇うように構える。旭木と穂積もそれぞれ剣を構えて、今にも掴みかかってきそうな人々と対峙した。



「逃げよう」


「無理よ、囲まれている」


「我々が活路を開きます」


「その剣で罪もない人たちを切り捨てるつもり? だめよ、穂積。剣を下ろして!」


「そうだ、剣を下ろせ。この場で抵抗しても無意味だ!」



 穂積の提案に頭を左右に振った日和は、その首筋にヒヤリと冷たいものを押し付けられ、はっと呼吸を呑んだ。信じられないものを凝視する覇玖と穂積の険しい表情。それを見て、突き付けられた刃物が現実であることを知った。


 日和は体を強張らせながら背後に立つ人物に問いかける。



「どうして、旭木が……。やめて冗談でしょ?」


「家族を人質にとられている。こうするしかないんだ!」



 日和は旭木の悲痛な叫びを聞いて、自分に突き付けられた剣を、それを握る彼の手を、腕を、右肩に刻まれた白鳩の刺青を見やる。そして、櫓の上の衣紗を見上げた。


 旭木だったのだ。彼が衣紗の密偵だ。だが、どうしてだろうか。旭木を恨めしく思う気持ちは少しも湧かなかった。ただ、実直さを絵に描いたような彼にこのようなことを強いる衣紗が途轍もなく恐ろしい。


 彼女の指示で兵士たちが波を切り開くようにして群衆を掻き分け、日和たちに駆け寄ってきた。ガチャガチャと身に纏った青銅の鎧を打ち鳴らしながら日和たちを取り囲み、手にした矛の鋭い先端を覇玖と穂積に向ける。


 カラン、と覇玖が剣を手放す音が日和の耳に痛々しく響いた。穂積も剣を雨に濡れて黒ずんだ地面に捨てる。彼らが戦意を失ったと見て大股で歩み寄ってきた兵士たちによって覇玖と穂積は縄を掛けられ、日和もまた旭木に剣先を向けられたまま櫓の前に連行された。


 櫓の正面には五段からなる階が掛けられていて、日和はその下に乱暴に突き飛ばされる。階の上には衣紗。彼女はさらさらと衣擦れの音を響かせて日和を見下ろした。それは九年ぶりの対面だった。



「まあ、今日はなんていう日なのかしら」



 猫のように瞳を細めて、衣紗は日和を上から下まで舐め回すように眺めて言う。



「お前だわ。ええ、お前に間違いありません。その顔立ち、その眼差し、亡き父王にそっくりだこと。こそこそと豊津原の館の奥に隠れていたかと思えば、ずいぶんと大胆に現れたものね。私の祈雨を見物に来たのでしょう? どうかしら、わざわざ足を運んでくれたお礼に余興を用意してみたのよ。信じていた者に裏切られる気分は最高でしょう?」



 衣紗は手にしていた一枝の榊で口元を隠しながら、ふふふっと笑みを漏らす。恐怖を感じるほどに衣紗は上機嫌だった。


 日和はガタガタと奥歯を鳴らして震える。



「私は……っ」


「ええ、知っています」



 即座に応えた衣紗に日和は青ざめ、頭を大きく左右に振った。



(嫌っ。違う。私は違う!)



 日和には次に衣紗が言わんとすることが痛いほどに分かっていた。身を引き裂かれるような苦しさが日和を襲う。



(違う! 違う! 私は違う!!)



 衣紗は、日和が本当の自分を隠し込んだ水甕を打ち砕こうとしていた。水甕を守ろうと、声にならない悲鳴を上げて自分を否定し、懸命に衣紗の口を塞ごうとするが、そんなもの衣紗には通用しない。


 彼女は日和のすべてを見抜き、まるで水たまりに落ちた小さな蟻の如く必死に足掻く様を嘲笑いながら日和の正体を暴いた。



「お前は可愛そうな私の妹。豊津原で女王を騙っている小娘です!」



 ――豊津原の女王。



 透き通った玻璃のような衣紗の声が美しく残酷に響き渡ると、まるで秋風が稲穂の上を吹き抜けるように人々がざわめき、広場が大きく揺れ動いた。男も女も、子供も老人も、己の隣の者と顔を見合わせて衣紗の言葉を理解しようとする。



「今、なんて聞えた?」


「豊津原の女王だと」


「そんな、まさか。豊津原の女王が華那にいるはずがない」


「いいんや、確かに豊津原の女王だと衣紗様がおっしゃった」


「あれが豊津原の女王なのか。あんなみすぼらしい少女が!」



 華やかに着飾った衣紗の正面に、雨で濡れそぼった貫頭衣を身に纏う少女が打ち拉がれている。硝子玉を散らした天冠もなく、翡翠の勾玉と管玉を連ねた首飾りもない。金銅製の耳環も血赤珊瑚の腕輪も何ひとつ身を飾る物を持たない、ちっぽけな少女。その肌は陽に焼けて浅黒く、髪はパサパサに傷んでいる。広場に集まった人々は、自分たちと同じように、または、自分たちよりも酷い身なりをしている少女が女王だとは、とても思うことができなかった。


 彼らの戸惑いを愉快に思いながら衣紗は更に言葉を続ける。



「さぞかし思い知ったことでしょう。予言の女王がお前ではなく私だということを。お前は己の無力さを身に染みて悟ったはずです」


「私は……」



 日和は言い返そうと口を開いたものの、返す言葉が見つからなかった。衣紗の言う通り日和は自分の無力をひしひしと感じていた。ぐっと唇を噛み締めると、悔しさが滲み出てくる。こんなつもりは無かった。こんな風に自分を暴かれ、晒されるなんて。


 日和は背に覇玖の視線を感じて俯いた。


 ――豊津原の女王は館の奥に籠り、人前に姿を現すことがない。


 それが広く知れ渡った豊津原の女王の姿である。


 ところが、女王は女王という身分を隠し、豊津原の集落で民に混ざり暮らしていた。女王が誰であるのか知る者は、後見人である武尊と弟の須鞘、そして、日和の三人だけだ。そのように日和は覇玖に打ち明けたことがあった。それは偽りではない。


 豊津原の女王を知っているのは三人だけ。――つまり、日和こそが豊津原の女王であったのだ。


 衣紗は、くっと顎を逸らす。勝ち誇ったように眉を上げて、後ろに控えた巫女たちに向かって榊を振った。



「酒と杯を二つ持って来なさい」



 唐突な衣紗の命令にいち早く反応した巫女が、麻の貫頭衣を身に纏って控える婢女に命令し、酒瓶と高坏の杯を櫓の階の下まで運ばせる。それを受け取った巫女は衣紗に手渡し、衣紗は日和に背を向けて白く濁った酒を二つの杯に注ぐと、両手に持って振り返った。



「祝い酒です。この雨と私たちの再開を共に祝い、酒を呷りましょう。この二つの杯のうち、どちらか一方がお前の杯で、もう一方は私の杯です。先にお前に選ばせてあげます。さあ、どちらか選びなさい」



 日和は旭木に背中を押されて階を一段、また一段上る。衣紗が両手に持った杯は蒼く透きとおった輝きを放つ瑠璃の杯だった。天から絶えず注がれる雨雫が杯の濁り酒を波立たせている。


 衣紗の酒だ。その酒がただの酒であるはずがないことに日和は気付いていた。杯を選ぶことは疎か、触れることさえ躊躇していると、日和は自分に注がれる強い視線を感じる。


 顔を上げて辺りを見回せば、それは櫓の下に広げられた敷物で胡坐を掻いて座る千隼のものであった。千隼の右頬には鮫を模した刺青が刻まれている。


 日和と視線が交わっても千隼は、僅かにも表情を動かさなかった。ただ、じっと日和を眺めている。


 対して、千隼の隣に座した他國の王たちは身を乗り出すように日和と衣紗のやり取りを見つめていた。さらに日和が広場をぐるりと見渡せば、何千、何万という眼が、固唾を呑んで事の成り行きを見守っている。


 最後に日和は覇玖と視線を交わらせた。物言いたげな覇玖の瞳に、日和は唇を噛み締めて応える。衣紗の澄んだ声が高々と響き渡った。



「さあ早く選ぶのです。飲み干すのです!」



 日和は恐る恐る向かって右側の杯を指差す。にやりと衣紗の顔に歪んだ笑みが浮かんだ。日和は瞬時に自分の選択の誤りを悟り、ぞっと背筋を凍らせる。



「ふふふっ、選びましたね。そうですか、こちらの杯を選んだのですか」


「……」


「すでにお前も気が付いているのでしょう。二つの杯のうち一つに毒を入れました。お前が選ばなかった方は私が飲み干します。さすれば、私かお前、どちらかが死ぬことになります」


「どうして……。どうして、このようなことをするのですか?」


「愚かなことを聞くのですね。生き続けるということが、いくつもの選択の結果だからです。生きるべきなのは、私なのか、お前なのか、私は知りたい。私の選択が常に正しいことを実感したいのです」



 言って衣紗は日和が選ばなかった方の杯を口元に掲げ、くいっと一思いに飲み干した。日和は祈るような思いで衣紗を仰ぎ見る。だが、衣紗の様子に異変は起きなかった。彼女は杯が空になっていることを日和に見せつけながら袖で口元を拭い、くくくっと咽を鳴らして笑う。



「哀れな娘、まさか自ら毒の入った杯を選ぶなんて。やはり無力なお前には毒の入った杯がどちらか分からなかったのですね。本当に可哀想」



 衣紗は酒と杯を運んできた婢女に視線を流す。



「豊津原の小娘の代わりに、お前が杯を干しなさい」



 婢女の顔はみるみるうちに青ざめた。跪き、衣紗の足元に額を押し付けるようにして声を震わせた。



「お許しください。お許しください。どうか、どうか」


「飲ませるのです!」



 大きく袖を振り上げて衣紗が命じる。すると、一斉に巫女たちが婢女に駆け寄り拘束し、その口を数人がかりで無理やり開かせた。日和が選び、日和が飲むはずであった杯の中身を婢女の咽へと流し込む。



「うっ、…ぐっ。うぐっ……かはっ!!」



 婢女は喉元を掻き毟りながら激しく嘔吐き、地面に転がって、のたうち回った。やがて力尽き、ぴくぴくと体を痙攣させてから、天を仰ぐように倒れたまま沈黙する。白目を剥いた表情には苦痛が露わとなっており、口からは大量の血と泡を噴き出していた。


 衣紗は瞳を細め、女神のようにふわりと微笑む。



「さあ、もう一度。選ぶのです」



 再び二つの杯に酒を注がれ、日和の前に差し出された。信じられない。目の前の杯の存在も、衣紗の考えも、日和にはまるで理解できなかった。



(衣紗は私にいったいどうしろって言うの!?)



 彼女の思惑通り、日和は毒の入った杯を選んだのだ。ひと思いに殺せば良いではないか。なぜ、その杯を日和ではなく婢女に与え、日和を生かすのだろう。無残な死に様を晒す婢女を見下ろしながら、日和は震えが止まらない指先で衣紗の左手を指差す。衣紗はすぐに右手の杯を飲み干した。



「ひぃーっ。お許しを! お許しを!」



 悲痛な声が上がる。杯を干した衣紗と偶々目が合ってしまった婢女が選ばれ、先程の婢女のように数人の巫女たちによって拘束された。無理やり口を開かされる。



「がばっ。……うっ。ぐは……っ」



 衣紗の左手から日和が選んだ杯を受け取った巫女が、その中身を婢女の喉に流し込んだ。婢女は目玉を白黒させて喉元を掻き毟る。激しく嘔吐き、のたうち回ると、やがて力尽き、地面に伏して沈黙した。



「さあ、もう一度です。選びなさい」



 衣紗は言った。ついに日和は、がっくりと膝を折って衣紗の足元に両手を着く。



「……もう……許してください」


「あははははは! そうです。それで良いのです! 私の選択は常に正しく、お前の選択は常に誤りなのです。たかだか僅かな奴隷を救ったからといって、それがいったい何になるのでしょう。お前が私の集落に来て何をしたのか、私がそれを知らないとでも思っているのですか? お前は結局、お前自身の選択で婢女を二人殺しました。お前がもっと早くお前自身の愚かさに気付いていれば、そこの婢女たちは死なずに済んだのです。そして、そこの婢女と投馬國王は同じです。お前の誤った選択で投馬國王や多くの民が命を落とすことでしょう」



 衣紗の高笑いが響くと、広場に集まった人々の歓声も高く高く鳴り響いた。皆、衣紗を誉め讃えている。



「お前は生まれてくるべきではありませんでした。お前さえいなければ、投馬國王もお前を女王に立てるなどといった愚かなことをしなかったでしょう。お前が投馬國王を殺すのです。そう、無力なお前のせいで、愚かな投馬國王は死ぬのです! 投馬國王や民たちを救いたければ、お前が死ぬしかありません。そうです。お前など死んでしまえば良いのです!」



 言い放ち、衣紗は兵士たちを呼び寄せる。



「投馬國王との交渉材料に使います。必要ならば首を跳ねます。そのつもりで牢に捕らえておきなさい」


「はっ」



 短く返事をして兵士たちは旭木から場所を譲られると、日和の腕を掴んだ。


 日和は櫓から引きずり降ろされ、縄を掛けられている覇玖たちと共に広場の外へ連れ出される。もはや抵抗する気力は失われていた。逃げる様子を見せない日和は縄で自由を奪われることもなく、兵士に促されるままに集落の中央に向かって歩んでいく。


 すれ違う人々はそんな日和を冷やかな眼差しで見送った。中には、日和を偽物の女王だと罵り、石を投げつけてくる者もいたが、日和はその石を避けることも、石を投げつけてきた者を振り返ることもできずに、ただひたすら自分の足元だけを見つめて歩く。


 華那の集落の中央には城柵に囲まれた黒漆の館が建っていた。衣紗の居館である。だが、日和たちは城柵の内には入らず、城柵を添うように北へと進んだ。


 そちらに罪人を捕えておく牢があるのだろう。北に進めば進むほど建物よりも木々が目立つようになる。道を覆い隠すように茂った草は日和の腰の高さまで伸びていて、めったに人が通らない道であることを語っていた。なんとも侘しさを感じさせる場所だ。広場での出来事がまるで夢であったかのような静けさで、人の気配をまったく感じられなかった。 


 やがて古びて黒ずんだ藁葺屋根の木牢が見えてくる。近付けば、屋根を支える柱を囲むように格子が嵌められている様子が窺えた。


 ここまで来れば大丈夫だと油断したのだろうか。気が付けば、日和たちを連行している兵士の数は、広場を出た時の半数以下にも減っていた。日和の腕を引いている男がひとり、覇玖の背を乱暴に小突きながら歩みを促している男がひとり、そして、穂積にもひとり付いているだけだ。


 逃げられるかもしれない。そう、覇玖が思った時だった。



「何者だ!?」



 覇玖のすぐ後ろで声を荒げた兵士が、次の瞬間、何者かに大きく蹴り飛ばされた。兵士はゴロゴロと茂みの中を転がって気を失う。



「こいつ!!」



 仲間がやられたのを見て駆け寄ってきた兵士たちも次から次にと打ち倒され、茂みの中に転がった。とんでもない強さだ。覇玖は両手を縄で縛られたままグッと身構えて、突如として現れた男を睨み付けた。


 男は黒衣を纏い、顔を黒布で隠している。だが、乱雑に覆っただけの黒布の隙間から鮫を模した刺青が覗いていて、覇玖は容易に男の正体を見破った。



「流生。――いや、耶羅國王か」



 答える代わりに千隼は黒布をぐっと下げて顔を見せる。そして、腰に帯びていた剣を抜いて覇玖の縄を切ると、そのままその剣を覇玖に差し出した。



「お前の剣だ」


「なぜ助ける?」


「なぜかな。わたし自身にもよく分からんのだ」


「はぁ? 分からないだと? 馬鹿にしているのか」


「そうではない。本当に自分でも何を愚かなことをしているのだと思う。だが、このまま死なれては惜しいのでな。――ああ、お前のことではないぞ。そこの娘のことだ」



 覇玖が日和を背で庇えば、千隼は鼻で軽く笑う。穂積も日和のもとに駆け寄って来たので、覇玖は千隼から剣を引ったくるようにして受け取り、素早く穂積の縄を切った。


 千隼は覇玖たちなど眼中にない様子で日和だけを見つめ歩み寄ると、大きな手を日和の顔の前に掲げる。


 そして次の瞬間。ぱしん、と軽い音が響いた。千隼が日和の頬を弾くように優しく叩いたのだ。



「おい、日和に何をする!」


「惚けているから目を覚ましてやろうと思っただけだ。衣紗の言葉に心を殺されたか。面白くない。腑抜けたお前など、これっぽっちも面白くないぞ。もう一度、光り輝いて見せろ。さもなくば、お前を負かし、わたしの前で跪かせる楽しみが無くなる。腑抜けたお前とは争う気にもなれんからな」



 だから、と言って千隼は日和の頬から手を離す。



「命がけで逃げろ」



 日和は、はっと瞳を見開いた。衣紗が降らせた雨は未だやむ気配がなく、ざわざわと木々を揺らしながら大地に降り注いでいる。日和の大きな瞳にも雫が流れ込み、そして、まるで涙を流すかのように瞳から溢れて頬を伝った。



「北に向かえ。集落を抜けて山に出ることができるはずだ。山を越えると、川だ。川を下れば波里國にたどり着く」



 言うと、千隼は覇玖に振り返る。



「そこに倒れている兵士たちが目覚めれば、お前たちが逃げたことが衣紗に知られる。衣紗は兵士を放ってお前たちを捕らえようとするだろう。衣紗には捕まってくれるなよ」










 

 千隼に教わった通りに木牢よりも更に北へと進むと、やがて集落の一番端である外壕にたどり着いた。日和たちは巨木の陰に隠されるように設けられた小さな土橋を渡り、集落の外へと抜ける。すると、外は薄闇の森がしんしんと広がる山となっていた。


 陽は疾うに山の向こう側へと落ち、辺りは藍色の帳に覆われていたが、衣紗が降らせた雨は未だ細い針のように天から降り注いでいる。


 日和たちは森に分け入り、足元を覆い隠すほどに草の茂った獣道を進んだ。雨に濡れた草や泥道はひどく滑りやすく、日和は何度も何度も転びそうになる。その度に覇玖の腕が伸びてきて日和の体を支えてくれたが、日和はいっそのこと泥の中に打ち伏してしまいたかった。



(疲れた)



 ずぶ濡れになって体に纏わりついてくる貫頭衣が煩わしい。それ一枚しか身に纏っていないはずなのに、体中に重石を下げているかのようだ。足も腕も頭も心も、すべてが、ずっしりと重い。


 日和は喘ぐような呼吸を繰り返しながら千隼の言葉を思い出す。


 ――命がけで逃げろ。


 なぜ、と日和は奥歯を噛み締める。千隼と別れてからひたすら走り続けている両足が悲鳴を上げていた。



(なぜ逃げなければならないの?)



 心に問えば、生き延びるためだ、と頭のどこかから声が返ってくる。



(生き延びてどうするの? 私みたいな何の力もない小娘が)



 日和を生かそうと、その手を引いて駆ける覇玖。追っ手を気にして何度も後ろを振り返りながら駆ける穂積。二人とも衣紗の雨に降られてずぶ濡れだ。


 もういい。もういいから、と叫んで覇玖の手を振り払ってしまいたかった。


 木々の切れ間から集落の灯りがちらちらと揺らいで見える。ひときわ高く強く燃え上がっている灯りは、おそらく広場の焚き火だろう。それを囲み、歌い踊りながら雨を喜ぶ声が日和たちの耳にも聞こえてきた。



「あれは……」



 穂積がまっすぐに腕を伸ばして指し示す。足を止めて見やれば、集落の北に無数の灯りが集まっていた。それはまるで夜の海に漂いながら光る夜光虫のようだ。海ではなく大地を這うように蠢き、集落から湧き出ると、山麓へと移動している様子が見えた。


 穂積の表情が、さっと強張る。



「追っ手です。逃げたことが知られてしまいました」


「くそっ! ついに放たれたか」


「急ぎましょう。この山を越えて川に出なければなりません。波里國まで逃げるのです」



 穂積の言葉に深く頷き、覇玖は日和の腕を強く引いて再び駆け出そうとした。ところが、日和は走るどころか泥人形のように、ぐにゃりと手を引かれるままに力無く倒れ込む。



「日和?」


「……」


「いったいどうしたんだ? 追手が来てしまう。日和、早く立ってくれ。逃げよう」



 日和は泥地にぺたりと座り込んで俯き、ふるふると頭を左右に揺らした。



「……ごめん。私を置いて逃げて」


「は? 何言ってんだ」


「私なんか」



 日和の頭の中で女の声が響く。硝子のように澄んだ美声。聞きたくないと、両手で耳を強く塞ぐのだが、声は容赦なく日和を蝕んだ。


 ――お前など生まれて来なければ良いものを。



「そうよ、私なんか生まれて来なければ良かった!」



 日和は血を吐くように、赤子が泣き喚くように、憎悪と呪いの言葉に応えて叫ぶ。


 ――お前など死んでしまえ。生まれてきたことを後悔しながら、苦しみ、悶え、死ぬがいい!!



「そうよ、私なんか死んでしまえばいい! 無力な私が憎い。惨めで哀れな私など、この世から消えてしまえばいい!」


「日和っ!!」



 咽を嗄らさんばかりに声を荒げる日和を止めようと、肩に触れてきた覇玖の手を日和は思いっきり叩き払った。パシン、という痛みを覚える音と共に、二人の間でいくつもの雨雫が硝子片のように飛び散る。日和は顔を歪めて怒鳴った。



「さぞガッカリしたでしょうね、豊津原の女王が私で! 神秘的な力なんて持っていないわ。雨なんて降らせられないわよ。毒の入った杯も見破れないし、護衛にも裏切られる。豊津原の女王の正体が、こんな無力な小娘で失望したでしょ! もういいわ。見捨ててよ。見捨てなさいよ。私なんか助ける価値なんかないわ。私なんか死んでしまえばいいのよ!」


「日和、何を言ってんだ。立てよ。自分の足で立て! 一緒に逃げるんだ!!」


「嫌だって言っているでしょ! もうどうなってもいいっ!!」


「いいわけあるかぁーっ!!」



 怒鳴り返されて、びくりと日和の肩が震えた。思わぬ反撃に遭い、言い返す言葉を失うと、まるで怒鳴り合いの勝負で打ち破られた心地になる。口惜しさが沸々と込み上げて、日和は眉を下げ口元を大きく歪めた。目頭が燃えるように熱くなり、今にも涙が零れ落ちそうだ。


 覇玖に怒鳴られるのは嫌だ。だけど、これ以上、生きている意味が分からないままに生き続けるのはもっと嫌だ。



「……もう、どうしたらいいのか分からない」



 歪んだ口を震わせながら開けば、言葉より早く大粒の雫が瞳から零れ落ちた。


 吐息が漏らされる。と同時に、まるで罪を告白するかのような静かな声音で覇玖が言った。



「知ってたよ」



 日和は覇玖を見上げる。今、彼は何と言ったのだろうか。



「気付いたんだ。いつとはハッキリしないうちに何となく、日和が女王なんだろうな、って」


「嘘よ。だって気付いていたのなら、なぜ今まで黙っていたの?」


「それは、豊津原で暮らす皆が日和だと知っていたからだ。そう、みんなが知っていた。知っていて誰も何も言わないんだ。だから俺も何も言わなかった」


「嘘よ!」



 日和は大きく叫んでから、まさかと思い恐る恐る穂積に振り返った。彼はこくりと一度だけ深く頷く。



「豊津原の兵士たちは皆、知っています。おそらく長老たちも巫女たちも。わたしが豊津原に移住したのは二年前ですが、誰に聞いたわけではなく何となく巫女殿が女王なのだと気が付きました。そして、気が付いてすぐに確信を得たので、それを誰かに確認することはしませんでした」


「どうして?」


「豊津原の皆が女王の正体について語ることを禁じるような態度を貫いていたからです。大人も子供も知っていながら知らぬ振りをしていたのです」


「そうすることを日和が望んでいたからだ」



 日和は瞳を瞬きながら覇玖を見つめた。



「私が?」


「なんて言うか、日和はすごく分かりやすいんだ。一緒に過ごしていると、日和が何を望んでいるのか分かってしまう。だから、皆、日和の望んでいることを叶えようとして動くんだ」


「なぜそんなことを……」


「お前がお前だからだよ。豊津原の皆にとって、お前だけが女王だからだ。衣紗のように雨を降らせることはできないかもしれない。誤った選択をすることもあるかもしれない。それでも構わないんだ。そんなお前を女王だと認めているから、皆、お前に従うんだよ」



 それに、と穂積が覇玖の言葉を継ぐ。



「巫女殿は我々に不可能なことを望まれません。我々が少しずつ力を出し合えばできる範囲のことを望んでおられる。それも、我々の暮らしを良くするためのことを」


「華那の集落で出会った者たちが良い例だな」


「ええ、そうです。巫女殿は奴隷たちの病を治すために陽射し避けを望まれました。すると、小玉や管玉で雇われた男たちは巫女殿の望みに応えて屋根を造ったではありませんか」


「到底、小玉や管玉ひとつでは割に合わない働きだ。それでも彼らが動いたのは、日和の望みが分かりやすく、その程度のことならやってやろうという気持ちに彼らをさせたからだ」


「巫女殿の望みが華那の女王とは異なり私欲ではないことも彼らを動かしました。おそらく衣紗のために無償で動く者はいないでしょう。旭木も家族さえ人質にとられていなければ、貴女の側にいることを望んでいたはずです」



 分かっただろ、と言って覇玖は地べたに座り込む日和に向かって手を差し伸べた。



「これが俺たちがお前を生かしたいと思う理由であり、お前の方が衣紗より女王として優れていると思う理由だ。衣紗は民を殺す女王だ。だけど、日和は民を生かし、そして、活かす女王になる。――まあ、俺はそれだけが理由ではないけどな」


「まだ何かあるの?」


「俺個人的な理由さ」



 怪訝顔で見やれば、覇玖は気まずげな表情を浮かべて日和から視線を逸らす。



「好きな女を置いて逃げるヤツは男じゃあない。俺はお前を置いて行けないから、お前がどうしてもここに残ると言うなら俺もここに残る。俺を生かすことができるのは、お前だけだ」


「……何それ。そんなのズルい」


「ズルいものか。穂積だって、お前や俺が逃げなければ逃げられない。俺たちを死なせたくないのなら、お前も逃げるんだ。一緒に」



 ざぁざぁと絶えず大地に降り注いでくる雨音に紛れて、日和たちを追ってくる兵士たちの声が聞こえた。声はまだ遠い。だが、確実に近付いて来ていた。


 日和は差し伸べられた覇玖の手を見つめる。おそらく覇玖は本気だろう。日和が残れば覇玖も逃げない。そして、日和と共に衣紗に殺されるつもりなのだ。



「分かったわ。今は一緒に逃げましょう」



 日和は覇玖の表情から彼の本気を見抜くと、ぐっと力強く覇玖の手を掴んで立ち上がった。




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