10、祈雨祭
華那の集落は、周辺にそびえる山々の影に陽が隠れてしまうと、あっという間に辺りは闇に覆われてしまう。そして闇は、そこに潜む者たちを目覚めさせた。
リーリーと鈴虫の鳴き声が聞こえてきて、涼しい風が地面を撫でるように吹き始める。少女に少しずつ塩水を飲ませていた日和がその風に気が付いたのは、入口の麻布をめくり上げられた時だった。風が住まいに吹き込んできて日和の目の前に、ぱらり、ぱらり、と藁が舞い降りてくる。見上げれば、藁は屋根から解れて落ちてきていた。
「水が必要っていうのは、あんたか?」
「あなたたちは?」
「流生っていう男に雇われた者だ。あんたに水を届けたら、後はあんたに従えって言われている」
「おれたちは何をすればいいんだ?」
日和は這うようにして住まいの外に出ると、流生によって集められた男たちを見渡した。どうやら腕輪に連なっていた小玉と管玉の数だけ人が集まったらしい。若く力のありそうな男が十数人いた。彼らの足元を見やれば、たっぷりと水の入った大きな甕が置かれている。これだけあれば水は十分そうだ。
「――だがよ、本当に病はうつらないんだろうな?」
「ひでぇ臭いだ。鼻がどうにかなりそうだ。この暑さで、どんどん死体が腐ってきやがる」
「あんた、病を治せるって本当かい?」
「あんたを助ければ、祈雨祭までの食事と寝床を貰えるって聞いたが、本当なんだろうな?」
思い思いに口を開く男たちの言葉を聞けば、流生がどのように言って彼らを集めたのか分かる。病とも言えないような奴隷たちの症状を治すのは容易いが、集まった彼らの食事と寝床を日和が用意しなければならないようだった。
(いいわ。それなら遠慮なく、とことんコキ使ってあげるんだから)
日和はぐるんと右肩を回すと、ぐっと腹に力を込めて月明かりに照らされた男たちの顔を順に見渡した。
「病は必ず治すわ。この病は貴方たちには絶対にうつらない。だから、安心して私に力を貸して。もちろん、食事も寝床も提供するわ」
日和の澄んだ声が響き始めると、男たちは、さっと静まり返る。明瞭で、はきはきと聞き取りやすい日和の言葉を聞き、それぞれの不安が晴れたらしい。彼らは大きく頷いた。
日和は豊津原で女王の名代の巫女として皆に指示を出している時と変わらぬ要領で、男たちに命令を下す。
「まず息のある者を捜し出しなさい。残らずここに連れて来て。死体は一カ所に集めなさい。死んでいるからって乱暴に扱わないで。あとできちんと弔うわ。とにかく助けられる命は絶対に助けるのよ!」
「おおう、任せてくれ」
「死人と息のある奴を見分けるくらい簡単だ。すぐに運んで来てやる」
「病がうつらないと分かれば怖くなんかねぇ。やってやるさ」
意気込んで四方に散っていく男たち。彼らは僅かもしないうちに続々と戻って来ると、今にも息絶えそうな者たちを地面に転がして再び散って行く。そして、やはり僅かもしないうちに戻って来て病人を地面に転がしていくので、日和の足元は、あっという間に病人で埋め尽くされた。
日和は少量の塩を溶かした水を入れた壺と器を手に、横たわる病人たちの間を移動する。その様はまるで花から花へと忙しなく飛び回り蜜を集める蜂のようだった。
塩水さえ口にすることのできない重病人もいたが、幸いなことに、風通しの悪い竪穴の住まいから出され、涼しい夜風に当たっただけで体調が好転する者もいた。
骨と皮だけの手で日和の腕に縋りつき、女は何度も頭を下げながら言う。
「ひどい頭痛に悩まされていましたが、おかげさまで、だいぶ楽になりました」
また、青年も老人も日和の手を取って言った。
「ありがとうございます。すっかり吐き気がなくなりました」
「死を待つばかりだと思っていましたが、貴女様に救われました」
日和は彼らの痩せ細った手を握り返し微笑むと、男たちを呼び寄せる。集まったのは半数で、残りの者たちは死者を一カ所に運んでいた。
日和は集まった男たちに火を熾すよう命じて覇玖と共に再び市に赴くと、金銅製の耳環を穀物に換える。その穀物で重湯を作ると、皆で食事を取ることにした。
粟と稗を煮詰めただけの重湯だ。肉も魚も、木の実さえ入っていないそれを貪るように食べる人々の様子を眺めながら、日和は自ら動けない者たちの世話をする。状況は目に見えて良くなっていた。
そもそも彼らの病は、病と言うのもおこがましいようなもので、きちんとした食事を取り、定期的に水分を補給しながら、暑さを避けていれば発症しないものであった。
すべては衣紗が彼らを顧みず、水も食事もまともに与えなかったために起きた事態だ。ほんの少し日和が力を注いだだけで、彼らは元気を取り戻すことができたのだった。
「お前は、不思議な娘だな」
今までどこに行っていたのか、藁の上に寝かされた老人に重湯を食べさせていた日和の隣に腰を下ろし、しみじみと流生が呟いた。視線を遠くに向ければ、空に向かって黒い煙が立ち上っている。一カ所に集めた死体を燃やしているのだ。死を悼む歌声が悲しげに響いて聞こえた。
日和は怪訝顔で流生に振り返る。
「いったい何のこと?」
「わたしが集めてきた男たちを、お前はちゃんと使いこなしていると思ってな」
「貴方がうまいこと言って雇ってくれたからでしょう?」
「たしかにあの男たちと交渉したのはわたしだが、彼らはわたしが提示した条件以上の働きをしていると思わないか? 小玉や管玉ひとつくらいでは到底割に合わない働きだ」
「みんな、良い人たちなのね」
「いや、違う。そうさせているのは、お前だ」
くいっと顎を反らして流生は、活き活きと働く男たちを指し示した。彼らの汗ばんだ背中を白み始めた東の空が照らしている。直に夜明けだ。陽が昇れば、すべてを焼き尽くさんばかりの日差しが華那の地を襲うだろう。
しかし、日差しを避けようと竪穴の住まいに潜り込めば、そこは風通しが悪く、熱が溜まってしまうため、せっかく好転した奴隷たちの症状は再び悪化してしまう。今日まで何とか生き延びた者も明日こそ命を落とすかもしれない。――そう、日和が言うと、ひとりの男が屋根を建てようと言い出した。
「簡易的な屋根でいい。木材を組んで造れないだろうか。幸い、主を失い、取り壊しても構わない住まいがたくさんある」
「高床である必要はないな。竪穴も必要ない。梁を架けて……。壁は造らず、風通しを良くしよう」
「おお、それなら簡単に造れそうだ」
「おれは昔、王族の小館を建てたことがある。おれに造らせてくれ」
「もっと人手が必要だ。よし、おれが暇を持て余している男たちを掻き集めて来よう」
言うや否や、男たちは思い思いの場所へと散って行く。彼らはそれぞれ自分のすべき仕事を承知しているようで、もはや日和の指示を必要としていなかった。
やがて、簡易的に組み立てられた柱と梁で支えられた藁葺の屋根が完成する。その下に患者たちが運び込まれ、地面に敷かれた藁の上に寝かされた。すると、どこからかやって来た女たちが忙しなく世話を始める。
日和には彼女たちを小玉や管玉で雇った覚えはなかった。もちろん流生が雇ってくれたわけでもない。彼女たちは男たちの働きに感化されて自発的に来てくれたのだ。
「あたしは支惟國から来たんだけどね、祈雨祭を待っている間に食糧が尽きてしまったのさ。ここで働けば食わせて貰えるって聞いたから来たのさ」
「あたしもさ。この集落に知り合いなんていないからね、寝床もなくて体を休めることもできやしない。ここに来れば日差しを避けて休めると聞いたよ」
「男たちが働いているっていうのに、暑い、暑い、と呻くばかりじゃあ時間がもったいないからね。食事と寝床が貰えるっていうのなら、あたしだって働くよ」
彼女たちの言葉を聞いて、ほらな、と流生が薄く笑って言う。
「これはお前が始めたことだ。お前がいなかったら、奴隷たちは死に、彼らは時間を無駄に費やしていただろう。――お前は何者だ?」
「べつに私は……何者でもないわ」
「生き神じゃ」
不意に発せられた声に日和も流生も驚き、老人を見やる。色黒く陽に焼けた枯れ木のような老人は、日和に食べさせて貰っていた重湯の器をやんわりと退けた。
「その男の言う通り、あんたは只者じゃない。見る者が見ればすぐに分かるんじゃ。とても強い力で輝いておる」
「お爺さん、何を言っているの。さあ、重湯を食べて。元気になるのよ」
そんなことあるものかと日和は苦笑を浮かべながら木匙で重湯を掬い、老人の口元に差し出した。だが、老人は頭を緩く左右に振って匙をくわえようとしない。日和は眉を潜めた。
「私は美人ではないし、特別な力も持っていないわ」
――それに、自分を隠し、偽りの生き方をしている。
そんな自分が輝いて見えるはずがない。そう老人に言い返そうとした時、日和の貫頭衣の裾を掴む者があった。振り返り、日和は瞳を大きくする。この奴隷たちの居住区で最初に見つけた少女が薄く瞼を開いていた。
「気が付いたの? 大丈夫? 頭痛や吐き気はない?」
少女は大きく頭を振る。そして、日和に向かって懸命に手を伸ばし、カサカサに荒れた唇を開いた。
「あたしも……そう、思う……」
「え。何?」
「……輝いて…る。……とても…きれい……」
朝陽だ、と誰かが声を上げた。東の山々の狭間から白く強い光を放つ強大な塊が生まれ出てくるのを、日和はそれに背を向けたまま感じる。
日和の貫頭衣の裾を掴んで離さない少女の顔にも陽の光が差し込むと、その頬が赤みを取り戻していることに日和は気が付いた。
おい、と呼ばれて日和は流生に振り返る。朝陽に照らされたその顔に刻まれた刺青が乱れた髪の隙間から見えて、日和は溜飲が下がる思いがした。
それはまるで突然に、すとんと物が落ちるように幼い頃の記憶が日和の脳裏に蘇る。日和は幼い頃に一度だけ、その刺青を目にしたことがあった。なるほど、どうりで武尊と同じ雰囲気を纏っているわけだ。彼もまた武尊と同じ大國の王だったのだ。
日和は重湯の入った器を老人の傍らに置くと、少女をなだめて手を離させ、すくりと立ち上がった。ひと気のない方へと歩いて行くと、当然の顔をして流生が後ろをついてくる。振り返らず、呟くように日和は言った。
「貴方が誰なのか分かったわ。なぜ、こんなところにいるの?」
「それはお互いさまだろう。わたしもお前が何者であるのか分かったぞ。捕らえられたり、殺されることは考えなかったのか?」
「もちろん考えたわ。それでも私は知りたかったの。衣紗を。それから、私自身を。――私を捕らえる? 殺す?」
「いや。正直に言えば、どうしてくれようかと悩んでいる」
言って、流生と偽りの名を騙った男は、もうひとつ新たに屋根を建てようと活き活きと働く男たちや焚火を囲んで賑やかに朝餉の支度を始めた女たちに視線を流した。
「わたしはお前が欲しくなった」
思わず振り返ると男は真っ直ぐ日和を見つめ返し、だが、と言葉を続ける。
「お前はわたしを従わせようとするだろう。自覚が無くともお前には人を動かす力がある。その力はわたしにとって危険なものだ」
「危険?」
「お前がわたしの側にいると、わたしはお前のために動いてしまう。そして、あそこで働いている者たちのように働くことに喜びを感じるようになる」
実際、既に彼は日和のために動いている。何の見返りもなく彼が誰かのために動いたのは初めてのことだった。
「わたしには、お前の下につくつもりなど無い」
「……」
「小猿のようだったお前がよくここまで育ったものだな。投馬國王の息子を見に来たつもりだったが、思いがけず、お前の成長を見ることができた。――だが、衣紗は雨を降らせるぞ。祈雨祭は二日後だ」
男は踵を返した。そのまま去っていく大きな背中を呼び止める言葉など、日和にはない。ただ少しだけ。ほんの少しだけ、衣紗が彼に惹かれた理由が分かったような気がした。
男の姿が完全に見えなくなると、日和の胸に何とも言い難い喪失感が生まれる。海原にぽつりとひとりで放られたような頼りなさが日和を揺さ振り、彼を追い掛けたい想いに駆られた。
だが、日和はぐっと足を踏み締める。
「日和!」
名を呼ばれ振り返れば、息を切らして駆けてくる覇玖の姿が武尊に、そして須鞘の姿に重なって見えた。日和は覇玖を迎えながら、これで良かったのだと小さく胸を撫で下ろす。
「そんなに急いでどうしたの?」
「どうしたもこうしたもねぇよ。なんでひとりでいなくなるんだ! 俺にひと声かけろよ。心配するだろうが!!」
「ひとりではなかったもの。自称『流生』と一緒にいたわ」
「は? 自称? とにかく俺の目の届く範囲にいてくれ。そんで、できれば俺の手が届く場所にいろ。俺はお前を無事に豊津原まで連れ帰らなきゃならない」
「須鞘に頼まれたものね」
「そうなんだが、それだけじゃねぇよ……」
「ねぇ、覇玖。もっと恐ろしいことだと思っていたわ。でも、案外、大丈夫みたい。ここにいる人たちにとって私は私よね。付加価値なんてひとつもない、本当の私だものね」
覇玖の言葉を遮って言えば、覇玖は日和の得意げな顔を見やり、眉間に皺を寄せた。仕方がない奴だと言いたげな表情を浮かべる。
「自称『流生』の男に何か言われたのか?」
「欲しいって言われたわ。それから、要らないって」
「なんだ、そりゃあ」
「でも、私も同じように思ったの。欲しいけど、要らない。――私、衣紗が選んだものはいらないわ。既に持っているものを大切にしようと思う。ここに覇玖が一緒に来てくれて良かった」
「おう、ようやく俺の有難みが分かったか」
嬉しそうに、からからと笑ってから覇玖はすぐに真顔に戻った。
「それはともかく、もっと大人しくしていてくれ。お前は目立ち過ぎる。お前がここにいることが衣紗にバレたらどうするつもりだ。ほら、みんなのところに戻るぞ」
そうね、と日和は頷いて歩き出す。
だが、もしかすると、既に知られているのかも知れなかった。あの男は、投馬國王の息子を見に来たと言っていた。
(私たちは昨日、華那の集落に着いたばかりだわ。それなのに、もう来ていることを知られている。疑いたくはないけれど、私たちのすぐ近くに衣紗の手の者がいるのかもしれない)
後ろからゆっくりと覇玖が追ってくるのを感じながら、日和は朝餉の暖かな匂いが漂う焚火へと向かった。
いよいよ祈雨祭の日。集落入口の広場で行われると聞き、日和は覇玖や旭木、穂積と共に広場へと向かった。
華那の集落の真上に移動した太陽が色濃く世界を照らし始めると、人も木も建物も、地面に黒々とした影を刻み込む。額に浮かんだ汗の玉が、こめかみを滑って流れ、頬を伝い顎からポタリと胸元に落ちた。
衣が湿る気持ち悪さに顔を顰めながら祈雨祭が行われるという広場の入口に日和たちがたどり着くと、広場の中は既に人で満たされ、入りきれなかった者たちが環壕の外にまで溢れている。
広場の中央にはさほど高さのない櫓が簡易的に組まれていた。おそらくその櫓の上で衣紗が天に雨を祈るのだろう。
日和たちはどうにか櫓の様子が見える位置を確保することができた。と言っても、ほとんど人に押し流されるようにして偶々行き着いただけだ。胸や背に他人の体温を感じるほど隙間なく人が密集していて、両腕を伸ばすことさえできなかった。
じりじりと焼けるような日差しが容赦なく降り注ぐ。暑さから逃れたくとも、前に進むことも後ろに下がることもできず、頭の中が煮えたぎるような不快感に堪えなければならなかった。
「退け! 退け! 道を開けろ」
「退け! 女王様であるぞ。道を開けろ!」
怒鳴り声に日和は、はっと顔を上げる。声の方を探せば、人々を掻き分けるようにして櫓に進んでいく一行の頭が見えた。衣紗だろうか。もっとよく見たい。
日和が背伸びをすると、まるで意地悪を受けているかのように、日和の前に立った男も大きく体を揺らし背伸びをした。日和が右にずれれば男も右に、日和が左にずれれば男も左に揺れる。苛々と、日和は足を踏み鳴らした。
その時。
「衣紗様だ!」
「華那の女王様だ!」
煌びやかな祭服を身に着けた女がたくさんの巫女を引き連れて櫓の上に現れる。そこかしこから女王に雨を望む声が響き渡った。
「女王様、雨を!」
「どうか雨を降らせてくださいっ!」
「雨をどうか! 女王様!」
人垣の高さで見ることのできなかった姿が櫓の上に現れて、日和の目を釘付けにする。
衣紗は、きらきらと陽の光を受けて輝く青碧と真赭の硝子玉を散らした天冠を被り、翡翠の勾玉と管玉を連ねた首飾りを幾重にも首から垂らし、耳には大きな金銅製の耳環、左腕は血赤珊瑚の腕輪で飾っていた。白絹を茜で染めた裳を穿き、貝紫染めの大袖衣を錦の帯で締め、その上から薄白の透目絹の上衣を羽織った衣紗の姿に、日和は言葉を失う。
綺麗だった。この世のものとは思えない輝きを力強く放ち、誰が見ても彼女こそが華那の女王――衣紗であることは一目瞭然の存在感だ。
燦爛たる衣紗の姿に、広場に集まる誰もが魅了され、また、日和も例に洩れず魂を奪われた。もし人の世に混ざっている女神を言い当ててみろと言われたら、それはきっと衣紗に違いない。
(あんなの人間じゃない。女神の美しさよ)
日和は衣紗に心を奪われている自分に気付き、頭を左右に振って何度も瞳を瞬いた。再び櫓に視線を戻せば、櫓はその中央が一段高くなっていて、その台の上に衣紗が膝を折って座っている。台を囲むように年長の巫女が四人座り、その四人を更に囲むように他の巫女たちが座った。
「耶羅國王だ」
覇玖の囁きに、ぱっと日和は顔を上げた。覇玖が示す方に視線を向ければ、腰に鉄剣を帯びた男たちが群衆を掻き分けてやって来る。彼らは皆、白絹を身に纏っていて、身分が高いことがひと目で分かった。おそらく耶羅國と同盟を結んでいる國の王たちだろう。その先頭に立ち率いて来る男が耶羅國王――千隼だった。彼は王たちを櫓の近くまで案内すると、その下に広げられたイグサの敷物の上に彼らと共に胡坐を掻いて座った。
日和は額から頬を、そして顎を伝った汗を拭い、青く澄んだ空を仰いだ。昨夜、天文書を抱えながら夜空を見つめ確かめたことを思い出す。
(雨なんて降らないわ)
昨夜は、漆黒に硝子の欠片を散らしたような美しい夜空だった。黒を濁す雲は無く、星々は四方に光の筋を放って瞬く。翌日も晴れ渡る兆しであった。そして、その通り、今日も青空には雲一つない。雨など降るはずのない晴天だった。
(なぜ、こんな日に祈雨祭なんてするの? 降るわけがないじゃないの。私なら少しでも降る可能性のある日を選ぶわ)
一滴の雨も降らなかった時、衣紗はどうなるのだろう。他國の王たちや多くの民たちの前で天に祈るのだ。失敗すれば、衣紗は天に見放されたのだと、人々は噂するだろう。
彼女の権威は失墜する。そうなれば――。
ぐっと咽を鳴らして唾を呑み込む。息苦しさを感じるのは、人の多さだけが理由ではない。手のひらが汗ばんで仕方がないのは、緊張感で胸が押し潰されそうだからだ。
衣紗の前にひとりの巫女が進み出て来て、恭しく一枝の榊を衣紗に掲げた。衣紗はそれを受け取り、胸に抱く。いよいよ祈雨が始まった。
人々のざわめきが止み、広場は水を打ったように静まり返る。誰もが息を殺すようにして、衣紗を見守っていた。
高々と声を響かせ、衣紗が謳い始める。その響きはまるで艶めかしい絹ずれの音。色っぽく、情熱的だ。感情を揺さぶられた人々は皆、衣紗の姿から目を離せなくなる。
次に衣紗は唇を結び、榊の枝を大きく左に右にと振り始めた。ざっ、ざっ、ざっ、と榊の葉が擦れ鳴る。その音を耳にしながら、日和は風のざわめきを聞いているかのように感じていた。
そして、まさにその時だった。空に異変が現れた。衣紗が鳴らす榊の葉に応えて、さやさやと風が木々を揺らし始める。
西の空に薄衣のような白い雲がぽっかりと現れた。かと思えば、みるみるうちに辺りが暗くなり、かつて谷の國と呼ばれた華那の集落が分厚い雨雲の影にすっぽりと覆われてしまう。
湿った匂い。甘いような、籠もったような、大地の匂いだ。
ぽつり。頬を軽く弾かれる感触に日和は空を仰ぎ見た。分厚く薄黒い雲が風に煽られ濛々と渦を巻きながら流れていく。
――信じられない!
日和はぐっと目を見開いて、空を睨んだ。
「雨だ」
誰が口にしたのか、その声を聞いた周囲の者たちも騒ぎ出し、次々に歓喜の声を上げる。
「雨だ!」
「雨が降ったぞ」
「衣紗女王、万歳!」
ポツポツと地面に円模様を描いた雨が、その激しさを増し、水甕の水をひっくり返したかのような大雨に変わる頃には、辺りは衣紗を讃える声で溢れかえっていた。櫓を囲む者たちも、広場に入れず外に溢れている者たちも、皆、大きく飛び跳ねるように全身で喜びを露わにしながら衣紗の名を叫んでいる。
「女王、万歳!」
「神々に愛されし女王!」
「衣紗女王、万歳!」
その声はやがて大地をも揺らした。
日和の顔に大粒の雫が跳ねる。それは、雨雲から落ちてきた雫ではなく、日和の前に立っていた男が大きく体を揺さぶり、衣紗に向かって両手を振り上げたため飛んできた雫だった。男はずぶ濡れになりながら衣紗の名を何度も何度も繰り返し呼び、辺りに雫を飛ばしている。
(なぜ……。どうして雨が降ったの?)
気が付けば、日和の貫頭衣はずっしりと重く濡れている。髪からは絶えず雫が滴り、まるで泣いているかのように顔を流れていった。
(降るはずがなかった。少なくとも私には雨が降ることを予測できなかった)
衣紗は雨を予測できていたのだろうか。できていたのだとしたら、敗北感は否めないが、それでも納得はできる。日和と衣紗は同じ土俵の上で戦い、日和の読みの甘さによって負けたのだ。
だが、もし、衣紗が天候を予測したわけではなかったら?
(本当に雨を降らせる力があるの? ――そんな、まさか。嘘よ!)
我を忘れて喜び合う人々の群れの中で日和だけが表情を青ざめ、榊の枝を天にかざし続ける衣紗の姿をじっと見つめていた。身動きが取れない。体が石になってしまったかのように動けない。呼吸さえもままならなくて日和は、ひゅーひゅーと苦しげに喉を鳴らした。
(衣紗の力は本物なの……?)
天候録を眺めながら嵐を予測していた自分と、降るはずのない雨を降らせた衣紗。
自分には無い得体の知れない力を衣紗が持っていることは明らかだった。
「日和!」
がくり、と膝が折れて日和の体が大きく沈む。地面に崩れ落ちるかと思えた体を引き上げてくれたのは、覇玖だった。日和はがくがくと膝が嗤ってしまい、覇玖の支え無しではとても立っていられない。縋り付くように覇玖の腕を両手で掴んだ、その時。
目が、合った。
(――っ!!)
それはまるでスッと刃物で切ったかのような瞳。威圧的な眼差しが日和を捉え、ぐっと日和の小さな心を鷲掴みにする。
その刹那、日和の世界が暗転した。すぐ近くで喜び騒いでいる人々の姿も、自分を支えてくれている覇玖の腕も何もかも消え失せてしまう。
闇の世界に衣紗と日和だけ。
衣紗はひと目で日和を日和だと見抜いたようだった。みるみるうちに衣紗の瞳が大きく大きく日和に覆い被さるように広がって、日和は隠れる場所も逃げる隙もない。
紅を塗った衣紗の唇が、にぃっと弧を象った。虫けらのような日和を嘲笑っている。
(――殺される!)
かつて衣紗が幼い日和に向かって放った言葉を思い出す。その言葉は何の疑いもなく生きてきた日和を完膚なきまでに否定した。
なぜ生きているのか。
まるで日和が生きていてはならなかったかのように衣紗が問う。そして、答えることのできない日和を、衣紗は言葉だけで殺す。何度でも何度でも。
(嫌だ。怖い。ついに。ついに衣紗に見つかってしまった。ずっと見つからないように隠れていたのに!!)
逃げなくては殺される! だけど、逃げ場なんてない。
(死にたくない! 嫌だ。私は死にたくないっ!)
あまりの恐怖に日和は咽が裂けんばかりに悲鳴を上げた。ぎゅっと目を瞑り、力の限り叫んだ――つもりだった。




