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天知るや 陽の御影  作者: 日向あおい
1/13

1、二人の王女

 古き太陽が死に、新たな太陽が産まれるとき、各國の巫女たちがいっせいに神の声を聞いた。


 王たちを統べる女王が誕生する。――其は、華那國王の娘である。






 墨の夜空を焼き尽くさんばかりの紅蓮の炎が、ぼうぼうと燃え盛っている。敵の侵入を防ぐためにつくられた木柵も逆茂木も、炎に焼かれてしまえば、何の役にも立たなかった。


 幾万もの星が落ちて来るかの如く火矢が環壕内に射られ始めてから、わずかも時は過ぎていない。あっという間に燃え広がった炎は、城柵にまでその灼熱の腕を伸ばそうとしていた。


 狂った獣のような声がいくつも乱れ、迫ってくる。生温かい風が運んでくる、むっと籠った臭いから逃れようと、衣紗いすずは袖で口元を覆った。


 すると、お早く、お早く、と急かされ、もう一方の腕を掴まれる。衣紗の侍女は、主の草靴が脱げ落ちてしまうのも構わず、主を引きずるようにして走った。


 狂気の声は王を殺し、王の息子たちを殺し、そして今、衣紗に迫っている。あの狂気に捕まれば、衣紗も父王や兄弟たちのように切り刻まれ、無残に殺されてしまうだろう。



(嫌っ。死にたくない!)



 がちがちと鳴る奥歯を、ぐっと力を込めて噛み締めた。


 群れをなした黒揚羽のような灰が、豊かな黒髪を乱しながら走る衣紗の周りをひらひらと舞っている。汗とも涙とも知れぬ雫が衣紗の頬を濡らした。声が迫ってくる。その声は衣紗を探して、すぐそこまで近づいていた。



(どうして。どうして、こんなことが起きてしまったの!?)



 長くて邪魔な裳を力いっぱいに引き裂き、膝を露わに駆け続ける。そうしながらも、彼女は我が身に起きている災難がとても信じられなかった。


 燃えている。衣紗を愛し慈しんでくれた華那國が燃えている。あちらこちらから響いて聞こえる断末魔。それは、王の娘である衣紗を敬い、仕えてくれた華那國の民の最期の悲鳴だ。


 血が――。痛みと苦しみ、無念と、生への執着が渦巻く血が、どす黒く大地を染めていた。


 華那國。その名の如く美しかった集落は、突如として攻め込んできた殺戮者たちの狂気に侵され、もはやその面影すらない。


 この惨劇の始まりは、巫女たちの言葉であった。彼女たちは神の声を聞いたと言い、口々に女王の誕生を予言したのである。


 ひとつの國のひとりの巫女が口にした言葉であったのなら戯言だと捨て置かれたはずだった。ところが、伊都國の巫女、耶羅國の巫女、投馬國の巫女、そして他の國々の巫女たちがほぼ同時に同じ予言をしたため、極東の海に浮かんだ島に激震が走った。


 しかも、巫女たちが予言した女王とは、ただの女王ではない。数十の王たちを総べる唯一無二の存在になるのだという。


 現在、この南北に長い島には数十の小さな國があり、國の数だけ王が立っていた。そして、王たちは島の覇権を握るために数十年に及び、血で血を洗う争いを続けている。


 巫女たちの予言は、この争いの終焉を告げるものであった。そのため、多くの民はやがて訪れるであろう平和に歓喜したが、王たちの心情は複雑なものである。


 ある國の王は女王を認めず、その命を奪おうとし、また別の王は女王の権威を我が物にしようと、まだ年若い王女を華那國から連れ去ろうとした。


 そして今、華那國を滅ぼそうとしている耶羅國の王、千隼ちはやは、前者だ。彼は予言の女王を護ろうとする華那國の必死の抵抗など物ともせず殺戮の限りを尽くしていた。


 やっとの思いで敵兵たちから逃れた衣紗と侍女は、集落の一番端である外壕にたどり着く。すぐさま巨木の陰に隠されるように設けられた小さな土橋を渡り、集落の外へと抜けた。


 外は薄闇の森がしんしんと広がる山だ。山は小高く、集落を一望できるため、王族だけが入ることを許された神聖な場所とされていた。集落を焼く炎もこの聖域までは届くまい。


 衣紗は平時であればけして足を踏み入れることのないその山の中へと、侍女の手を握りしめながら逃げ込んだ。



「山を越え、川に出れば逃げ切れます。川には小舟を用意させました。小舟で川を下れば、波里國です。きっと波里國王なら衣紗様を助けてくださいます」



 波里國王は衣紗の異母兄である。数度しか会ったことはないが、記憶の中の彼はいつも衣紗に優しく、妻にと望んでくれていた。助けてくれるに違いない。侍女の言葉に頷いて、衣紗は己のすぐ背後に迫り来ていた死が少しばかり遠ざかったことに喜んだ。 



(助かる! 私だけは助かる! そうよ、この山を越えることさえできれば、私は。私だけは!)



 枯葉が敷き詰められた獣道を、まるで薄汚れた獣のように駆け上がりながら衣紗は、ふと、生まれたばかりの異母妹のことを思い出す。生に対する希望を見出して、自分以外の者を想う心のゆとりが生まれたのだ。



(あの子も殺されてしまったかしら)



 すぐに衣紗は瞳を細め、憐れみを帯びた表情を浮かべる。



 ――殺されてしまったに違いない。



 大きかった父王も強く逞しかった兄弟たちも殺された。生まれて間もない妹は片手に収まるほど小さく、僅かな力でへし折れてしまいそうなくらいに柔らかく弱々しい。自ら立つ力さえない妹が、この戦場を生き延びているはずがなかった。



(まあ、どうでもいいわ。死んでしまっていたとしても所詮よそ者が生んだ子よ)



 衣紗は妹の母親の顔を思い浮かべながら鼻を軽く鳴らした。


 衣紗と妹。華那國王の娘と言えば、この二人だけだ。


 巫女たちは華那國王の娘が女王になると予言しただけで、それが衣紗なのか、妹なのか、はっきりとは告げなかったが、誰もがそれを華那族の母親を持つ衣紗のことだと信じて疑わなかった。


 哀れな妹は伊都族の女を母親に持つ。いわば、華那國の者たちからしてみれば、よそ者だったからだ。


 さらに、華那族の衣紗は生まれ落ちた時から玉のような美貌を持っていた。まるで神々が丹精を込めて磨き上げたかのような滑らかな白い肌に、艶やかな黒髪。黒曜石をはめ込んだかのような彼女の瞳に映りたいと望む男は後を絶たなかった。


 華那國から女王が誕生するのだとしたら、この美しい衣紗以外に考えられない。そうと信じた華那國の民によって、衣紗は天上の神々を崇めるが如く大切にされて育った。


 彼女が望めば、望んだ以上のものが与えられ、金も銀も宝玉も絹も、人の心さえ彼女の意のままだ。


 斯くして至極の幸せを与え続けられた衣紗は、いつしか自分は女王になるために生まれてきたのだと信じるようになっていった。



 ――それなのに。



 衣紗は狩人に追われる獣のような自分に大声で喚きたくなる。しかし疾うに呼吸が上がり、体力も限界に達していた。よろめき、転げるようにして走り続けること以外に衣紗にできることはない。



(山を。山を越えなければ。なんとしてでも生き延びるのよ)



 パキリ、と衣紗の足の下で枯れ枝が弾けた。足の裏に鋭い痛みが走って、一瞬、衣紗は体を震わせ、侍女の手を振り払う。



「衣紗様!」



 ひゅっと、大気を切り裂く音が響いた。そう思った直後のことだ。まるで鳥が風を切って飛ぶように一本の矢が侍女の胸を貫く。続けて、もう一本、さらに一本。驚愕に瞳をまん丸にした侍女が衣紗に向かって大きく腕を伸ばした。衣紗も手を伸ばす。だが、衣紗の手が侍女の手を握ることはなかった。


 紅蓮の炎が駆けてくる。いや、違う。男だ。弓を手にした青年が駆け寄って来て、新たな矢を構えると、その矢先を衣紗の胸元に突きつけた。



「お前が華那國の王女、衣紗で間違いはないな。わたしは耶羅國の王、千隼。耶羅國は女王を認めない。お前の命を取るが、恨むのなら戯言を口にした巫女たちを恨め!」



 すぐ目の前で呆気なく散った命に言葉を失っていた衣紗であったが、生まれて初めて受けた高圧的な物言いに、不快感が悲しみを凌駕する。素早く顔を上げ、キッと相手を睨みつけた。


 だが、その一瞬後、衣紗は松明の灯りに照らされた青年の姿に、はっと息を呑む。


 青年。――いや、そう呼ぶには僅かに幼い。千隼は衣紗の想像以上に若く美しい少年王だった。


 噂に聞く耶羅王は、獰猛な肉食獣のような王だ。周辺の小さな國々に攻め入り、征服し、自國を大きくしてきたと聞いた。


 なるほど、目の前の千隼は噂通りに雄々しい。はっきりと墨を引いたような眉。強い意思を感じられる大きな瞳。身に纏った麻の袈裟衣はおびただしい返り血で濡れており、木綿でまとめられた長い髪もひどく乱れ、右頬に刻まれた鮫を模した刺青にほつれ毛が貼りついている。


 だが、衣紗はその精悍な顔立ちからあどけなさを感じ取ってしまった。すべては千隼が衣紗よりも年若い少年であるせいだ。



 ――千隼は父王を殺し、兄弟を殺した。



 そうだと分かっていてもなお、衣紗は千隼を前にして逃げることも罵ることもできず、まるで金縛りにあってしまったかのように一切の身動きが取れなくなっていた。


 仇であるはずの相手。今にも自分を殺そうとしている相手であるはずなのに、その相手に強烈に惹かれている自分を、どう足掻いても止められない。


 一方、千隼も衣紗の美貌を目の当たりにして脳天を打たれたような衝撃を味わっていた。これほどの美女を未だかつて見たことがなかったのだ。


 松明に照らされ輝く黒曜石の瞳。その瞳に自分自身が映り込んでいることに気が付いた千隼は、胸が焼け焦げるような苦しさと喜びを瞬時に味わう。全身の肌が粟立った。


 落ち着かない。今にも駆け出し、大声で喚きたくなる衝動。胸が騒ぐ。何か強大な力に急かされ、突き動かされようとしていた。


 ――彼女を掻き抱きたい。強く抱いて己の両腕に彼女を閉じ込めたい。手に入れたい!


 千隼は弓矢を持つ手から力が抜けていくのを感じ、両腕を下ろす。もはや彼女の命を奪うことができなくなっていた。



「千隼様、どうされたのですか」



 松明を掲げ、千隼に付き従っている男が、早く衣紗を殺せと主を促す。松明の炎がゆらりと揺れて、衣紗と千隼の顔に濃い影をつくった。



「この女を、どうしても殺さなければならないのか?」


「何をおっしゃっているのですか。女王になると予言を受けた少女ですよ。必ずや、千隼様の覇道の妨げになります」


「妨げか」


「ええ、妨げです!」


「……そうだな。流生るい、お前の言う通りだ。王たちを総べるのは女王ではない。このわたしだ!」


「そうです! 千隼様こそ至上の存在でなければなりません」



 千隼の言葉を受けて流生と呼ばれた従者の荒っぽい声が間髪入れず響いた。


 いつからそこにいたのか、薄闇から姿を現した数十の兵士たちが荒馬のように猛る気持ちを抑えながら千隼を見つめている。


 彼らは予言を受けた王女を殺すために華那國まで攻め入ってきた。そして、たったひとりの少女を殺すために、比較にもならない多くの血を流したのだ。ここまでやってきて衣紗を殺さない理由が彼らには微塵も無い。



「殺してください、千隼様」


「そうです。殺してください」


「殺してください!」



 殺せ、殺せ、と息巻く兵士たちに背を押され、千隼は弓矢から鉄剣に持ち直した。


 鞘を払う金属の擦れ合う音が響き、衣紗は血の気が引く。指先がひどく冷たくなって強張っていくのを感じた。



(――殺される!)



 殺せ、殺せ、と声はますます荒く大きく渦巻いていく。衣紗は指先を握り込むように、ぐっと拳をつくった。そして、打ち拉がれるように膝を折って千隼の足元に額を押し当てる。



「助けて下さい。どうか命ばかりは」


「それは出来ない相談だ」


「助けて頂けるのなら愛を捧げます。心から貴方を愛し、お仕えします」


「なんだと?」



 言われた言葉の意味が分からないと見下ろしてくる千隼の眼差しを、衣紗は顔を上げて真っ直ぐに見つめ返した。


 千隼は仇だ。彼に降伏するくらいならば死ぬべきだと思う一方で、衣紗は心を奪われてしまっている。圧倒的な力強さを見せつけ、それまで衣紗を護ってくれていたすべてを破壊し尽くした千隼。その彼の足元に屈しながら衣紗は千隼のすべてを得たいと切望した。


 千隼の熱い眼差しも、その逞しい腕も胸板も、声も心も吐息さえも――。



(千隼を知りたい。彼に愛されたい!)



 この強い少年に愛されるのなら自分のすべてを捧げよう。たとえ、無念のうちに死んだ父王や兄弟たち、華那國の民に口汚く罵られたとしても。何を失っても惜しくはなかった。なぜなら、きっと今まで与えられ続けてきた幸福よりもさらに大きな幸福を千隼が与えてくれるに違いないからだ。


 父王や兄弟たちよりも千隼を。華那國の民よりも千隼を。華那の王女として矜持を守って死ぬことよりも、千隼に愛されながら生きることを選び、衣紗は澄み渡った声で言い放った。



「私は女王になります」


「なられては困るから殺すのだ」


「いいえ、決して私は貴方の覇道の妨げにはなりません。私が予言の女王になれば、貴方の妻として、夫である貴方に至上の位を捧げることができるからです」



 ごくりと、千隼の咽が音を響かせた。



「わたしにお前を娶れというのか?」


「お仕えします。必要でしたら、女王という名の駒にも傀儡にもなります。その代わり、貴方の愛を私にください!」


「千隼様、戯言です。耳を貸してはなりません。殺すのです! のちの災いとなる女です。殺さねばなりませんっ!!」



 松明の炎を掻き乱しながら流生の悲鳴が響く。兵士たちの間にも稲穂が波打つようなざわめきが広がった。だが、千隼は動じない。それらを片手で制して高らかに笑い声を響かせた。



「面白い! 女王という名の駒にも傀儡にもなるか」


「すべて捧げます。私は貴方のものです」


「すべて――。お前のその瞳も、その唇も、滑らかな肌も」


「そうです。私の声も、心も、夢も、意志もすべて千隼様のものです」



 衣紗は一瞬も千隼から視線を逸らさなかった。永遠とも思える時間をかけて千隼を熱く熱く見つめ続けた。


 やがて千隼の顔がわずかに綻ぶ。その表情の変化を読み取って、衣紗は至極の愛を手に入れたことを確信した。




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