第8話 必要悪
夜の協会。
アキヤマは不在で、広間には盤の片づけをする音だけが響いていた。
外では、黒い車が一台ゆっくりと止まり、男たちが無言で封筒を渡していく。
それはいつもの光景――のはずだった。
タツヤは窓越しに、その車のナンバーを見た瞬間、息を呑んだ。
数日前、白い粉を取引していた現場で見た黒塗りの車。
同じ型、同じ塗装。
偶然だとは思えなかった。
記者としての“読み”が疼いた。
そして――弟子としての信頼が揺れた。
「……まさか」
タツヤは躊躇しながらも、アキヤマの執務室に足を踏み入れた。
机の上には整然と並べられた資料。
鍵が掛かっていない引き出しを開くと、古い帳簿があった。
「寄付金 地域振興費」
「文化支援事業 支出明細」
どのページも整っている。
ただ――いくつかの封筒には、見覚えのある黒い印章が押されていた。
それは、現場の袋にも刻まれていた“マルア”の刻印だった。
タツヤの背筋に冷たい汗が伝う。
協会とマルア。
正義と悪。
表と裏が、まるで最初から同じ盤上にあったかのように。
「――何を見た?」
振り向くと、そこにアキヤマが立っていた。
いつもの穏やかな笑み。
だが、その眼だけは笑っていなかった。
「……先生、これは一体……」
「見れば分かるだろう。だが、怖がることはない。これは“悪”じゃない。」
アキヤマはゆっくりと机に手を置いた。
「タツヤ、この街では正義が機能しない。
政府は票を売り、警察は沈黙を買う。
だから、我々が“読み取って”動かすしかない。
暴力を暴走させないために、暴力で均衡を取る。
マルアはそのための駒だ。」
「……人を救うために、麻薬を流すんですか?」
「流れは止められない。ならば、“誰の手に流れるか”を選ぶ。
それが秩序だ。」
アキヤマはデスクから棋譜を取り出し、指でなぞった。
「見ろ。王を守るためには、歩を捨てねばならない。
誰かが犠牲を読む。それが、この街の将棋だ。」
「……それがあなたの“必要悪”ですか。」
「そうだ。
悪を排除すれば、街は空洞になる。
私たちは悪を支配し、形を与えているだけだ。」
その声は静かで、恐ろしく澄んでいた。
「君が書く記事も、協会の活動も、私が守っている。
だから好きに書け。どうせ揉み消される。
それでも――将棋は続けろ。
あれは暴力の外側にある“救い”だから。」
タツヤは言葉を失った。
怒りと恐怖の間で、理解のようなものが生まれそうになる。
それが一番の恐怖だった。
アキヤマは背を向け、窓の外を見た。
街の明かりが盤のように広がっている。
「人は正義を信じたい。だがこの街では、正義の駒はすぐに詰む。
だから私は悪の手で、王を守る。」
タツヤの拳が震える。
正義を叫んでも、誰も振り向かない街。
だが、悪を肯定すれば、自分が壊れる。
外から、ルアンたちの笑い声が聞こえた。
盤の上では、まだ希望が生きていた。
――この街の将棋は、誰が指している?
タツヤは静かに息を吐いた。
「……先生。
あなたの読みが正しいのか、俺が間違っているのか。
どちらにせよ、俺は最後まで読む。」
アキヤマは答えず、ただ一手を置いた。
駒音が鳴る。
それは、街全体を包み込むように響いた。




