最終話 盤上の街
街外れの細い坂を下りきったところに、その建物はあった。
二階建ての古い木造。
色の落ちた外壁に、小さな木の板がひとつ打ち付けられている。
CIDADE
かつて濃かったであろうインクは、雨と陽ざしに削られ、
今は掠れて、近くまで寄らなければ読めない。
そのすぐ横の壁には、子どもの落書きが残っていた。
C I D A D E → CHITTA
その下に震える字で「チッタ」と小さく書き足されている。
誰かが音のまま読んで、そのまま定着したのだろう。
この周辺の子どもたちにとって、ここはずっと前から
“チッタ先生のところ”だった。
木枠の窓から、笑い声と、ぱちん、と駒の音がこぼれてくる。
ルアンは、軽く息を整え、扉に手をかけた。
蝶番がきしむ音とともに、扉が開く。
中は、外から見るよりずっと明るかった。
斜めに差し込む陽光が、擦り減った盤と子どもたちの頭をやわらかく照らしている。
部屋の真ん中。
座布団に腰を下ろし、子どもたちに囲まれている老人がひとり。
白髪は短く、背筋はまっすぐ。
深い皺の奥に宿る目は、小石のように澄んでいた。
「ここに打つと、玉は、どこに行けますか」
低く短い声。
子どもたちが、盤に顔を寄せた。
「こっちは……取られる」
「ここも、逃げ道なくなる……」
老人は急かさない。
眉の動きと、ため息の気配だけをそっと見つめている。
やがてひとりが、おそるおそる別のマスを指した。
「……じゃあ、こっち」
ほんのわずかに顎が引かれる。
「いい手です」
それだけ言って、駒を指でつまみ、盤に置く。
乾いた木の音が、部屋にひとつ響いた。
入口近くで立ち止まっていたルアンに、
一番後ろの少年が気づく。
「おい! チッタ先生、人きた!」
「きょうしつ、見てっていいよ!」
混ざった言葉が飛んできて、ルアンは軽く頭を下げた。
「少し、見学させていただいても、よろしいですか」
自然と、敬語になる。
盤の前の老人が、ゆっくりと顔を上げた。
陽光の向こうから届く視線は、
長い年月をくぐり抜けた石のように静かで、揺れなかった。
老人は何も言わない。
ただ、窓際の丸椅子に一度だけ視線を送る。
それだけで十分だった。
ルアンはそこに腰を下ろし、子どもたちの読みを聞く。
「玉が逃げるところを、ひとつ、残しておく手もあります」
老人がぽつりと言う。
「逃げ道を全部埋める前に、“どこが生きているか”を数えてあげると、手は死にません」
なぜだろう。胸の奥に、その言い回しが落ちてくる。
――昔、同じような声を聞いた。
――血の匂いがする夜にも、静かに“読み”を教えてくれた男がいた。
その背中を思い出すたびに、どこかが疼いた。
一区切りつくと、子どもたちは奥へ水を飲みに走っていった。
部屋には、老人とルアンだけ。
陽の角度が変わり、盤上の影が細く伸びる。
「……市長さん」
老人が先に口を開いた。
短く、低く、乾いているのにどこか温かい声。
「ここまで、よう来られました」
「噂は、耳に入っておられたんですね」
ルアンは背筋を正した。
「街の人が言うんです。
“話を最後まで聞く市長がいる”と」
老人は黙った。
沈黙が、長い年月の重みをそのまま語っていた。
ルアンは、入口の方へ視線を向けた。
「外の看板……まだ、“CIDADE” と読めました」
老人の指先が、かすかに動く。
「街、という意味だと、教わりました。
でも、子どもたちは読めなかったんでしょうね」
ルアンは微笑む。
「だから、音で呼んだんでしょう。
“チッタ先生のところ”って」
老人は答えず、駒箱のふたを開けた。
使い込まれた玉将を取り出し、盤の中央にそっと置く。
重い静寂に沈んだままの老人の前で、
ルアンは深く息を吸う。
「……本日ここに伺った理由が、もうひとつございます」
老人の視線が、玉からわずかに外れた。
「今日は――先生の、お誕生日ですね」
ルアンは深く頭を下げる。
その言葉に応えるように、室内の空気がふっと揺れた。
老人の口元が、かすかにほころぶ。
「よく、覚えておられました」
「忘れようとしても、忘れられません」
ルアンは顔を上げた。
「この街では、子どもたちが自分で考えて指すようになりました。
大人たちも……前へ進む前に、“どこなら無事でいられるか”を読めるようになってきました。」
それは説明ではなく、
ルアン自身が街のどこかで見た、小さな風景の積み重ね。
老人の肩から、わずかに力が抜ける。
「それなら……よう、読みました」
そして、向かい側にも玉をひとつ置いた。
「続きを」
短い言葉。
「将棋で、よろしければ」
ルアンは、盤の反対側に座りなおす。
駒を並べる音が、ゆっくりと部屋に満ちていった。
奥から子どもたちの足音が近づく。
その直前の、ほんの短いあいだだけ――
街を読み続けた者と、光の側に立った教え子のあいだで、
静かな一局が始まろうとしていた。
そのころ――日本。
駅から少し離れた古い喫茶店の隅で、
タクミはひとりコーヒーを飲んでいた。
壁際のテレビでは海外ニュースが流れている。
画面の中で、スーツ姿の男が市民に語りかけていた。
「スーパウロ市長 ルアン・ハート」
テロップをぼんやり眺めながら、タクミは片眉を上げる。
「スーパウロ、ねえ……」
カップをソーサーに戻し、窓の外へ目をやった。
見慣れた日本の街並みと、画面の向こうの陽ざしが、
ふっと頭の中で重なる。
ふと、日付がひっかかった。
「……そういや今日は、タツヤの誕生日だな」
誰に聞かせるでもない小さな声。
返事の代わりに、湯気だけが静かに立ちのぼる。
タクミは、薄く笑った。
遠い街の名前と、ゲーセンで聞いた声が、
胸の奥で一瞬だけ重なっては、すぐにほどけていった。
窓の外では、信号が変わり、
人々が、それぞれの行き先へ歩き出していた。
スーパウロでは今日もどこかで、小さな将棋教室の噂が流れる。
街外れの古い建物で、寡黙な老人が、
子どもたちに、“生きている手を数える”遊びを教えている――と。
その盤の上で鳴る、絶えない駒音が、
スーパウロという街の、これからの一手を、
ゆっくりと押し出していた。
後書き
少しでも、この物語を開いてくださったあなたへ。
それだけで、もう十分です。
ページをめくってくださるたびに、遠い街のどこかで、
誰かが“読み”の世界に触れてくれている。
その事実だけで、私は何度も救われました。
本当に、ありがとうございました。
スーパウロの駒たちは、きっとこれからも、
あなたの見えないところで静かに動き続けます。
勝つ日もあれば、苦しい日もあるでしょう。
それでも――読んでくださったあなたがいた。
その温度ひとつで、この物語は未来へ進めます。
もしまたどこかでお会いできたなら、
ほんの少しだけ胸を張って、こう言わせてください。
「読んでくださって、ありがとうございました。」
……それだけで、十分すぎるほどです。
本当に、それだけで。




