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盤上の街スーパウロ  作者: TAMI


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第54話 光の継承

年月は流れた。


スーパウロの空から、あの頃の濁った煙はほとんど消えていた。

高台から見下ろす街は、まだ傷も段差も残っている。

それでもルアンには、盤そのものが別物になりつつあるように見えた。


 


ルアンは、やがてスーパウロ警察の頂点に立った。


「検挙数が落ちてますよ、本部長」


古株の刑事が、資料を机に叩きつける。


「数字は前の方がきれいでした」


ルアンは、淡々と返す。


「数字のために指した手が、

 誰かの逃げ道を潰していたなら、ぼくはそっちの方が“汚い”と思います」


「……理想論ですよ、そんなの」


「ええ。だからこそ、“上”に来たんです」


わざと軽く言い切ってから、ルアンは一度だけ視線を落とす。

机の端には、昔から持ち歩いている古い駒が一つ置いてある。


(自分の出世より、この街の升目を整える方を優先する)


その覚悟を、最初に決めた日の重さだけは、未だに指先に残っていた。


 


警察だけでは足りないと悟るまで、時間はかからなかった。


「悪い大人を捕まえるだけじゃ、

 新しい駒が、また同じ升に生まれてきます」


将棋協会の会長に就いたルアンは、

貧民街の空き店舗をいくつも改装し、小さな教室を増やしていった。


狭い部屋に、盤が二、三面。

ぐらつくパイプ椅子に、子どもたちが腰かける。


「会長、“読み”ができれば悪いことしなくなりますか?」


歩をつまんだまま、少年が眉をひそめる。


「悪いことをする人は、読みがあっても消えません」


「じゃあ、意味ないじゃん」


「でも――」


ルアンは、盤の上の玉を指で軽く押した。


「“この一手の先で誰が踏まれるか”を考えられる人は、

 人を踏みつける手を、少し指しにくくなります」


どこかで聞いた言い回しだった。

かつてこの場所で、あの人が笑いながら言った声が、耳の奥でかすかに重なる。


少年は、向かいの友達の顔をちらりと見てから、歩を一つ前に出した。


「じゃあ、これは踏んでない?」


「いい手です。自分の玉の逃げ道も、ちゃんと残ってますから」


「よし」


そんなやりとりが、街のあちこちの教室で繰り返されていった。


 


年月がさらに流れ、ルアンは市長に選ばれた。


 ――「誰もが平等に暮らせる街へ」


掲げた言葉に、議会の古い議員が鼻で笑う。


「絵に描いた餅だな、ルアン市長。

 この街は、きれいごとだけじゃ動かん」


「きれいごとを口にする余裕すらない街から、

 やっとここまで盤を進めたんです」


ルアンは、議場の窓の外を見やる。


「あと何手かは、理想を言う権利があると思いますが」


嘲笑とため息が混ざる。

それでも予算案は、ぎりぎりの賛成多数で通った。


教育と医療、路地の相談窓口。

“話を聞く場所”にだけは、必ず升を割くようにした。


 


いつの間にか、街のあちこちに「考えてから動く大人」が増えていた。


夜のパトロールで、若い巡査が呟く。


「本部長、市民って、こんなに話してくれる人たちでしたっけ」


「前からですよ」


ルアンは苦笑する。


「話しても潰されない升が、少し増えただけです」


学校では、昔は路地で喧嘩ばかりしていた元・不良の教師が、子どもたちに駒の動かし方を教えている。


市役所の会議では、若い職員が決裁案の余白に、小さくメモを残す。


 ――「この一手の先で、いちばん踏まれる人は誰か」


その問いを書いた本人は、それが特別な言葉だとは思っていない。

ただ、いつかどこかの誰かがそうやって盤を見ていたと、ぼんやり信じているだけだ。


教室の卒業生たちの中には、警官になった者もいれば、教師や看護師、路地の店主になった者もいた。


彼らが同じ席に座ると、ふと似たような口癖が出る。


「ちょっと待て、一手先を考えよう」


それを聞いた周りの誰かが、


(ああ、こいつも昔、どこかで駒を触ってたんだな)


と、なんとなく察するだけだった。


 


そんな空気が当たり前になった頃、

スーパウロの片隅で、ある噂がひそやかに広がり始めた。


――古い通りの角を曲がった先に、

 午後だけ開いている小さな将棋教室があるらしい。


看板は色あせ、扉は指で押さないと閉まりきらない。

中には、年寄りが一人と、擦り減った盤が数面。


「そこに打つと、自分の玉の逃げ道がなくなりますよ」


「玉は、怖くても一歩前に出ないといけません」


そんな声が、夕方になると路地に漏れてくるという。


「最近さ、警察だの学校だの役所だのに、

 妙に“読みの利く”奴らが増えてきてるだろ」


バーのカウンターで、誰かがそう言う。

向かいの客が笑いながら返す。


「そもそも、その教室の先生もよ。

 かつてこの街を何度か救った将棋打ちだ――なんて話まである」


「名前は?」


「さあな。誰も本当のところは知らねえよ」


噂の出どころは曖昧で、先生の名前をはっきり言える者もいない。

それでも、どこかで誰かがそうであってほしいと願うには、十分だった。


 


ルアンは、市庁舎の窓から、その通りの方角をときどき眺める。


(この街は、もう一人じゃ読めない)


自分の読みだけでは届かない升が、まだいくつも残っていることを知っていた。

それでも――


考えることができる大人たちが、

少しずつ、盤のあちこちに増えている。


まだ開いていない升はある。

けれど、その上に手を置こうとする指は、もう自分一人のものではない。


スーパウロの空は、あの日より少しだけ明るくなっていた。


街のどこかの教室で、

今日もまた新しい子どもが、最初の一手を覚えている――


そんな噂とともに、ルアンは静かに足を運ぶ。

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