第53話 英雄のいない街で
あの闇の対局から数日後。
一枚の紙の上に、あの夜の終わりが押し込められようとしていた。
事件の概要。
負傷。
搬送。
処置。
容態の急変。
数行の文で、地下ホールから病院までのすべてが、きっちりと区切られて並んでいる。
最後の行だけが、まだ空白のままだった。
――スーパウロ将棋協会代表
タツヤ 死亡確認。
報告書の末尾、署名欄の手前で、ペン先が止まる。
黒インクが、かすかに紙繊維へとにじんだ。
(この名前を書くってことは――事実の“形”を、自分が選ぶってことだ)
あの地下の盤。
そこに座っていた男の背中。
玉として、最後まで盤上に残ろうとしていた人間を――
紙の上では、自分の手で盤外に運び出すことになる。
指先に、妙な重さがまとわりついた。
紙一枚のはずなのに、胸の奥まで引っ張られるような感覚がある。
息を吸う。
浅い。肺の奥まで届かない。
(ここに書かれないものの方が、きっと多い)
影に沈んだ年月。
誰にも知られないところで守られた命。
血でしか押し返せなかった、いくつもの局面。
この紙の上では、“それ以上”語られることはない。
それでも、ペンは動かさなければならない。
ルアンは、署名欄にゆっくりとペン先を運んだ。
わずかな震えをごまかすように、ひと文字ずつ区切って書き入れる。
――ルアン・ハート。
最後の一画を結んだ瞬間、胸の内側で、何かが小さく軋んだ。
紙の上でひとつの命を「そういうものだった」と決めてしまう重さが、
指先に、そのまま残っている。
「ルアン、会見の準備が整った」
ドア越しに声が掛かる。
ルアンは報告書を閉じ、静かに立ち上がった。
制服の襟元を整え、階級章の位置を確かめる。
鏡に映る顔は、いつもどおりの警官のそれだった。
ただ、喉の奥だけが、少しざらついている。
会見場のライトが、一斉に熱を帯びる。
記者たちのざわめき。
カメラのレンズが向けられる乾いた音。
マイクの先に広がる、白い光の海。
用意された演台の前に立つのは、警察を代表して選ばれた男――ルアンだ。
原稿を開く。
何度も読み返したはずの文字列が、紙の上でほんのわずかに滲んで見えた。
「本日未明、スーパウロ市警は、
将棋協会代表タツヤ氏の死亡を確認しました」
最初の一文を口にした瞬間、胸のどこかが、かすかに沈む。
(今、自分の声で――この街の“結論”が決まっていく)
だが声は、訓練どおりのトーンを外れなかった。
「犯罪組織マッセ残党による一連の事件の中で、
同氏は、自らを危険に晒しながら市民の安全確保に尽力されました。
今回の出来事は、この街にとって大きな損失です」
フラッシュがまた一度、視界を焼く。
瞬きを増やしたくなるのを、まぶたの裏側で押しとどめる。
原稿には書かれていない言葉が、喉の奥で渋滞していた。
“影”。
“汚れた手”。
“必要だった一手”。
真実に近い単語ほど、この場では決して口にしてはいけない。
「この街がこれから先、表の盤だけで立っていけるように。
その足場を作ってくださったのは、間違いなくタツヤ氏です」
“影の男”でも、“裏の王”でもない。
ここで呼べるのは、ただ「将棋協会代表」という肩書きだけ。
ほんの一瞬、声がわずかに掠れた。
マイクの前で、指先に力を込める。
(タツヤさん。
自分は――こちら側で、読みを続けます)
それ以上は、言葉にしなかった。
質問が飛ぶ。
いつ撃たれたのか。
誰が引き金を引いたのか。
なぜ、そこまでして彼を狙ったのか。
ルアンは、公表できる範囲の事実だけを淡々と返していく。
語るべきことと、語らないと決めたこと。
その境目を、胸の中に一本の細い線として引きながら。
やがて会見は終わり、ライトが一つずつ落ちていく。
熱の引いた会見場は、さっきまでより広く、冷たく感じられた。
誰もいなくなった壇上で、ルアンは一度だけ、置きっぱなしのマイクに視線を落とす。
(今日、自分はこの街を守るために、ひとつの真実を手放した)
それが、本当に正しかったのかどうかは分からない。
ただ――別の選び方をした自分の顔を、想像することはできなかった。
会見の映像は、その日のうちに街中のスクリーンとテレビを埋め尽くした。
将棋教室では、子どもたちが黙って画面を見上げる。
路地の小さなバーでは、誰かがグラスを傾けながら「英雄だ」と呟く。
「七年も、あの地下で踏ん張ってたらしい」
「影でどれだけの奴らを止めたんだ」
断片的な噂が、ニュースのテロップと混ざり合って流れていく。
――「将棋協会代表タツヤ、マッセ残党の銃撃により死亡」――
表向きの盤上では、それが揺るぎない“結論”として受け入れられていった。
会見場を出て、夜の廊下を一人で歩く。
窓の外には、スーパウロの街灯が、点と線を結ぶように並んでいた。
あの街のどこかで、まだ誰かが盤を見下ろしているかもしれない。
あるいは、本当にもう誰も見ていないのかもしれない。
それを確かめる術はない。
(自分は、光の側で読みます。
タツヤさんが、どこにおられても)
声には出さず、心の中でだけ、敬語を保ったままそう告げる。
今日、紙の上で決めてしまった「結末」を、
これから先も、自分の一手一手で引き受けていく。
英雄は死んだ。
――少なくとも、この街の記録の上では。




