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盤上の街スーパウロ  作者: TAMI


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第52話 光と影の盤

ルアンは分かっていた。


消されるはずの証拠が、なぜか自分の手元に届いた夜が、何度もあったこと。

死んでもおかしくなかった現場で、偶然とは呼べない退路だけが、必ず一本だけ残されていたこと。


それがただの運でも、神様でもないことくらいは、とっくに気づいていた。


盤の端から、そっと置かれる静かな一手。

それがどんな指し手の癖なのか――ルアンには、誰よりもよく分かっていた。


「……これは、俺の将棋です」


深夜の事務室。

書類の山と、唸り続ける古いエアコンだけが、残業の音を立てている。


誰もいない部屋で、ルアンは一度だけ、はっきりと声に出した。


「でも、支えてくれてたのが誰かくらいは……分かってます」


返事はない。

影の指し手は、名を名乗らない。


それでいい、とルアンは思った。

思おうとした。


タツヤさんが影に沈んで、もう何年も経つ。

あのとき、自分には止める力がなかった。

「一緒に表を歩きましょう」と言う資格すら、なかった。


(あの人は、もう俺の前には戻ってこない)


そう分かっているのに、どこかでまだ、

路地の角を曲がったら、ふっとあの後ろ姿が現れるんじゃないか、とさえ思ってしまう。


悔しさと、情けなさと、感謝と――

全部まとめて飲み込んで、ようやく出てきた言葉が、さっきの一言だった。


光と影。

どちらが正しいかを決める話じゃない。


(俺は、光の側で読む。

 タツヤさんは――影の側から、まだどこかで盤を見ている)


その距離が、どうしようもなく残酷で、

それでも誇らしいと感じる自分がいる。


自分が一本の筋を読み当てた頃には、

あの人の読みは、もう終局まで届いているのだろう。


(追いつけない。

 でも、追いつけないからこそ――表で最後まで指し切る)


警察になって、五年は軽く過ぎた。


ロッカー越しに「余計な仕事増やしやがって」と文句を言われていたのは、もう数年前の話だ。

今はそのロッカーの影から、

「これ、お前の方が読めるだろ」と

地味なファイルを押し込んでくる手もある。


汚職を暴き、マッセの残党を追い、

何度か本気で「ここで終わる」と思った瞬間をくぐり抜けてきた。


銃口を向けられた路地。

爆発物が見つかる前に、ギリギリで住民を避難させたビル。

読みが半歩でもずれていたら、誰かの命が盤から消えていた局面ばかりだ。


(表の盤で読み違えたら、倒れるのは市民で、部下で、俺だ)


影は盤を整えられる。

退路を一本だけ残し、暴れ駒をあらかじめ消しておくこともできる。


けれど、どのマスに立つか。

どこで撃ち、どこで撃たないか。

どの瞬間に踏み込み、どこで引くか。


それを決めるのは――光の側にいる、自分の読みだけだ。


(タツヤさんの読みは、影で“最悪”を削る読みだ)

(俺の読みは、その上で“誰を残すか”を選ぶ読みだ)


ようやく、そう言い切れるだけの死線を、いくつか越えてきた。


その日、机の上に一枚の資料が置かれた。


地下ホールの見取り図。

かつて公式戦の会場として使われ、今は“使われていない”ことになっている場所。


にもかかわらず、ここ数週間、

その周辺だけ、妙に人と金と通信が集中している。


名前のない貸し倉庫。

夜だけ動く車両。

上層のスケジュールから、さりげなく消された「空白の時間」。


別々の書類の端に、小さな印が重なっていた。


(ここで――“何か”をやる気だ)


誰が玉で、どの駒が集められているのか。

読み切るには情報が足りない。


それでも直感で分かった。


(これは、タツヤさん側の“終盤”だ)


数年前、影へ降りていった人間。

マッセを追い詰め、暴動を未然に潰し続けてきた読み手。


その読みの、一つの終着点が、

この地下ホールに置かれようとしている。


「ルアン、お前にホール周辺の指揮を任せたい」


上層からそう告げられたとき、

ルアンは短く「了解しました」とだけ答えた。


驚きはなかった。

タツヤさんの読みと、これまでの流れを全部合わせれば、表でこの局面を任される駒は、自分しか残っていないと分かっていた。


自分は玉ではない。

この夜の玉は、きっと地下のどこかにいる。

光にも影にも立てる、「街の行方」を決める存在が。


自分の役目は、その外側を固めることだ。

市民を近づけず、部下を無駄に死なせず、

“決戦の盤”を、最後まで表のルールで囲っておくこと。


(タツヤさん)


誰もいない廊下で、心の中だけで名前を呼ぶ。


(あなたが何を読んでるか、俺も表で読みます。

 あなたの読みを、光の側から全部活かします)


戻ってきてほしい。

でも、戻ってきてほしいなんて言える立場じゃない。


あの人は、自分では受けきれなかった“闇”を全部引き受けて、影に沈んだ。

その上で、まだ盤を読んでいる。


せめて自分は、

その読みを無駄にしない光側の駒でありたい。


夜。


装備を整えた部隊が、静かな路地に集まっていく。

ヘルメット越しに交わされる視線は、怖さと覚悟で同じ色をしていた。


「隊長、ビビってます?」


若い隊員が、緊張を紛らわせるように笑う。


「……当たり前だ」


ルアンは、口元だけで笑い返した。


「怖くなくなったら、読みが雑になる。

 怖いときほど、“どこで終わるか”をちゃんと読める」


「じゃあ今日は、だいぶ読めそうっすね」


「そうだな」


短く返して、視線を地下ホールの入口に向ける。


タツヤさんは、きっともうとっくに“最悪”の筋を読み終えている。

自分がようやく到達したこの図面も、

あの人にとっては、ずっと前から盤の片隅に置いてあった図にすぎないのかもしれない。


それでも――


(ここから先の“誰を生かすか”“どこで止めるか”は、俺の仕事だ)


影の読みと、光の読み。

その二つが交わる夜の入口に、今、自分は立っている。


胸の前で、ひとつだけ小さく拳を握る。


「……行きますよ、タツヤさん」


誰にも聞こえない声でそう告げてから、

ルアンは隊員たちに向き直った。


「――突入準備」


短い号令が、路地の闇に沈んでいく。


この先に続く地下ホールの出来事を、

ルアンはまだ、具体的な盤面としては描き切れていなかった。


ただ一つだけ、はっきりと分かっていた。


今夜、光と影、二つの読みが重なった先で、

スーパウロという街の盤は、もう一度大きく形を変える――その手前まで来ている、ということだけは。

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