第51話 浄化の盤
それからの数ヶ月は、
スーパウロ警察そのものが、ゆっくりと組み替えられていく時間だった。
次々に暴かれる汚職。
失脚していく幹部たち。
そのたびに、署の空気が一段ごとにきしんで鳴る。
廊下ですれ違うたび、
以前は笑っていた同僚が目を逸らすようになった。
「よぉ、エリートさんよ」
わざとらしく肩をぶつけてくる男もいる。
ロッカールームのドアが閉まったあと、
「余計なことしやがって」「こっちの仕事ばっか増える」といった愚痴が、金属板越しにくぐもって聞こえてくることもあった。
全部が敵、というわけでもない。
休憩室で資料を抱えたまま立ち尽くしていると、
年上の刑事がコーヒーを片手にぼそっと言う。
「……お前のやり方が気に入らねぇ連中も、多いだろうがな」
「はい」
「それでも、何も言わずに楽な方に流れてきたツケが、今まわってきてるだけだ。
少なくとも“動かそうとしてる奴”まで、全部同じ箱に詰めて腐らせる気はねぇよ」
そう言って、ファイルを一冊だけ肩に乗せてくる。
「ここの帳簿、前から引っかかっててな。公式には“異常なし”だ。
……お前の目で見てこい」
その一冊は、明らかに「ここを読め」と印を付けられた升だった。
他にも、夜勤明けの若い巡査が、
誰も見ていないタイミングでそっと声をかけてくることもあった。
「ルアンさん、このルート、巡回に入れてもらえませんか。
表向きは静かなんですけど、変な車がよく止まってて……」
そういう小さな“味方”が、署内に少しずつ増えていくのも感じていた。
ルアンは、いちいち振り返らなかった。
靴紐を結び直し、決められた巡回ルートに、その“追加の一歩”を組み込んで歩き出す。
(盤を動かそうとしたら……
最初に一番うるさいのは、“動かされたくない駒”だ)
マッセの摘発も進んだ。
捕まえた下っ端の中には、かつての自分と同じように運びにだけ使われていた青年もいた。
取調室の蛍光灯の下で、その青年はうつむきながら、途切れ途切れにこぼす。
「……どうせ、俺が居なくなっても、すぐ次が回ってくるんだよ。
でもここ最近さ、ぱったりなんだ。連絡も、金も。
上の連中が……なんかにビビってんだろ。俺には教えてくれねぇけど」
ルアンは、机に置かれた手錠の鎖を一度だけ見つめた。
その銀色に、自分の腕に残る針痕が重なる。
(上から“切られた駒”か……
それとも、どこか別の盤で、もう一度並べ直されてるのか)
「敵にはならない」
静かにそう言うと、青年が顔を上げた。
「は?」
「お前を、都合よく動かして捨てる場所には戻さない。
ここから先、ちゃんと“駒として”扱われる場所に送る」
「駒、って……」
「動き方は制限される。好き勝手にはできない。
でもな、盤の中に組み込まれれば――
少なくとも、誰かの気分ひとつで叩き落とされる一手からは守られる」
それがどれだけ薄い約束かは、ルアン自身が一番よく知っている。
それでも、“駒として数えられもしなかった”過去の自分から見れば、
それは確かに別の盤だった。
青年が、悔しさと安堵が混ざったような顔で俯く。
机の上で、手錠の鎖が小さく鳴った。
暴力でも金でもなく、ルールと記録と、読み切った筋書きで追い詰めていく。
誰がいつどこで金を受け取り、
誰がどの書類にサインをし、
誰がどのときに「見なかった」と言ったか。
駒を動かすかわりに、行と列を埋めていく。
証言と証拠を積み上げる。
矢倉のように固く、崩しにくい包囲網を作る。
ただ、その積み上げがやけに“乗りやすい日”があることにも、薄々気づいていた。
「ここ、前から怪しいとは思ってたんだよな」
「実はここの帳簿、上からも“見とけ”って言われててさ」
自分が押さえた一点から伸ばした線の先に、
すでに別の印がついていることがある。
誰かが先に読みを入れていたような跡だけが、ときどき混ざっている。
一方で、路地や店の空気の変化は、もっと曖昧で、もっと生っぽかった。
地道な仕事は、すぐには評価されなかった。
署内の味方は、指で数えられるほどしかいない。
会議室で異議を唱えれば、「またあいつか」とため息が漏れる。
夜、一人で帰る足取りは、自然と重くなった。
それでも――足を止める理由にはならなかった。
いつの間にか、路地の子どもたちが、
ルアンの制服の裾を掴んで「ここ危ない」と教えてくれるようになった。
「この角、前は変な車よく止まってたけどさ、最近来ねぇんだ」
「こっちの路地、変な大人いなくなったから、ちょっとだけマシ」
壊れた街灯を直してくれと頼まれ、
夜回りのたびに名前を呼ばれ、
通りの店主が、黙ってコーヒーを差し出してくる。
「前はよ、こういう話すると、あとで誰に聞かれてんのか分かんなくてな」
店主はカウンター越しに声を落とす。
「今もべつに、全部が安全ってわけじゃねぇけど……
気づいたら、うるさい連中がいなくなってた。誰がやったかなんて、知らねぇけどよ」
そう言って、曖昧に空を仰いだ。
(どこかで、誰かが片づけた“何か”がある。
だから、表で声を出せる余地が生まれた)
市民がルアンに情報を渡せるようになったのは、ルアンだけの成果じゃない。
もっと暗い場所の“暴れ駒”を、先に片づけた手があるのだと、どこかで分かっていた。
(少しずつだ。
でも確かに、盤の形は変わってきてる)
以前は「異常なし」の四文字で塗りつぶされていた升に、具体的な名前と顔と出来事が書き込まれていく感覚があった。
ここには、夜一人で歩けるようになった老婆がいて。
ここには、バス停で泣かされなくなった少女がいて。
ここには、「危ない」と警告をくれる子どもたちがいる。
一つひとつの升が、「誰か一人の生活」として立ち上がってくる。
やがてルアンは、異例のスピードで昇進していった。
最初は係のまとめ役。
次に班の責任者。
気づけば、署内の会議で発言を求められる側になっていた。
その一方で、かつて真正面からぶつかってきた上司たちが、
妙にあっさり別部署へ飛ばされたり、
どこか遠くの支署に異動になったりするのも見た。
「上も、ちょっとずつ“片づけ”してるらしいぞ」
「上層の誰が動いてるのかは知らねぇけどな」
そんな噂が漏れ聞こえる。
ルアンには、その線の先が見えない。
(俺には届かない高さのテーブルで……
誰かが、もう一段上の“駒割り”をやってる)
肩書きが増えるたび、
机の上の書類の山も高くなる。
署内の人事表に走る線や矢印の意味も、少しずつ見えてきた。
上から見える盤は広い。
だが、その分だけ、現場の升が小さくぼやけていく危うさも感じる。
(ここから先、上に行けば行くほど……
“人”じゃなくて“配置”として街を見る危険もある)
だからこそ、夜の巡回だけはやめなかった。
どれだけ偉そうな椅子に座らされても、
週に何度かは、自分の足でスーパウロの路地を歩くようにした。
靴の裏で拾う段差。
街灯の明るさ。
人がいなくなる時間帯。
子どもの声が聞こえなくなる路地。
それら全部を、自分の目と耳で確かめる。
そのたびに、あの夜託された言葉を思い出す。
「表の盤に立て」
会議室のガラス越しに街を見下ろすときも。
路地で子どもに肩を叩かれるときも。
(……この街を、どこかの影から一緒に読んでる奴がいる)
そう思えてならない瞬間が、何度かあった。
返事は、もちろん返ってこない。
それでも、同じ盤を別の角度から読む“誰か”の気配だけは――
確かに、感じていた。




