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盤上の街スーパウロ  作者: TAMI


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第50話 決断の夜

そんなことが、一度ではなく何度か続いた。


告発し損ねたはずの領収書が、

なぜか匿名の通報と一緒に監査部に届いている。


内部調査が握りつぶされた案件のコピーが、

別ルートから、ルアンのデスクにそっと回ってくる。


「運がいいな、お前は」


そう言って肩を叩く同僚の手を、ルアンは苦笑いで払いのけた。


(運じゃない。

 一手先を読む“誰か”が、今も盤の外から駒を置いてる)


表の盤に立てと言った声を、ふと耳の奥で思い出す。

その持ち主が、今もどこかの闇から街を見ている気配だけが、

かすかに残っていた。


それでも、最後の決断だけは自分の手でやらなければならない。


決定的な夜が来たのは、

スーパウロの空に、湿った雲が低く垂れ込めていた日だった。


裏路地の小さなバー。

表向きの閉店時間はとうに過ぎているのに、

薄い扉の向こうから、笑い声とグラスのぶつかる音が漏れている。


路地には吸い殻が溜まり、

生ぬるい酒と安いコロンのにおいが、湿気と混ざって鼻についた。


ルアンは、深く息をひとつだけ吸い込むと、ドアノブに手を掛けた。


扉を押し開ける。


奥のテーブルで、警察幹部とマッセ側の男が向かい合って座っていた。


分厚い封筒。

テーブルの下で交わされる、重たい握手。

バーカウンターの中では、店主が視線を滑らせたまま、わざと何も見ない顔でグラスを磨いている。


「ルアン?」


入ってきた顔を見て、幹部が露骨に眉をひそめた。


「ああ……悪いな」

幹部は椅子から半身を起こしながら、肩をすくめてみせる。


「この場面だけは、見逃してもらえると助かるんだが」


言葉とは裏腹に、その右手はゆっくりと腰のホルスターに伸びていた。


金属の留め具が外れる、小さな音。


銃口が、静かにこちらを向く。


「目をつぶれ。そうすれば、お前は上に行ける」

幹部の目は笑っていない。

ただ数字を読むみたいに、ルアンの価値を値踏みしている。


「お前ほど頭が回る奴は、表の看板にしておいて損はない」


(ここで目をそらせば――俺も“そっち側”に並ぶ)


喉の奥で、自分の声がひとつだけはっきりした。


(ここで見逃せば、俺は“守る側の顔をした加害者”になる)


ルアンは、ほんの少しだけ息を吸い、静かに吐き出した。


「……俺の守る相手は、市民です」


幹部の眉が、露骨に歪んだ。

次の瞬間、銃声がバーの狭い空間を裂いた。


耳の奥が一瞬、真っ白になる。

だが身体は、考えるより先に動いていた。


ルアンは棚の影に飛び込む。

転がるグラスの位置、テーブルの脚、幹部とマッセの男の足の向き――

それら全部で、「次に飛んでくる一手」の方向を読む。


(この角度なら――反撃に一発、逃げ道に二歩)


(これは“殺すため”の一手じゃない。

 これ以上、市民を踏ませないための一発だ)


カウンターの端へ滑り込む。

木の縁越しに、一瞬だけ幹部の腕がのぞく。


引き金を絞る。

狙いは胸でも頭でもなく、引き金を握る腕だけだ。


返す一発で、幹部の腕を撃ち抜いた。


「っぐ……!」


悲鳴とともに、幹部の手から拳銃が滑り落ちる。

マッセの男が椅子を倒して後ろに飛び退いた。


その影が裏口へ向かおうとした瞬間――

扉の向こうから誰かの足が伸び、椅子を蹴り倒して通路を塞いだ。


「うわっ――!」


マッセの男がつまずいて転ぶ。

裏口の前に立つ影は、地味な私服にキャップを目深にかぶった若い男だった。


顔までは、ルアンの位置からは見えない。

だが、その一歩には、ためらいがなかった。

まるで、ずっと前からその升に立つ役目を与えられていた駒みたいに。


(……誰かが、ここまでの“筋”を読んで置いた一手だ)


静かで無駄のない立ち方。

誰の指示かまでは分からない。

ただ、「偶然だけではここに立てないな」と思える足運びだった。


そのとき、外からタイヤが軋む音がした。


キィ、とブレーキ。

続いて、路地を駆ける複数の足音。


「……応援なんか、呼んでないぞ」


ルアンが小さく呟いたすぐあと、

バーの入口の扉が、外側から勢いよく蹴り開けられた。


「警察だ! 動くな!」


盾を構えた制服組が雪崩れ込んでくる。

照準が一斉に幹部とマッセの男に向いた。


先頭の隊長格が、ルアンを一目見て叫ぶ。


「おいルアン! お前の内部通報、でかい仕事になったぞ!」


「……俺の?」


一瞬、意味が分からなかった。


「“腐敗現場を押さえる”って署名付きで上がってきたろ。

 お前のIDで回ってきたから、こっちも慌てて部隊組んだんだよ」


そんな通報は出していない。

胸の内で、否定の言葉が静かにうずく。


代わりに、少し遅れて別の感覚が浮かんだ。


(盤の外で、誰かが一手先を読んでる……)


幹部の肩に、背後から手錠がかかる。

マッセの男は床に押さえつけられ、封筒がテーブルから滑り落ちた。


厚い紙が床に落ちる、乾いた音。


そのすぐそばで、さっき裏口を塞いだ私服の男が、さりげなく列に紛れ、何事もなかったように引き上げていく。

振り返りざま、深くキャップの下に隠れた目だけが、一瞬こちらを見た気がした。


声も、名乗りもない。

ただ、「ここまで運んだぞ」とでも言うように。


(誰の駒かは知らない。

 けど――街を守るための一手だ)


数年前、影へ降りていった誰かがいる。

その誰かが今もどこかで、別の駒を動かしているのかもしれない――

そんな考えが、一瞬だけ脳裏をかすめた。


どこからどう繋がってきた一局なのか。

何枚の駒が、見えない場所で落ちていったのか。


それでも、ここで目をつぶるかどうか――

最後に決めたのは、自分だ。


ルアンは、銃を下ろしながら、かすかに息を吐いた。


盤の外から届いた静かな援護と、

自分が「守るため」に選んだ一発が、

ようやくひとつの局面に結びついた気がした。


この夜を境に、

スーパウロ警察という盤は、少しずつだが――確かに形を変え始めることになる。


そして、どこか別の闇のテーブルでも、

誰かが静かに盤を見下ろしながら、次の一手を考えていたのかもしれない。


その読みの先で、

いつか訪れる“別の決戦の夜”を、

このときのルアンは、まだ知らない。

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