表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
盤上の街スーパウロ  作者: TAMI


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

48/55

第48話 読み歩く夜

日々の仕事は、静かな孤独の積み重ねだった。


詰め所で、先輩たちはいつものように笑っている。


「ルート2と3は“異常なし”でいいだろ。どうせ誰も見ねぇって」

「マッセの店の前だけ“巡回中”。それ以外は“異常なし”。はいおしまい」


ボールペンが、白い紙の上に同じ四文字を量産していく。

異常なし。異常なし。異常なし。


「ルアン、お前の分も書いといてやろうか?」


「……いえ。自分のは、自分で歩いてから書きます」


ルアンが立ち上がると、タバコと安いコロンのにおいが、背中にまとわりついた。

扉を閉めると、笑い声ごと夜風に押し流される。


 

外に出ると、スーパウロの夜は、いつもの混ざり方をしていた。

ネオンの光と、路地の暗がり。

陽気な音楽と、どこかで上がる怒鳴り声。


(ここは、“異常なし”って書かれてきた筋だ)


巡回表の数字を目で追いながら、ルアンは頭の中に盤を広げる。


昼間、署に届いていた嘆願書の一枚がふと浮かぶ。

「夜になると、この通りで若い連中が騒いで怖いです」

黄ばんだ紙は、先輩の灰皿の下で半分焦げていた。


(紙は燃やされても……ここで暮らしてる人間まで、燃やされたわけじゃない)


足音をわざと響かせずに、路地の入口で一度止まる。

風。匂い。人の気配。


(今日、この升にいる“駒”は――)


その瞬間、背後から空き瓶が飛んできた。


ガシャン、と足元で砕ける。

ガラス片がズボンの裾をかすめ、透明な欠片がアスファルトに散った。


「どうせお前らも、金で動くんだろ!」


暗がりの奥から、若い男の声が飛ぶ。

街灯に照らされた顔は、まだ二十代の前半だろう。

目の奥にある、諦めと怒りの混じった色を、ルアンは知っていた。


(あのときの俺と、同じ目だ)


喉まで出かかった言葉を、いったん呑み込む。

怒鳴り返すのは簡単だ。

威圧して黙らせるのも簡単だ。

でも、それはこの街がいつも打ってきた“雑な一手”だ。


(ここで間違えたら、また一人“警官は全部同じ”って駒が増える)


ルアンは、盾を少しだけ下げた。

銃に伸びそうになる自分の右手を、意識して制御する。

ヘルメットを外し、顔を見せる。


「……そういう警官がいるのも、知っています」


男の怒鳴り声が、わずかに止まった。


「金で動くやつもいる。

 見張りだけして、困ってる時には来ないやつもいる」


それが、この街の現実だ。否定はしない。


「でも、今お前の前に立ってるのは――

 そうじゃない警官の一人だってことだけ、覚えておいてください」


男は鼻で笑った。


「口だけだろ。どうせ、すぐ同じになる」


(この先を、どう読むかだ)


ルアンは、男の立ち位置と、背後の逃げ道を一瞬でなぞる。

走って追い詰めることもできる。

名前を聞き出して、後でしょっぴくこともできる。

だが、それはこの街が打ち慣れた“お仕舞いの一手”だ。


「もし“同じだ”って思ったら、そのときまた文句言いに来てください」


「は?」


「そのときは……俺が、ちゃんと聞きます。

 その文句がある限り、お前はまだ完全には諦めてない」


男の目が、わずかに揺れた。

それが怒りなのか、戸惑いなのか、自分でも読み切れない。


数秒の沈黙のあと、男は舌打ちをひとつ残して、闇の中に消えていった。

謝罪も、感謝も、何もない。


それでもいい、とルアンは思う。


(信じろなんて言う気はない)

(その代わり――俺は俺の“読み”にだけ責任を持つ)


足元のガラス片を避けながら、巡回記録票を取り出す。

ペン先を紙に当て、少しだけ迷ってから、文字を書く。


「巡回ルート3:異常なし」


そのすぐ下の余白に、小さく書き足す。


『瓶投擲あり/住民不信 強』


公式な記録には残らない。

それでも、自分の中の盤には、はっきりと刻まれる。


(ここは、“異常なし”って書かれてきた升じゃない)

(“異常を訴えることを、諦めさせられてきた升”だ)


詰め所で量産される四文字も、

路地で飛んでくる罵声も、

この街の古い“読み”の延長線上にある。


なら、自分は別の読み筋を選ぶ。

一歩ずつでもいい。

歩みの遅い駒でもいい。


(まずは、この路地一本からでいい)

(いつか、スーパウロの「異常なし」を――

 一枚残らず、読み替えてやる)


記録票をポケットに戻し、

ルアンはまた、静かな夜の路地へと歩き出した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ