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盤上の街スーパウロ  作者: TAMI


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47/55

第47話 腐った砦の前で

卒業式の号令が終わり、名前が淡々と読み上げられていく。


「ルアン。……スーパウロ市警本部、配属」


一歩前に出て辞令を受け取り、敬礼して、列に戻る。


それだけだ。

拍手も、涙も、感傷もいらない。


(ここから先が、表の盤だ)


胸ポケットの紙の感触を指先で確かめながら、ルアンは空を一度だけ見上げた。



スーパウロ市警本部の玄関をくぐった瞬間、鼻をついたのはタバコの煙だった。


古い冷房の風にかき回されて、灰のにおいだけがいつまでも残っている。

廊下の蛍光灯はところどころ点滅し、床には拭ききれない靴跡が黒く滲んでいた。


(……ここが、街を守る砦のはずなんだけどな)


窓口フロアに入ると、カウンターの前に年配の女性が立っていた。

手には、何度も折り直された皺だらけの紙束。


「うちの店の前で、あの連中が薬を売ってて……

 孫が、巻き込まれたら……」


震える声。

カウンターの内側の中年警官は、椅子にもたれたままそれを受け取る。


「はいはい、“対応中”ね。上に回しときますよ、おばあちゃん」


口だけの笑顔。視線は書類の文字を追おうともしない。


「見とけよ、新人」


隣で見ていた先輩が、くい、と顎で示す。


中年警官は軽く肩をすくめると、嘆願書を灰皿の上に持っていった。

次の瞬間、吸いかけのタバコを紙の端に押しつける。


じゅ、と小さな音がして、端からじわりと焦げていく。

立ちのぼる煙が、タバコの匂いと混ざり合った。


「火の元は危ないからさ。こういうのは早めに処理しとかないとな」


周囲から、くすりと笑いが漏れた。


カウンターの向こう側で、年配の女性はまだ必死に何かを訴えている。

その声は、笑い声と電話のベルに吸い込まれていった。


「……これが、正義の砦だというのか」


思わずこぼれた言葉を、先輩の鼻で笑う声がかき消す。


「青いな、ルアン。

 正義? この街じゃ笑い話だ」


先輩は机の上の封筒をひとつ摘み、ひらひらと振ってみせる。


「こういう“協力者”がいるから、現場は回るんだよ。

 ほら、新人も一口かじっとけ」


封筒が、ルアンのほうへ差し出される。


指先が、ほんの一瞬だけ動きかけた。


(これを受け取れば……)


裏で運びに使われていた腕。

針を打たれたあとの熱と痺れ。

金がすべてを誤魔化してくれた夜。


袖口の中で、針痕の列がじんと熱を帯びる。


(楽なほうに回るのは、いつだって簡単だ)


カウンターの向こうで、年配の女性が握りしめていた紙束。

あの路地で転がされていた昔の自分も、本来はそっち側に並ぶはずだった。


守られる側。

見て見ぬふりをされる側。


(ここで目をそらしたら、あのときの大人たちと同じだ)


ルアンは、封筒に触れかけた指を引っ込めた。


「……自分、給料だけで足りますんで」


努めて軽い調子で返す。


先輩があからさまに眉をしかめた。


「つまんねぇ新人だな。出世できねぇぞ?」


「どっちの盤で出世するか、ですよね」


ルアンは笑った。冗談に聞こえるように、半歩だけふざけて。


封筒は先輩のポケットに消えていく。


灰皿の横に、半分だけ焦げた嘆願書が残っていた。

誰も気に留めないまま、黒い縁をさらしている。


周囲の目が外れた一瞬を狙って、ルアンはそれをそっと拾い上げた。

指先にざらざらとした感触と、微かな温度が残る。


(砦、ね)


頭の中に、簡単な盤が浮かぶ。

本来なら玉を囲むはずの囲いが、内側から腐っている。


(穴だらけの囲いでも……今、玉の周りにあるのはこれだけだ)


焦げた紙切れを丁寧に二つ折りにし、辞令と一緒に胸ポケットへ差し込んだ。


カウンターの向こうの女性に向かって、一歩前に出る。

ガラス越しに、はっきりと頭を下げた。


「さっきの話、もう少し詳しく聞かせてもらえますか。

 自分、今日からここに入ったルアンです」


中年警官が舌打ちする。


「おい新人、余計な仕事増やすなよ」


「どうせまだ、他の仕事覚えきれてませんから」


軽口で受け流しながらも、目だけは女性から逸らさない。


(本当なら、あの列の中に――昔の俺もいたはずなんだ)


守られなかった側の一人として。

今度は、この腐った囲いの内側から、その手を伸ばす番だ。


胸ポケットの上から、指先で二枚の紙の厚みを確かめる。

焦げ跡のざらつきと、辞令の固さ。


(ここから先は、タツヤさんの読みとは別の局面だ)


影に堕ちた師が外から読む盤と、

自分が中から見る盤は、きっと何度も食い違う。


それでも――


(この砦だけは、俺が読み直す)


ざわついた署内の空気の中で、ルアンの決意だけが、静かに固まっていった。

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