第46話 光の側に立つ理由
七年前。
タツヤがマッセに対抗するため、自分から“影”へ足を踏み入れた時のことだ。
将棋協会の裏口で、ルアンはタツヤの背中を追いかけていた。
「俺も……連れてってください」
声を出した瞬間、自分でも震えているのが分かった。
路地で蹴られていた自分を拾い上げてくれたのは、この男だ。
その背中が今、はっきりと“裏のほう”へ向かおうとしている。
タツヤは立ち止まり、ゆっくりと振り返った。
「お前は、来るな」
「でも、先生――」
「俺は、ここから先は汚れる前提で動く」
淡々とした声だった。
怒鳴りでも突き放しでもない。
ただ、もう決めてしまった人間の声。
「マッセを止める筋は、きれいな手じゃ届かねぇところにある。
誰かが“必要悪”を引き受けねぇと、この街は変わらない」
そう言って、自分の胸元を指で軽く叩く。
「その役は、俺がやる」
ルアンは、喉の奥が熱くなるのを感じた。
「じゃあ、俺は――」
「お前は表の道を歩け」
被せるように、タツヤは言った。
「裏の読みだけで街は守れねぇ。
表の盤に立って、堂々と駒を動かせるやつが必要だ」
階段の薄暗い灯りが、タツヤの横顔を照らす。
目はいつものように、どこか遠くの局面を見ていた。
「ルアン。
お前はもう、沈められる側の子どもじゃない。
光の側に立て。
その上で、この街を読め」
「読め」という二文字だけが、妙にはっきり耳に刺さった。
返事をしようとして、言葉が出ない。
その沈黙を、タツヤは責めなかった。
ただ背を向け、影のほうへ歩き出す。
その足音が消えるまで、ルアンは階段の手すりを掴んだまま、動けなかった。
(影のほうが早くて、強くなれるのは分かってる。
でも――先生は、あえてそっちを選んだ)
なら、自分はどっちへ行くのか。
答えを出せないまま、その夜は終わった。
数週間後の朝。
古びた庁舎の一角にある窓口の前に、ルアンは立っていた。
「警察学校、願書ね。そこに座って書きな」
眠そうな職員が、紙の束から一枚を抜き出し、机の上へ滑らせる。
ルアンはペンを握った。
最初の線を引くだけで、指先が少し震える。
名前。生年月日。住所。
機械みたいに埋めていくうちに、視線が「志望動機」の欄で止まった。
(なんで、俺はここに来た?)
頭に浮かぶのは、全部“影”のほうの記憶だ。
夜の路地。
運びに使われた日々。
誰にも見つけてもらえなかった昔の自分。
タツヤへの感情も、真っ黒に混ざっている。
助けられた。裏に行かれた。
尊敬も、怒りも、置いていかれた寂しさも、全部ひとまとめだ。
(影のままなら、きっともっと簡単に強くなれる。
今度は俺が“必要悪”を名乗って、先生みたいに――)
そんな考えが、ほんの一瞬だけ頭をかすめた。
自分でも、それがどれだけ甘い逃げかは分かっている。
そのとき、あの日聞いた声がよみがえった。
『光の側に立て。
その上で、この街を読め』
影に堕ちる覚悟を決めた人間が、
それでもあえて自分に託した言葉だ。
(あのときの俺は、守られる側だった。
今度は――守る側に立つ)
ルアンはペン先を紙に押し当てる。
「この街で、守られなかった人を今度は守るため。」
一行だけ書いて、深く息を吐いた。
短い文なのに、胸の奥のどこかがじんと熱くなる。
最後の署名欄に、自分の名前を書く。
字は少し歪んだが、はっきり読める文字だった。
用紙を窓口へ差し出すとき、指の震えはまだ完全には消えていなかった。
それでも、手を離す瞬間だけは、ぎゅっと力を込めた。
(裏の盤は先生が読む。
だったら、表の盤くらいは――俺が読む)
警察学校の日々は、派手さとは程遠かった。
朝の点呼。号令。ランニング。
敬礼の角度、報告の作法、法令条文の丸暗記。
教室の前で、教官がチョークを走らせる。
「いいか。お前たちが『守る相手』は誰だ」
振り返りざまにそう言って、黒板に大きく「市民」と書いた。
その文字を、ルアンはじっと見つめる。
目を閉じると、
路地の冷たい地面に頬を押しつけていた、昔の自分が浮かんだ。
(本当なら、あのときの俺も――ここに含まれていたはずなんだ)
袖口を握る。
掌に爪が食い込むほど力を入れても、
あの夜の光景までは消えてくれない。
授業が終わったあと、寮のベッドの上で法令集を開きながら、
ルアンはノートの端に、癖で小さなマス目を描いた。
四×四の雑な盤。
隅の升に「街」と書き、その手前に小さく「自分」と付け足す。
無意識のまま、指先で「自分」と書いた升の周りをなぞる。
一マスずつ、前後左右、どこへでも動ける“玉”の軌道を描くように。
(……いや、今の俺なんて、前に出された歩みたいなもんだ)
自嘲気味に息を吐き、
「自分」の文字の上から、軽く線を重ねてごまかした。
自分を玉だとは思わない。
前に出されて、真っ先に折られる駒のほうが、よほど似合っている。
それでも――
歩が一歩進むだけで、守れる玉もある。
(だったら、その一歩くらいは、俺が出す)
ページを閉じるとき、ノートの隅の雑な盤が、
夕陽に照らされてわずかに光った気がした。
いつかその盤のどこかで、
自分が“玉”として立たされる日が来ることを――
このときのルアンは、まだ知らない。




