第45話 捨て駒の玉
救急車の天井の光が、ぼやけて伸びていく。
タツヤは担架の上で、かろうじて目を開けていた。
腹の奥の痛みは、もう鋭さを失い、冷たい水みたいに広がっていく。
(……ここまで、か)
窓の外を、スーパウロの夜景が横に流れていく。
路地。ネオン。闇に沈む家々。
年月をかけて読み続けた「街という盤」が、横倒しで遠ざかっていくように見えた。
一瞬だけ、日本の夜がよぎる。
あの国は「もう詰んだ」と読んで飛び出した。
だが今になって思えば、日本という盤は、まだいくらでも手の残った甘い盤だった。
本当に弱い者から切り捨ててきたのは、このスーパウロのほうだ。
(本来、玉は最後まで盤に残って、逃げ道を探し続ける駒だ。
最後の一手まで粘って、落ちる瞬間まで局面を見届ける役目のはずだ)
ルアンが表に立った。
将棋協会で駒を覚えた子どもたちも、光の側で駒になれる。
その先の筋を、いつものように最後まで読むと、
自分の玉だけが盤の端で止まっているのが見えた。
(この局だけに限って言えば……
俺という玉が一枚、先に盤の外へ落ちても、もう大勢は揺がねぇ)
この一局をここまで運べたなら、
この街のどこかで、次の玉はもう、自分の足で盤上を進み始めている。
(警官服を着て、光の側から盤を覗こうとしてる若い目も、その一つだ。
“玉なし”の将棋なんて本来ありえねぇが……
この街の次の玉は、もう俺以外で立ってる)
(だったら――この一局だけは、玉が自分から外に出る手も、ありだな)
怖さはない。
ただ、ようやく自分の手番が終わったような、妙な安堵だけがあった。
病院の白い天井。
強い光が目に刺さり、誰かの声が飛び交う。
「血圧、さらに低下!」
「心電図、波形弱い! もう一回!」
胸に当てられる冷たいパッド。
身体の内側から弾かれるような衝撃。
世界が一瞬白く切れて、すぐに戻る。
「……反応、乏しいです」
「薬、あと一度だけ打とう」
声が遠い。
音の輪郭が、少しずつ滲んでいく。
ぼやけた視界の端に、ルアンの顔が見えた。
マスク越しでも分かる、噛みしめた歯と、揺れる瞳。
「……タツヤさん」
呼ぶ声は、もう耳の奥に届いているのかどうかも分からない。
(街を――)
最後まで言い切る前に、視界の縁がすっと暗くなった。
モニターの線が、細く、長く伸びる。
誰かが小さく言う。
「……いったん外からのショックは止めよう。ラインは繋いだまま、様子を見る」
短い沈黙が、場を覆う。
ルアンは、しばらく動けなかった。
胸の奥で、「違うだろ」という言葉だけが、声にならないまま渦を巻く。
背後から飛ぶ呼びかけに、やがて足を向ける。
「ルアン! 外もまだ収まってない!」
「……はい。すぐ行きます」
一歩、二歩と離れかけたところで、ふと振り返る。
モニターの端で、電極の一枚が、血と汗に滑ってわずかにズレた。
細い線が、かすかに跳ねて乱れ、それからまた、静かに伸びていく。
ルアンは、その揺れの意味を確かめる余裕もなく、踵を返した。
タツヤという玉は――この局の盤からは、落ちたように見える。
影に堕ち、手を汚しながらも街を守った男は――
ついに命を落としたのだと、“スーパウロ全体が”思った。
英雄は死んだ、と人々は語った。
街は新たな光を得た――そう信じることで、自分たちの明日を正当化しようとした。
だが、その筋書きの先を、誰一人として疑おうとはしなかった。
――そう、“誰も”が信じていた。
その光がどこから生まれ、
どれだけ深い闇をくぐってここまで届いたのかを、
まだほとんどの者は知らない。
ルアン。
スーパウロの「光を背負う警官」と呼ばれる青年が、
影の師から何を受け取り、どんな過去を歩いてきたのか――
その物語が、静かに盤の裏側から立ち上がろうとしていた。




