第44話 光の一手
血と硝煙のにおいが、地下ホールの空気にねっとりと貼りついていた。
倒れた椅子と、足元で砕けたグラス。
誰も、それ以上大きく息を吸うことすらできない。
その静けさを、遠くからサイレンが裂いた。
甲高い音が階段を反響しながら近づいてくる。
出入口近くで、誰かが短く叫んだ。
「伏せろ!」
次の瞬間、鉄の扉が外から叩き割られたみたいに弾けた。
衝撃音とともに、白い閃光が一度だけ走る。
「スーパウロ警察だ! 武器を捨てろ! その場から動くな!」
防弾ベストとヘルメットの列が、波のようにホールへ流れ込んでくる。
前には盾、背後には構えた銃口。
「ちっ……!」
椅子の影から立ち上がろうとした男の手から、ナイフが弾かれる。
別の男が腰の銃に伸ばした指は、その前に後ろからねじられ、床に押しつけられた。
「動くなって言っただろ。次は撃つぞ」
感情の温度を乗せない声。
命令が一つ飛ぶたびに、抵抗の芽がひとつずつ潰れていく。
その先頭に立っていたのは、まだ若い一人の警官だった。
目だけで全体をなぞり、どの筋に誰を走らせるか、どこを塞ぐかを瞬時に決めていく。
盤面を読むときと同じ目で、人と通路と逃げ道を並べ替えていく。
扉際には、逃げ道を読むように先回りして二人を置く。
暴れそうな男の周りには、最初から三人つける。
銃を抜こうと肩が揺れた瞬間には、もう腕が封じられている。
敵がどこへ逃げたいか、その先まで見えているかのようだった。
かつて将棋協会の隅で盤を覗き込み、子どもたちと一緒に駒をいじっていたガキがいた。
その手は、のちに裏の運びに使われ、どす黒い針まで打たれるようになった。
その少年が、今は表の制服をまとっている。
ルアンだった。
「……なんで、お前が……」
ホールのいちばん後ろで様子を見ていたスーパウロ警察の幹部が、顔から血の気を引かせた。
ついさっきまでマッセの連中と笑っていた男だ。
ルアンと目が合う。
その瞬間、幹部は本能的に出口のほうへ身体を向けた。
だが、すでに制服組が左右から回り込んでいる。
「警視。現行犯で身柄を確保します」
若い警官が淡々と告げ、手錠の金属音が響いた。
幹部は壁に背中を預けたまま、ずるずると尻を落とす。
伸ばしかけた手は、誰にも届かなかった。
裏でマッセと繋がっていた議員たちも、企業の黒服も、次々に腕を掴まれ、壁際に並ばされていく。
さっきまで“上の席”に座っていた連中が、順番に「駒」として盤の外に弾き出されていった。
ホールの中央では、まだ別の重さが残っている。
タツヤは片膝をついたまま、腕の中の身体を支えていた。
自分の脇腹から伝う熱は、さっきよりはっきりと冷えに変わってきている。
(……撃たれ方としては、最悪は外れたか)
内臓を完全に粉砕されていれば、もう考えごとをしている余裕すらない。
まだ「痛い」と思えているぶんだけ、意識は保たれていた。
視界の端に、見慣れた横顔が入ってきた。
「タツヤさん!」
顔面のシールドを外しながら、ルアンが駆け寄ってくる。
ヘルメットの下の瞳は、昔と同じ色をしている。ただ、その奥に宿った光だけが違っていた。
「……読み通りだな」
タツヤは、薄く笑ってみせた。
「ここで……潰しに来る筋を、選んでくれたか」
ルアンは一瞬だけ言葉を飲み込み、それから短く息を吐いた。
「街をこのままにしておく筋だけは、選べませんから」
しゃがみ込んで、タツヤの傷口のあたりを確認する。
出血の量、弾の抜け方。救急の手配を肩越しに指示しながら、目だけはタツヤから逸らさない。
「タツヤさんは……悪です。間違いなく」
はっきりと言い切った。
「資金をぶっ壊し、人を裏切らせ、人生を折った。
その外側で起きた悲劇も、全部“読み”の範囲だったはずです」
否定の余地はない。
タツヤ自身、言い訳をするつもりもなかった。
だが、ルアンはそこで言葉を切り、ほんの少しだけ視線を落とす。
「それでも……俺みたいなガキを拾ってくれたのも、タツヤさんです」
敵は最初から、組織の名前じゃなかった。
マルアでも、マッセでもない。
弱いほうから切り捨てて、子どもを路地に転がす――この街そのものだ。
だからタツヤは、将棋協会の子どもたちを「光の駒」として育て、その片隅で、街の一番底から拾い上げた少年を、「表の盤」に送り込んだ。
(ここが……その一手の“結果”ってわけだ)
ルアンは、タツヤの胸ぐらを軽く掴んだ。
「タツヤさん。ここから先は俺たちの仕事です。
タツヤさんが影で支えてきたぶんまで、表でやります」
声は震えていない。
怒りも、敬意も、全部飲み込んだ上で出している声だった。
「だから――勝手に一人で終わろうとしないでください」
タツヤは目を細めた。
「終わるかどうかを決めるのは……いつだって“王”じゃない」
途切れ途切れになりながらも、言葉を続ける。
「盤の上で、まだ動いてる駒のほうだ」
ルアンの瞳が、かすかに揺れた。
すぐに、その揺れを押し込むように立ち上がる。
「救急を急がせろ! この人死なせたら、今日の筋が全部崩れる!」
命令の声が、ホールに響く。
隊員たちが担架を持って駆け寄り、タツヤと、すでに動かなくなった身体とを慎重に引き離す。
冷えきった顔に、もう動きはない。
その胸の下で止まった血だけが、「最後に選ばれた一手」の重さを語っていた。
担架に乗せられながら、タツヤは天井の蛍光灯を見上げる。
光がひとつ、ふたつ、流れていく。
「ルアン」
名前を呼ぶと、すぐそばで足音が止まった。
「街を……読め」
それだけ言う。
命令でも、遺言でもない。
ただ一人の読みの弟子への、最後の宿題みたいな一言だった。
ルアンは、ほんの一瞬だけ目を閉じてからうなずく。
「……任せてください。今度は、俺たちが読む番です」
その言葉を聞きながら、タツヤの視界の縁が、じわりと暗くなっていく。
サイレンの音。
誰かの怒鳴り声。
金属が擦れる音。
ひとつ、またひとつと、遠のいていく。
最後に残ったのは、盤の上で駒をつまむ音の記憶だけだった。




