第42話 汚れた手の重み
王が倒れてからもしばらく、将棋ホールの中には音がなかった。
タツヤは、ゆっくりと息を吐いた。
盤の端には、桂が一枚だけ取り残されている。
二度と戻らない駒。
七年守り続けた先で、ようやく捨てることができた一枚だった。
(……勝った、のは勝った)
裏の王を決める一局。
盤の上だけ見れば、それで決着はついた。
だが胸の奥に広がるのは、歓喜ではない。
濁った水を一気に飲み込んだような、重たい感覚だった。
(俺は、この街を守ってきた。全部だ)
どの夜も、最初に探してきたのは「誰も死なない筋」だった。
敵も味方も通りすがりも関係なく、毎回本気で「全員助かる手」を読み切ろうとしてきた。
密輸ルートを潰すために、誰かを利用した。
資金源を断つために、裏切りを誘った。
殺しと麻薬だけは線を引いて避けてきたが、その線を守ったところで、手が綺麗になるわけじゃない。
汚れていることは、もう誤魔化しようがない。
それでも、街全体に対してだけは嘘をついていない――その一点だけが、タツヤの中でかろうじて残った支えだった。
(この一局の先も、もう読んでる)
コーヘイの王が倒れた瞬間から先の図は、対局前から読みの中に入っている。
王を失った組織は暴れる。
支えを失った怒りは、行き場を探して彷徨う。
ホールの外周。
路地に抜ける細い通路。
火をつけやすい店の前。
バイクを並べやすい路肩。
影には、もう指示を出してある。
「通行人を巻き込みそうな場所にだけ、先に“金”を置け。
火と銃と刃が流れ込みそうな筋を、手前で細くしろ。
誰か一人を守るためじゃない。街そのものを守る形を作れ」
通りを守る布陣は、打ってある。
残っている危険は、この箱の中だけだった。
そのときだった。
「……ふざけんなよ」
ホールの空気を裂くように、低い声が落ちた。
金属の脚が床を引きずる音。
椅子が乱暴に蹴り倒される。
「将棋で、俺たちの街が変わるかよ!」
マッセの若い連中が立ち上がっていた。
痩せた頬、血走った目。
怒りと悔しさと、行き場のない不安が混ざった顔。
「ボスが一局負けたから終わり? そんなルール、聞いてねぇよ」
「裏の王? タツヤ? 笑わせんな……!」
一人が上着の内側に手を突っ込む。
布が擦れ、金属が滑る、冷たい音がした。
カチ、と小さなクリック音。
安全装置が外れる音だと、タツヤはすぐに理解する。
議員の一人が、椅子の背もたれに縋るように腰を引いた。
警察幹部は立ち上がりかけて、腰のあたりに伸ばした手を止める。
企業の黒服は、護身用の何かに触れかけて――この場で抜けばただの「乱闘」になる未来を読んで、指を引っ込めた。
誰も動けない。
銃口が、ホールの中をゆっくりと探る。
揺れる腕。汗に濡れた手。
だが、狙いそのものは、少しずつ定まっていく。
(……そう来るよな)
タツヤは、ひと通りの図を頭の中に並べた。
ここで誰が撃たれても、あいつら“表”の連中は、きっと都合よく使う。
議員が倒れれば、「治安悪化」を口実に、街ごと締め上げる。
警察幹部が撃たれれば、「見せしめ」と称した一斉摘発で、路地の底まで踏みにじる。
こいつら自身がどうなろうが、タツヤにとって同情する相手じゃない。
だが、この場で血が流れれば、あとで押し潰されるのは、また街の底で暮らす連中だ。
そして何より――この箱の中で誰かが死ねば、
「将棋で守ってきた七年」は、あっさり茶番に変わる。
(俺が王を取った瞬間から、この怒りは行き場を失ってる)
なら、その行き場を、最初から自分一人に向けさせればいい。
ホールの外は、もう影が受けてくれる。
通りで死ぬ命は、今回だけは最小限にできるはずだ。
残っている「死ぬ可能性」は、この部屋の中だけ。
(だったら――ここで死ぬ役は、俺一人で足りる)
タツヤは立ち上がる前に、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
誰も死なせない筋を探し続けた七年。
それでも救えなかった顔たちが、一瞬で並ぶ。
(お前らを見捨てたくて、こうしてきたわけじゃない。
ここで一手、俺が消えることでしか守れない形もある)
蛍光灯が、じり、と微かに鳴った。
誰も息をしていないような静けさが、ホールを包む。
タツヤは、盤から一歩離れ、銃口の線に自分の身体を滑り込ませた。
銃を構えていた若い男の視界に、タツヤの胸元が大きく入る。
黒い穴の先が、確かにそこを捉えた。
「撃つなら、俺にしろ」
声は静かだった。
怒鳴り声でも、命乞いでもない。
ただ七年分の“受け”の先に置いた、一つの手だった。
この場で誰かが死ぬ未来は、もう消せないかもしれない。
ならせめて、その死を街そのものから遠ざける。
コーヘイを倒したことで生まれる怒り。
英雄と呼ばれた男への妬み。
裏の王が変わることへの拒絶。
全部まとめて、ここで自分一人に受けさせる。
(将棋は人を殺さない。
……だったら、将棋でここまで来た俺が、一発ぶんくらいは受けて終わらせる)
汚れた手の重みを、タツヤは噛み締めていた。
それでもその手は、最後の最後まで、
「自分以外の誰かを守るため」にしか使わないつもりで――
ゆっくりと、銃口の真正面に立った。




