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盤上の街スーパウロ  作者: TAMI


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第41話 壊れなかった盤

コーヘイが最初に覚えた盤は、古いちゃぶ台の上だった。


畳はすり切れ、壁紙はところどころ剥がれている。

それでも夕暮れになると、決まって小さな将棋盤が出てくる。


「仕事は辛い。でも、この駒を動かしてる間だけは、心が自由になれるんだ」


疲れ切った顔の父が、そう言って笑う。

隣で母も、「今日はこっちが勝つからね」とわざとらしく胸を張ってみせる。

三人の時間だけが、ゆっくり、ほぐれるように流れた。


歩の一歩。角の斜め。飛車の真っ直ぐ。

少年だったコーヘイは、その横でひとつずつ覚えていく。


初めて父から一局をもぎ取った日のことを、コーヘイはよく覚えている。


「やるじゃねぇか」


本気で悔しそうに頭をかく父。

手を叩いて笑う母。

その光景が、狭くてみすぼらしい部屋を、少しだけ広く見せてくれた。


その瞬間、コーヘイは知った。

盤の上だけは、家族が同じ方向を向いていられる。

貧しくても、笑い合える場所がある。

その温度だけは、ずっと続いていくものだと、幼い彼は疑いもしなかった。


変わったのは、父の勤め先が潰れた年だった。


「街は、弱い奴から切るんだとよ」


薄い給料袋はさらに軽くなり、やがて袋そのものが来なくなる。

父の口癖は、笑い声ではなく、この一言に置き換わった。


正直に働いていても、食えない街。

最初は怪しい荷物の運びだけだった。

次に、盗品の横流し。

やがて、密造酒の流通。


母も、それを止めない。ただ黙って手を貸す。

コーヘイには、その背中を責める権利も言葉もなかった。


やがてマルアが裏社会を締め始める。

無許可の稼ぎは徹底的に潰され、余計な組織は容赦なく排除された。


生活の道は、一夜で断ち切られた。


父は酒に沈み、母は笑わないまま日々だけが過ぎる。

そしてある日、二人は小さな紙切れを残して消えた。


「生きろ、コーヘイ」


乱れた字で、それだけが書かれていた。

叫びも涙も出ないまま、少年の中で、何かが静かに折れた。


拾ったのは、マルアの長・アキヤマだった。


「お前には力が要る。街に踏み潰されないための力だ」


腕を掴まれて連れていかれた先は、学校ではなく、薄暗い倉庫だった。

殴り方を教える大人。

ナイフの持ち方を教える大人。

金と薬の匂い。


盗み方。

人を黙らせる方法。

金の流し方。

必要とあらば人を殺す手管まで。

生きるために、コーヘイは教わるものをすべて飲み込んだ。

拒むという選択肢は、最初から盤面の外に捨てられていた。


そんな日々の中で、ひとつだけ、ちゃぶ台の夜に似た光景があった。


アキヤマはときどき、静かな部屋にコーヘイを呼び、盤を広げた。


「支配とは、読みの先にある。

 弱い駒でも、並べ方次第で王を追い詰められる」


駒をつまむ指先は、路地の闇で見せるそれと違っていた。

血も怒鳴り声もない部屋で、駒音だけが規則正しく響く。

コーヘイは、その音を聞くたびに、ちゃぶ台の光景を思い出した。


父の笑い声。

母の冗談。

初めて勝ったときの、あの誇らしげな「やるじゃねぇか」


盤上だけは、まだ“壊れていない世界”が残っている気がした。

その静けさも、長くは続かなかった。


タツヤという男がスーパウロに現れ、

アキヤマを破り、マルアはゆっくりと崩れていった。


仲間は散り、アキヤマは姿を消し、

マルアという名前は、やがて街の中で「昔話」の箱に押し込まれていく。


コーヘイの胸に残ったのは、ぽっかりとした空白だけだった。


両親を奪った街。

師を奪った街。

居場所も名前も価値も、全部平然と飲み込んでいく街。


「街は両親を奪い、師を奪い、俺から全部奪った」


その思いだけが、濁った水の底の泥みたいに沈んでいった。


コーヘイは、散り散りになった若者たちを拾い集めた。


帰る家のない奴。

前科一つで、仕事に弾かれた奴。

守れなかったせいで、逆に家族から疎まれた奴。


薄暗い倉庫で、コーヘイは言う。


「夢や正義に意味はねぇ。

 支配だけが唯一の秩序だ。

 俺がこの街の王になる」


誰も笑わない。

笑う余裕のある奴なんて、もう残っていなかった。


生き延びるための言葉として、その宣言は十分に強かった。


こうして、膨れ上がる群れを意味する

「マッセ」が生まれた。 

行き場のない怒りと、コーヘイの読みを燃料にして。


それでも、胸のいちばん奥底には、消え残りがあった。


父と母の笑い声。

アキヤマと向き合った静かな盤。

駒を一つ進めるたび、胸の奥にだけ灯る、小さな火。


それはもう「希望」なんてきれいな名前では呼べない。

ただ、完全には壊れきらなかった、自分の一部だった。


コーヘイにとって将棋は、


最初は、家族そのものだった。

次には、闇の中に差した一本の細い光だった。

そして最後に――


壊れきらずに残った、自分自身そのものだった。


街は彼からすべてを奪った。

だから彼は街を呪い、支配を選んだ。


けれど、タツヤの桂馬が盤を割り、

自分の王が静かに倒れたあの瞬間、

コーヘイが盤をひっくり返さなかったのは――


ちゃぶ台の上で笑っていた二人の記憶と、

盤の上だけは壊さず残していた最後の自分が、

まだ、確かにそこに息をしていたからだった。

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