第40話 戻らない駒
タツヤの指が、駒台の上で止まっていた。
盤上は、誰が見てもコーヘイが押している。
前線にはコーヘイの駒が並び、玉の周りにはいくつもの“刃”が向けられている。
受けの手は、もう残りわずか。
ここからさらに守り続けても、いずれどこかが割れる――
普通なら、そう読む局面だった。
街の暴れ。マッセの仕掛け。
ギリギリで止めた夜と、間に合わなかった夜。
全部を飲み込んで、それでも“線のこちら側”だけは守り続けてきた七年。
その先に、今、一枚の駒がある。
タツヤは、その駒に指をかけた。
桂。
一番遠くから飛んでくるくせに、二度と戻れない駒。
正面からは見えない角度で突き刺さる、癖のある跳び駒。
(ここで捨てるために、七年守ってきた)
心の中でだけ、はっきりと言った。
桂をつまみ上げ、盤上の一点へと運ぶ。
コーヘイの攻め駒と王の“間”に、ぽす、と音を立てて落とした。
観客席の空気が、一瞬わからないように揺れる。
「そこで桂……?」
誰かが小さく漏らした。
ただでさえ苦しいのに、わざわざ一枚捨てにいったように見える。
コーヘイの目が細くなる。
(この筋……)
かすかな既視感。
かつて、同じようなところに飛び込んできた桂を見たことがある。
屋根の上。
夜の廃墟。
スタンガンを片手に笑っていた、“技のガキ”。
初手から全力で殴りかかってきて、
最後に、この“変なところ”へ桂を叩き込んできた。
あの時は届かなかった。
読みが足りず、重さが足りず、
コーヘイの王を途中までしか揺らせなかった技。
(ガキの筋かよ……)
口元が、ほんの少しだけ歪む。
だが今、桂を打ったのはタツヤだ。
七年、受けに徹してきた男。
コーヘイの性格も、攻めの組み方も、
マッセという組織ごとの“癖”ごと飲み込んできた読みの男。
その男が、あえてここで同じ筋を通してきた。
「桂は戻らない。でも、この手だけは、二度と要らない」
タツヤは小さく呟く。
この一手が決まれば、同じ場所にもう一度打つ必要はない。
ここで街の形が変わる。
変えられなければ、どのみち守りきれない。
一番遠くから飛んできて、一番静かに爆ぜる――それが桂だ。
桂を受けに行けば、王のそばの守りが一枚はがれる。
放っておけば、要の銀が抜かれる。
どちらを選んでも、コーヘイ側の形が崩れ始めるよう、
七年分の“読み”を全部込めて置かれた一発だった。
コーヘイは、数手先まで一気に読む。
この桂を取った場合。
無視した場合。
かわして、別の場所を殴り続ける場合。
どの線を辿っても、さっきまで盤面に張っていた“支配の網”がほどけていく。
自分の王が、盤の隅へ追い詰められていく光景が見える。
右に逃げれば銀。上に逃げれば角。
最後の一歩を踏み出した先で、必ず“詰み”が待っている未来。
(……マジかよ)
低く笑いが漏れた。
壊すことには迷いがないはずの男が、
この一手にだけは、指を伸ばせなかった。
桂一枚で、攻めのリズムが止まる。
タツヤは、その“半拍の空白”を見逃さない。
すぐさま、別の駒が飛ぶ。
桂に気を取られた瞬間に、コーヘイの王の逃げ道を塞ぐ一手。
さらに一手。
ずっと守りに使っていた駒が、急に牙をむきはじめる。
さっきまで“殴る側”だった駒が、
気づけば“殴られる側”に回されていた。
観客席の誰かが囁く。
「さっきまで押してたの、どっちだったっけ……?」
街の偉い人間たちでさえ、変化についていけていない。
駒はそれほど動いていないのに、
盤の意味だけが、するりとひっくり返っていた。
コーヘイは、なおも読む。
王をかわす手。
無理やり殴り続ける手。
桂を無視して別の筋から通す手。
だが、そのどれもが、さっきまでの“勝ち筋”ではない。
桂一枚を境に、“勝ったあと”の盤面が全部変わっていた。
王はもう、逃げ切れない。
どの道を選んでも、最後には追い詰められ、
盤の端で、静かに捕まるしかない。
そこまで読み切ったところで、
コーヘイの中の何かが、ふっと力を抜いた。
「……やられたな」
自嘲とも、感心ともつかない声。
(これだから、将棋は面白れぇ)
勝つか負けるかだけでいい世界に、
わざわざこんな回りくどい道を引いてくる。
守って、守って、最後に一発だけ通すための筋。
そこに七年ぶんの夜を詰め込んでくる男がいる。
壊すことにかけては、誰にも負ける気はなかった。
街も、人も、自分の身体でさえ、
必要とあらば平気で削ってきた。
それでも──目の前の盤だけは、ひっくり返せなかった。
一瞬、手が駒に伸びる。
王を掴んで盤ごと薙ぎ払うこともできる。
勝負そのものを“無かったこと”にして、
力の論理だけで続きをやることだってできる。
だが、指は王の頭で止まった。
(将棋だけは、壊したくねぇか)
最初に覚えた頃のことを、ふと思い出す。
狭い家での小さな盤。
まだ名前も知らなかった駒を、ただ前に動かして笑っていた夜。
あの時だけは、自分も“壊す側”じゃなかった。
「……負けだ」
コーヘイはそう言って、王を軽く倒した。
「裏の王は、テメェでいい。少なくとも、盤の上じゃな」
タツヤは短く返す。
「盤の上で十分だ」
その言葉は観客席まできれいに届いたが、
誰も歓声を上げなかった。
腐った議員も、警察幹部も、企業の黒服も、
拍手をしない。できない。
ただ、今この瞬間だけ、
スーパウロの“裏の形”が切り替わったことを理解していた。
タツヤは深く息を吐き、桂の位置を見つめる。
捨て駒。
二度と戻らない一枚。
七年守った先で、
ようやく通せた一発だった。
(ソンダイ。――届いたぞ)
心の中でだけ、死んだ友の名を呼ぶ。
コーヘイは立ち上がり、倒れた自分の王を拾い上げると、
そっと元の場所に戻した。
盤をひっくり返すことなく、駒を乱さずに。
その背中には、まだ獣の気配が残っている。
だが、その奥にある何かだけは、
盤の外へ出ていかなかった。
将棋だけは、壊せなかった。
将棋ホールの外。
シャッターの隙間から漏れる話声と、
やがて運び込まれる小さな噂。
「……ボスが負けたらしいぞ」
「は? あのタツヤに?」
「裏の王、変わったってよ」
最初は囁きだった。
すぐに、それは怒りに変わる。
「ふざけんなよ。俺たち、あの人についてきたんだぞ」
「将棋で負けたから終わり? そんなルール、知らねぇよ」
「タツヤ? 英雄? 舐められてるのはこっちだろ」
路地の暗がりで、火種みたいな声が増えていく。
スマホを握りしめる手。
酒瓶を叩きつける音。
バイクのエンジンが、いつもより荒く吹かされる。
「やり返すぞ」「協会ごとぶっ壊せ」「街に見せてやれ」
誰かが叫び、誰かが走り出す。
まだ暴動にはなっていない。
だが、火のつきやすい空気だけが、街のあちこちで膨らんでいる。
ホールの中で静かに終わった一局とは別に、
外では、負けを飲み込めない“駒”たちが、
今まさに盤からはみ出そうとしていた。




