第4話 スーパウロと盤の音
協会は街の中心にあった。
スーパウロでも指折りの繁華街に、突如として現れる白い建物。
外壁は太陽の光を鈍く反射し、古びた街並みの中で、異様なほど清潔だった。
扉を開けた瞬間、外の喧騒が吸い込まれるように消える。
中は広く、天井が高い。
木の香りと静けさが混ざり合い、まるで寺院のようだった。
盤を挟む子どもたちの小さな手、駒の打ち合う乾いた音。
そのリズムが、まるでこの街全体の呼吸のように響いていた。
タツヤは思わず立ち止まる。
取材のつもりだったが、気づけばその光景に見入っていた。
その中央に、一人の男がいた。
白髪がわずかに混じる黒髪、50歳ほど。
整ったスーツに身を包み、柔らかな笑みを浮かべている。
だが、瞳の奥には研ぎ澄まされた刃のような光があった。
「ようこそ。記者の方ですね。」
男はそう言い、手を差し出した。
アキヤマ――スーパウロ将棋協会の会長。
この街に将棋を根付かせた、日本出身の第一人者。
だがその立ち位置は、単なる文化人という言葉では収まらない。
子どもから老人まで、誰もが彼を“先生”と呼ぶ。
協会の名は、市の役所よりも重い影響力を持っていた。
取材が始まると、アキヤマの声は驚くほど静かだった。
「将棋は、“読む”文化です。
次の一手を考えることは、人生を考えることなんですよ。」
その一言に、タツヤの胸が鳴った。
“読む”――その言葉は、タツヤ自身の人生を貫くものだった。
それをこの街で、まるで自分に向けるように聞かされるとは思わなかった。
「この街で、なぜ将棋を?」
タツヤの問いに、アキヤマは一拍置いて笑う。
「秩序を作るためですよ。
この街には暴力も貧困もあります。
でも盤の上では、誰もが平等です。考える力さえあれば、勝てる。」
その言葉は、理想論のようでいて、なぜか現実味があった。
アキヤマの視線には、この街をすべて“読んでいる”者の確信があった。
取材の終わり際、アキヤマが盤を指した。
「せっかくだ、打ってみませんか?」
タツヤは笑って頷き、駒を並べる。
初めて触る本格的な将棋盤。
駒の木肌が指に馴染む。
打ち始めると、世界が変わった。
駒の動きに合わせて、頭の中が澄んでいく。
形が生まれ、崩れ、再び組み上がる。
一手ごとに、思考が音を立てて形になっていく。
アキヤマの駒が王の前に置かれたとき、タツヤは思わず呟いた。
「……面白い。」
アキヤマが静かに微笑む。
「人は考えるとき、初めて自由になれるんですよ。」
その瞬間、タツヤは理解した。
自分が求めていた“秩序”は、ここにある。
混沌の中で唯一形を持つ世界。
盤の上では、誰もが同じルールで生きる。
取材を終えて外に出ると、夕陽が街を金色に染めていた。
遠くで車のクラクションが鳴り、屋台の匂いが風に流れる。
だが耳の奥にはまだ、駒音が残っていた。
まるで心臓の鼓動と重なるように。
――この街には、“読み”が息づいている。
その夜、タツヤはノートを開き、ペンを走らせた。
「スーパウロの盤を、俺は読む。」
それが、この街を揺るがす最初の一手になるとも知らずに。




