第39話 兆し
盤面は、じわじわと黒く染まっていた。
コーヘイの駒が前線を埋める。
玉の横には、八筋に据えられた飛車が横一線に睨みを利かせ、
その斜め上には、五五の角が突き刺さるように居座っている。
その二枚の後ろから、銀や桂がじりじりと前に出てくる。
玉のそばの金は一枚はがされていた。
残る逃げ道は、もう二つしか見えない。
(……追い込まれたな)
ここまで“詰められた形”は初めてだった。
観客席の空気が、ゆっくりと先手側へ傾く。
議員は前のめりに肘をつき、
黒服は紙コップを握りつぶしたまま動かない。
まるで盤上の温度が、そのまま会場に伝染しているようだった。
(棋譜をなぞっただけじゃ、こうはならない)
タツヤは盤の向こうのコーヘイを見た。
水の底みたいに冷えた瞳が、駒から一瞬も離れない。
七年分の対局記録。
路地でのにらみ合い。
襲撃も、妨害も、全部“読み合い”だった。
(読みは、本物だ)
ただ荒れるだけの暴力なら、とっくに折っている。
こいつは、壊すことを躊躇わない頭の良さを持っている。
だからこそ、ここまで玉に迫ってこられた。
正面からも、斜めからも、遠くの駒からも圧がかかる。
一手受けを間違えれば、一気に崩れる形だった。
(このまま“受け切り”はない)
そう思った瞬間、別の光景が頭に浮かぶ。
高校の放課後。
薄暗いゲームセンター。
画面の光と電子音だけが、世界のすべてだったころ。
画面の端で、自分のキャラが追い詰められている。
相手は、この辺一帯の格ゲーの覇者と呼ばれていた男だ。
こっちはガードを固めて耐えるだけで精一杯だった。
そのとき、相手がふっと笑って、手を止めた。
「守り続けるのも“読み”だよ。
でもな、守った先に“ぶっ放す技”がなきゃ、ただの延命だ。
フルゲージの超必、どこで撃つかまで読みに入れろ」
その言葉だけが、なぜか胸に残っていた。
今の盤面も、あの画面も、構図は同じだ。
玉は追い詰められ、逃げ道は細い。
コーヘイの攻めは、いつでも決壊させられる位置まで来ている。
将棋にゲージはない。
だが、読みの蓄えは、静かに、確かに溜まっていく。
街でやり合った夜。
コーヘイの攻め筋。
踏み込む前にわずかに息を呑む癖。
勝ちを意識したときだけ、ほんの少しだけ早くなる手つき。
(引くだけの読みじゃない。
“いつ撃つか”まで含めて読みだろ)
タツヤは、自分の城に目を落とす。
壁は薄い。
ところどころ、ひびも入っている。
それでも、玉のすぐそばだけは、金銀が重なり合い、まだ厚く守られていた。
駒台には、まだ盤に出ていない駒がいくつか眠っている。
歩。
角。
そして、ひとつだけ、“ここで使う”と決めて残してきた一枚がある。
ここまで耐えて、
「あと一押しで崩れる」とコーヘイに信じ込ませた形。
受けの手が尽きたように見えるこの瞬間。
(守り切った先でしか通らない一発がある)
一度だけ目にした、遠くから飛んできて、
相手の懐で静かに爆ぜるような一手。
その“抜ける感触”だけが、指先の奥に残っていた。
(今なら届く)
ふっと、口元がわずかに緩む。
観客席の誰も、その変化には気づかない。
ただコーヘイだけが、盤の向こうで空気の温度が変わったのを感じ取った。
(……さっきまでと匂いが違うな)
押しているはずの相手が、追い詰められた側の顔をしていない。
何かを“掴んだ”側の目をしていた。
タツヤの指が、駒台の上で一度だけ止まる。
七年のあいだ、ずっと温存してきた一枚に、そっと触れる。
その動きの意味を、
まだ誰も――コーヘイでさえ――読み切れてはいなかった。




