第37話 影の英雄と獣
かつてマルアが「公式戦」に使っていた将棋ホールは、今夜だけ外界から切り離された箱になっていた。
看板は外され、シャッターは半分まで降りている。
開いている出入口は一つだけ。その前に、無言の私服が二人、通路をふさいでいた。
中は煙と酒と畳のにおい。
古びたタイトル戦のポスターの前には、スーツ姿がぎっしり並んでいる。
選挙カーで名前を聞く議員、警察の式典で見た幹部、企業の黒服。
誰も名札はつけていないが、肩の力の抜け方で「表の人間」だと分かる。
今夜、彼らは肩書を置いて、裏の王が決まる瞬間だけを見に来ている。
ホール中央には一枚の盤。
対局時計が二つ。
向かい合う椅子が二脚。
タツヤはすでに座っていた。
黒いシャツにジャケット。協会と同じ服なのに、まとう空気はまったく違う。
七年分の夜が、胸の裏でひとつの塊になっている。
燃えた路地も、止められた暴動も、守りきれなかった顔も、全部まとめて。
(ここで受け切る。それでいい)
重い靴音が、ざわめきを一段下げた。
コーヘイ・ジエゴが入ってくる。
革ジャン。筋の浮いた首。腕には古い傷跡。
歩くだけで、近くの椅子の背筋が自然と伸びる。
目つきは獣の荒々しさを残したまま、底だけが冷えていた。
コーヘイは盤の前で止まり、タツヤを見下ろす。
「……逃げなかったな、英雄さん」
「ここで逃げたら、今までの七年が全部ウソになる」
タツヤは腰を上げずに言う。声は静かだが、目は逸らさない。
「それに、まさか正面から来るとは思ってなかった。少し驚いたよ」
「正面からの方が、効くからな」
コーヘイは向かいの椅子に腰を下ろした。
軋む音が、ホールの隅まで届く。
「将棋協会ごと潰すには、お前をここで折るのが一番手っ取り早ぇ。
タツヤが負けりゃ、“読み”を信じてた連中も、協会も、影も、同時に折れる」
観客席のどこかで、誰かが小さく息を飲んだ。
タツヤはわずかに目を細める。
「……自分のマッセも賭けることになるぞ。負ければ、もう形は保てない」
「王が折れた群れは、群れじゃねぇ」
コーヘイは盤端の王将をつまみ、ひと回しして元の位置に戻した。
「無秩序の悪か、“線を引いた”悪か。
どっちがこの街の裏の王か、はっきりさせようぜ」
審判役の男が、おずおずと近づいてきた。
「ふ、振り駒を――」
「いらねえ」
コーヘイが即座に切る。
場の空気がさらに締まる。
「運で決める勝負じゃねぇ。俺が先手でいい」
タツヤは一瞬だけ黙り、相手の顔と盤を見比べた。
(ずっと攻めてきた側が、最後も“先手”を選ぶか)
「……分かった。ここでも受けてみせる」
うなずきと同時に、審判は時計をセットし、二歩下がって頭を下げた。
ざわめきが消える。
聞こえるのは、時計の秒針と、誰かの喉が鳴る音だけ。
コーヘイは盤を見下ろす。
升目の向こうに、七年間ため込んできた怒りと鬱屈が並んでいるように見えた。
(ここで勝てば、全部ひっくり返る)
ただの怒りじゃない。
タツヤへの劣等感でもない。
“読み”で街を支配する椅子に、自分が座るという意地だけが、底で燃えている。
指が、最初の歩に触れた。
「七六歩」
低く落とされた声。
黒い歩が一マス進む音が、ホール全体の呼吸を止める。
先手・コーヘイ。
タツヤはその歩をじっと見つめ、一度だけ瞬きをした。
(裏で受け続けた七年分を、この一局でまとめて受ける)
右手が、自然に定位置へ動く。
「三四歩」
白い歩が応じる。
観客たちは身じろぎもせず、盤に吸い寄せられていた。
政治家も、警察幹部も、黒服も、今はただの見物人だ。
負けた方は、実質的な死。
勝った方も、元の場所には戻れない。
今夜、スーパウロの裏側を動かしてきた二つの悪――
無秩序のマッセと、一線を越えない影――
そのどちらが、この街の“王”として残るのか。
その答えを決める将棋が、張り詰めた静寂の中で、静かに動き始めた。




