第36話 盤を挟む日
静かな夜が、七年続いた。
将棋協会の隅で駒をつまんでいた少年が、今は作業着姿でやってくる。
「ここ、おれが昔通ってたんだ」
照れくさそうに言いながら、対局を始める。
かつてマッセの“運び”だった男は、早朝の通りでゴミを集めていた。
腰に古い刺青が見えるが、今の持ち物はほうきと塵取りだけだ。
「協会の前は念入りにやれ」
そう言うときだけ、ちょっと真面目な顔になる。
交流ノートには、街の学校と協会の共催イベントの写真が増えた。
「タツヤ先生の将棋教室・第21回」と書かれたページには、日付がびっしり並んでいる。
火事はゼロにはならない。殴り合いも消えない。
それでも、街全体が燃え上がる夜は戻ってこなかった。
ギリギリなのに壊れない七年。
その理由を一番よく分かっているのは、コーヘイ・ジエゴとタツヤだった。
コーヘイは、薄暗い部屋でファイルをたたきつけた。
苛立ちはある。だが、七年のあいだに、怒鳴っても状況は変わらないことを嫌というほど学んだ。
怒りはガソリンにはなるが、ハンドルにはならない。
マッセは吹き溜まりだ。
仕事を飛ばされた奴。家を追い出された奴。居場所をなくした若いの。
そういう連中に寝床と飯と、殴っていい相手を与えてきた。
それがあれば、組は膨れる。怒りがある限り、マッセは死なない。
だが、タツヤが“受け”続けた七年で、その怒りは少しずつ別の場所へ流されていった。
工場のラインに。学校の机に。将棋盤の向こう側に。
(このまま殴り合っても、こっちが削れるだけだ)
コーヘイはテーブルの上の将棋盤を引き寄せた。
若い頃、アキヤマに一度だけ教わったことがある。
「駒は殴り合わねえ。形で相手を動けなくすんだ」と笑っていた男の顔を思い出す。
今なら、その理屈が分かる。
力ずくでねじ伏せる時代はもう終わった。
怒鳴り声より、「読んだ手」のほうが街を動かしている。
(なら、理でやるしかねぇ。盤だ。こいつで決める)
コーヘイは王将をつまみ、盤のど真ん中に置いた。
タツヤも裏で街を動かしている。
殺しはしない。薬も流さない。だが、汚れ仕事は選び取っている。
マッセとやっていることは、形を変えた同じ“裏”だ。
無秩序の悪と、線を引いた必要悪。
どちらがこの街の王かを決めるなら、やり方もひとつでいい。
コーヘイは古株の部下を呼び、封筒を一つ渡した。
「協会に持ってけ。タツヤにだけ渡すんだ。他の誰にも触らせるな」
中身は写真一枚と、短い一行だけ。
《将棋で決着を》
その日の夕方、将棋協会。
「先生、ここで桂飛んでいいんですか?」
盤の向こうで、子どもが目を輝かせている。
タツヤは笑い、駒をつまんで見せた。
「いい手かどうか、自分で読んでみろ。飛んだあとの形だ」
そんなやり取りの最中、封筒が渡された。
差出人の名前はない。
けれど、紙についた安い酒とタバコの匂いで、誰からかはすぐ分かる。
中身を見て、タツヤは小さく息を吐いた。
「……ようやく顔を出す気になったか、コーヘイ」
七年分の報復も、七年分の借りも、ぜんぶまとめて飲み込んだような声だった。
驚きよりも、どこかほっとした色が混じる。
真正面から殴り合えば、街が持たないことは二人とも知っている。
だからこそ、ずっと“受け”に徹してきた。
しかし裏の王が盤の前に出てきた以上、もう逃げ場はない。
「どうするんですか、先生」
そばで片付けをしていた青年が聞く。
「決まってるさ」
タツヤは封筒を胸ポケットにしまった。
「受ける。この時を待っていた」
窓の外では、仕事帰りの人々が足早に家路を急いでいる。
ベビーカーを押す若い母親。コンビニ袋をぶらさげた高校生。
その流れの中に、かつて“裏”にいた顔も混ざっている。
完璧に綺麗になったわけじゃない。
だが、あの地獄みたいな夜から見れば、今の街はちゃんと“明日”を持っている。
(この一局で、裏の形が変わる。
終わらせるか、違う形に組み替えるか。
どっちに転んでも、盤の上で受けて決める)
タツヤは盤を見つめた。
王、金、銀、歩。
夜の街にも、同じくらいの数だけ人の行き先がある。
七年続いた薄い均衡が、
ゆっくりと、一局の将棋へと輪郭を変え始めていた。




