第35話 影の駒
夜の民家。
冷えた扉と、コーヒーの残り香。
折り畳みの机の上に、スーパウロの地図が広げられている。
その前に座るのが、影の実行リーダー・チグリモだった。
マルア崩壊のあと、タツヤの“影”に回った男。無口で、手だけがよく動く。
「……なあ、リーダー」
一人が口を開く。元・マッセの見張りだった男だ。
地図の東側――コーヘイの縄張りを指さす。
「ここ、今なら潰せる。
荷も薄いし、頭もいない。やるなら今だろ。なんで“守るだけ”なんだよ」
別の男が煙を吐きながら続ける。
「こっちにはもう人もいる。タツヤさんの読みもある。
いつまで受けてんだ。攻めてもいい頃だろ」
空気がざわつく。
影の多くは、元々“殴る側”だった連中だ。
守るだけの夜に、手が余っている。
チグリモはしばらく黙っていた。
やがて指先で、地図の一点を軽く押す。
「……潰したあと、どうなる」
「どうって……散るだろ。逃げ道ねぇし」
「そうだ。散る」
間を置かずに続ける。
「屋台の裏。学校のそば。安アパートの路地。
今、かろうじて火がついてねぇ場所に、飛び火が出る」
さっきまで勢いのあった男が、口を結んだ。
「でもよ、それでも今のままより――」
「“今のまま”ってのは、ここがまだギリギリ持ってる状態のことだ」
チグリモは地図の真ん中、将棋協会の位置を指さす。
「ここで昼間ガキが駒を並べてる。
その隣で屋台が飯を出してる。
それを壊さねぇように受けてるのが、今の状態だ」
一人が舌打ちを飲み込む。
「勝ってスッキリしたいなら、やり方は分かる。
頭を落として、金の流れを握って、“こっちを通れ”って線を引く。
それ、何に似てる?」
沈黙。答えは全員分かっていた。
「……マルアだろ」
若い影が、吐き出すように言う。
チグリモは小さく頷いた。
「そうだ。勝ったあとに待ってるのは、“次のマルア”だ。
名前だけ変わった、怖ぇ秩序だ」
机の端には、誰かが昔書いた文字が薄く残っている。
丸で囲まれた〈ア〉――マルアの印。
チグリモはそれを親指でなぞった。
「俺はな、あっち側にもいた」
初めて、自分の話をする声になった。
「アンミーってガキがいた。
学校帰りに寄ってきて、将棋の駒の動かし方を何回も聞いてきた」
一人が小さく顔を上げる。
「ある夜、そのアンミーの住んでた路地で“荷”を通した。
“ここだけは通す”って決めたのは、俺たちだ。必要悪だって言いながらな」
チグリモの目が、地図の一点に止まる。
「撃ち合いになって、アンミーはその場で死んだ。
俺たちは線を引いてただけだ。誰も引き返さなかった。
止められるやつは一人もいなかった」
言い訳はひとつも混ざっていない声だった。
「だから決めた。
もう二度と、“見殺しの側”にはいねぇってな」
誰も軽い相槌を打たない。
その重さだけが、ゆっくり倉庫に沈んでいく。
チグリモは顔を上げ、さっき口を出した男を見る。
「攻めなくていいのか、って言ったな。
いい。攻めなくていい」
男が食い下がる。
「でも、マッセは残る。コーヘイも生きてる。
それで本当に“守ってる”って言えんのかよ」
「言える」
チグリモは即答した。
「今日、生き残るガキがいる。
明日、店を開けるやつがいる。
それが“守り”だ。頭を一人落とすより大事だってのが、タツヤさんの読みだ」
別の影がぽつりとこぼす。
「……あの人の言うことが、いつも正しいってわけじゃねぇだろ」
「そうだな」
チグリモはあっさり認めた。
「いつか読み違える。きっとな。
それでも今、一番マルアに近くない手を指してるのは、あの人だと思ってる」
少し間をおいて続ける。
「信じきれねぇなら、それでいい。
俺だって全部は信じちゃいねぇ。
それでもマッセについてくより、まだマシだと思うから、ここにいる」
さっきの男が、深く息を吐いた。
「……俺は、まだ信じきれねぇ。
けど今は、ついてく。マルアに戻るのは、もっと嫌だ」
「それで十分だ」
チグリモはようやく肩の力を抜いた。
「不満があんなら、背中押す手を止めろ。
“守りすぎてる”と思ったら止めに来い。
それでも今夜は、守る」
椅子がきしみ、影たちが立ち上がる。
倉庫の扉が開き、夜風が流れ込む。
コーヒーと鉄の匂いが、街の湿った空気と混ざる。
街はまだ濁っている。
怒りも恨みも、行き場を探してうろついている。
その中を、誰にも見えない“受け”の駒が、静かに配置につく。
攻めない影。
勝ちを狙わない矢。
それでも、“攻めない矢”は今夜も放たれる。
誰かの命を、たった一手ぶんだけ遠ざけるために。




