第34話 均衡
コーヘイ・ジエゴは苛立ちを噛み砕いた。
報告は短い。
「昨夜の四人、三人がタツヤ側。残りは送致されました」
仕掛けるたび、金が削れ、人が薄くなる。
「襲った兵が、奴の駒に化ける……?」
コーヘイは低く笑い、テーブルの上のグラスを指で弾いた。
澄んだ音が一度鳴り、次の瞬間、茎が折れる。
砕けたガラスの先で、細い血がにじむ。それでも顔色は変えない。
「まるで将棋だな、あの野郎」
笑い声の奥で、目だけが獣のように光っている。
荒れた怒りの下で、冷たい“読み”が止まらない。
マッセは消えない。
この街には、行き場のない鬱屈が溜まり続けている。
仕事を切られた男。
家を追い出された女。
何も持たないまま大人の手からこぼれた若い連中。
夜になると、その鬱屈は群れを作る。
酒場の隅で唾を吐き、路地で石を蹴り、胸の奥で「誰か」を殴る準備をする。
コーヘイはそれを束ねてきた。
寝床を与え、飯を与え、殴っていい相手を指させる。
「ここを恨め」「あいつを許すな」
そうすれば、バラバラの怒りが一本の刃になる。
構造は壊れない。
壊れるのは、先に立つ駒だけだ。
だが今は、その刃を振り下ろせない。
「次は四人じゃねぇ、四十人でやるか」
側近が言うと、コーヘイは肩をすくめた。
「四十人出せば、四十人が帰ってこねぇ手を打たれるだけだ」
一手出せば、先に受けを置かれている。
暴れさせればさせるほど、戻らない者が増える。
資金も同じだ。使えば削れ、削れたぶんだけ、タツヤのほうに“影”が育つ。
不気味なのは、その“受け”の形だ。
タツヤは正面からは殴ってこない。
空振りをさせる場所を先に作り、そっとそこへ誘導する。
突っ込むほど、足場だけがなくなる。
コーヘイは指先についた血を親指で拭い、火の点いていない煙草を唇にくわえた。
「待つぞ。焦ったら喰われる」
自分に言い聞かせるように呟き、窓の外の夜を睨む。
動かないのは臆病だからではない。
噛みつく場所とタイミングを読んでいるからこそ、獣は伏せる。
タツヤもまた、夜の地図を前に、静かに息を吐いていた。
「今夜も受けに徹する。火がつきやすい場所に人を置け。
余計な集まりは崩せ。通るべき車だけは通せ」
電話の向こうで、影の連中が簡潔に返す。
「了解。無駄な揉め事は全部、前日に潰す」
派手なことはしない。
倉庫を爆破もしない。街の真ん中で誰かを吊るし上げもしない。
相手の十の手を無駄にするための、一手だけを選ぶ。
真正面からやり合えば、この街がもたないことを、タツヤはよく知っている。
かつては周り一、二マス分の“守り”しか組めなかったが、今は違う。
借りと信頼と情報を重ねて、遠くの端まで“守りの形”を延ばせるようになった。
燃えやすいところから湿らせ、騒ぎの芽を手で摘む。
暴れが立たない夜が続くなら、それが最善だ。
勝ちではなく、明日のために手を使う。
日が変わる。
屋台に灯りが戻る。
商店の前で、子どもがアイスをこぼして笑う。
公園のベンチで老人がうたた寝をし、犬がその足元で丸くなる。
交差点には警官の姿が増え、見えない目が街を見張っている。
安堵と警戒が、同じ通りに並ぶ。
「平和で良かった」という声と、「静かすぎて逆に怖い」という声が、同じ空気に溶ける。
軽いとも、重いとも言えない。
ただの“現実の重さ”だ。
コーヘイは高いビルの窓からその街を見下ろした。
遠くのネオンが点いたり消えたりする。
真っ暗にはならないが、昼のようには明るくならない中途半端な明るさ。
「終わらねぇよ。終わらせない」
ぽつりと言う。
「行き場のなくなった奴がいる限り、ここには俺みてぇなやつが立つ。
名前がマッセじゃなくなってもな」
声は荒い。
だが揺れない。
自分が“滅びない理由”を、誰よりも知っている男の声音だ。
明日もまた、新しい怒りは流れ込む。
だからマッセは滅びない。
だが――今は、動けない。
読まれている間は、歯を剥けない。
獣は伏せたまま、夜の匂いを嗅ぎ続ける。
いつ噛みつくか、その時だけを待っている。
タツヤは協会の戸締まりをし、通りに出た。
シャッターが半分だけ降りた店、消えかけの看板、遠くで走り抜ける救急車。
サイレンは一度鳴り、すぐに遠ざかる。
「攻めない」
その言葉を胸に置き、歩を進める。
攻めない読み合いが、今は街を守っている。
滅びない理由と、動けない理由が、同じ地面の上で噛み合っている。
その薄い噛み合いを、今夜も保つ。
急がない。急げば、こぼれる命が桁違いに増える。
一晩、守る。それを続ける。
その一晩だけ、子どもは安心して眠れる。
学校に行ける朝が増える。
店を開けられる人が増える。
表側の光が、少しだけ太くなる。
受けて、読んで、流す。
均衡を延ばす――それは、いつか“影のいらない街”が自力で立つための、わずかな時間稼ぎだった。




