第33話 光の立ち位置
スーパウロの夜は、久しぶりに静かだった。
湿ったアスファルトにネオンが滲み、屋台の油の匂いが風に混じる。
遠くのサイレンは細く、すぐに消えた。
「ここ数日、静かだな」
「タツヤさんが動いてるって話だ」
「また“あの頃”みたいにならないか?」
「でも、火は止まったろ。眠れるなら、それでいい」
希望と恐怖が、隣り合わせで座っていた。
声に出せば希望、黙れば恐怖――そんな街の息づかい。
ルアンはその声を一つ残らず胸に溜め、協会へ向かった。
扉の鈴が鳴る。
木の盤に指が触れる音、子どもの笑い、老人の「王手だよ」
壁には古い詰将棋が貼られ、扇風機がゆっくり首を振る。
いつもの日常が、ここだけは戻っていた。
「先生、お願いします」
タツヤは黙って席を指す。
駒を並べる。先手はルアン。
序盤、居飛車に組んで角道を開ける。歩を突き、銀を繰り出す。
タツヤは急がない。受けて、要だけを外す。
(焦るな。読む。駒の重さを数える)
中盤、ルアンは突き捨ての歩から桂を跳ね、端を利かせて揺さぶった。
タツヤの眉が、わずかに動く。
「……そこに手が届くか」
短い評価。すぐに構え直し、玉の前に静かな一着を置く。
利きが交差し、攻めの形が鈍る。
ルアンは手を止め、別の道を探す。
銀を捌き、角を据え、もう一度圧をかける――
タツヤは一拍だけ間を取り、垂れ歩。
次の手で成り、受けと攻めを同時に通す。
呼吸が一段深くなる。
「ここで、手を抜かない」
置かれたのは、薄い守りを正面から固める一手。
ルアンの攻め筋は空を切り、気づけば薄いところを突かれている。
詰みは遠い。だが、負けの形は見える。
「……参りました」
頭を下げると、タツヤは淡々と駒を集めた。
それでも、さっきのわずかな驚き――“届いた”手――が、胸の内で温かく灯る。
沈黙。ルアンは迷いを呑み込み、言葉を出した。
「先生。影に、入れてください」
タツヤは目を伏せ、すぐに首を振る。
「ダメだ。ルアンは表にいろ」
「理由を、聞かせてください」
「いまは、かろうじて抑えているだけだ。全部は読めない。
だから表の道が要る。学校も、店も、病院も、まっとうに回る道。
影はその下でしか働けない。お前はそこで街を良くしてくれ」
胸が揺れる。
(先生が街を守るのは、いい。けれど、悪い手を使うのは怖い。……でも、火は本当に止まった)
「……あの夜、ソンダイさんは血を流してた。
僕は、見て見ぬふりして、将棋だけ指してた……。
今は先生が影で動いたおかげで助かってる。
だけど、それを“正義”とは呼びたくない。
けど、今は……誰も死んでない。
それが悔しいくらい、ありがたくて……だから、俺、迷ってます。」
「迷っていていい」
タツヤは静かに言う。
「迷えるやつが表にいたほうが、影は暴れない。
俺が踏み越えそうになったら、止めろ。声でも、紙でも、なんでも使って」
重さと一緒に、役目がのしかかる。
逃げないと決める。
「……分かりました。強くなります」
「頼んだ」
席を立つ。入口の鈴がもう一度鳴る。
振り返ると、タツヤは幼い子に歩の動かし方を教えていた。
戦いの夜とは別人の、穏やかな手つきで。
外に出ると、夜風が看板を揺らした。
「静かで助かる」「この静けさは誰のものだ」
――二つの声が、路地で交差する。
ルアンは深く息を吸う。
(影に頼らなくていい街へ。表の道で、そこへ辿り着く)
今はまだ、マッセに勝ったわけじゃない。
まだ無秩序の火は残っている。
ポケットの中で、折れたチラシが指に触れた。
地域の手伝い、見回り、学び直し、働き口。
入口はいくつもある。
ルアンは一歩、灯りの下へ踏み出した。




