第30話 影の筋
面会室のガラスが、傾いた夕陽を掴んでいた。
一枚の板ガラスの向こうで、色を失った世界が、そこだけ薄く橙に染まっている。
赤い反射がアキヤマの頬を撫でる。
囚人服の袖からのぞく手は、静かに指を組んだまま微動だにしない。
動かないのは身体だけで、目だけが揺れずに在る。
昔、盤の向こう側で向き合った時と、まったく同じ目だった。
「……タツヤ」
低く名を呼ぶ声に、余計な力みはない。
怒りも悔しさも、表面からは削ぎ落とされている。
だが、そのどれもが“奥の方”で沈殿していることを、タツヤは読み取っていた。
「最初に対局した時、思った」
アキヤマは視線をそらさない。
ガラスに映る自分と、その向こうのタツヤを、同時に見ているような目つきだった。
「お前は俺と同じ“読み”を持っている。
――もし俺を越えたら、この街は預けるつもりだった」
短く区切るように告げてから、一拍おいて続ける。
「俺は無秩序を消すために闇に落ちた。
理屈が届かない場所を、汚れで塞いだ。
お前は影を抱いたまま、光のほうを見ている。
違うようで、同じ盤の上だ」
言葉が止まるたびに、面会室の時計の針の音がかすかに響く。
タツヤは黙って聞いていた。
肯定も否定も、どちらも挟まない。
「影は光の下でしか生まれない。
……お前なら、踏み外さずに使える」
それは命令でも懺悔でもない。
ただ、“読みの結果としての評価”だけが、淡々と並べられていた。
面会終了のブザーが一度鳴る。
乾いた電子音が、二人のあいだの空気を一度だけ震わせた。
タツヤは立ち上がる。
ガラス越しに、深く頭を下げた。
「師匠。街は、俺が守ります」
声に力はこめない。
約束というより、“宣言”に近かった。
アキヤマの口元に、わずかな笑みが走る。
何かを託すでも、押しつけるでもない。
“見ている”という合図だけが、その一瞬に宿った。
「もう会うことはないだろう。……届かせろ」
言葉の最後だけが、ほんの少しだけ柔らかかった。
ブザーが二度目を告げる頃には、もう表情は元の静けさに戻っている。
刑務所の門を出ると、空は焼けるような橙だった。
高い塀の縁に、細い雲が引っかかっている。
風が頬を撫で、タツヤの影が門から坂へ、坂から街へと細長く溶けて伸びていく。
(……影は光の下でしか生まれない、か)
アキヤマの言葉を反芻しながら、タツヤはゆっくり坂を下った。
自分の足音に、もう昔ほど迷いはなかった。
夜。場末のバー。
薄い灯。かすれた古いジャズ。
湿ったカウンターの木目には、何度拭いても落ちない輪染みがいくつも重なっている。
テーブルの上には、使い込まれた将棋盤が一枚だけ置かれていた。
表向きは、酒を出すだけの小さな店。
だが今夜だけは、“別の会議室”として使われている。
タツヤは、音を立てずに席へと滑り込む。
コートを椅子にかけるより先に、先手番の駒を一つ、盤の中央に置いた。
これは挨拶であり、宣言でもある。
「最初に言っておく」
彼はグラスに手を伸ばす前に言った。
「俺はアキヤマを告発した。マルアを崩壊させたのは俺だ」
向かいの席には、四人の男たちが座っている。
元・運び。元・交渉役。元・掃除屋。
肩書きは全員“元”だが、背負っているものは消えていない。
血と罪は確かにある。
だが、その目には快楽はない。
街の秩序を通すために手を汚した者たち。
“壊すこと自体”を楽しむマッセとは、根っこから違う種類の闇だ。
「それで、俺たちに何をさせる」
一番年長らしい男が、低く問う。
声には反発と警戒が混ざっているが、まだ拒絶ではない。
「三つだけ」
タツヤは指を一本立て、淡々と数える。
「一つ、殺しはしない。
二つ、麻薬は流さない。
三つ、順番は俺が決める――連絡は最初に俺へ。横抜けは切る」
店の外を、遠いサイレンがかすめる。
ここまで届くほど近くはないが、誰もが一瞬だけ耳を澄ませた。
若いのが舌打ちと同時に立ち上がる。
右肩が先に上がる癖――殴りかかる前の“合図”だ。
タツヤは椅子を半足ぶん引くだけだった。
そのわずかな距離で、拳は空を切る。
伸びた腕の肘の腱に、軽く指を置く。
力の流れを止められた腕は、あっけなく抜け、
男は体勢を崩して一歩退く。
タツヤは追わない。
視線だけを元の位置に戻し、他の三人の目を順に受け止める。
「殴りたい気持ちはわかる。
だが今日は殴れない日だ」
淡々とした口調のまま、次の駒を盤に置く。
テーブルの下では、緊張で固まっていた膝が、少しずつ元の位置に戻っていく。
「明日のマッセは――」
タツヤはグラスには手を伸ばさない。
代わりに、言葉を一手ずつ置いていく。
「朝は港北で薬の密輸。
昼は繁華街で暴れ、
夜は南区で示威」
四人の顔色が、わずかに動く。
誰も何も言っていないのに、「図星」が盤上に置かれた時と同じ空気が走る。
「……全部、読めてるってわけか」
ひとりがかすれた声で呟く。
「すでに手を打ってある。
明日、現場でわかる」
タツヤは、声を荒げない。
「お前らは秩序のために悪をやった。
マッセは壊すために悪をやる。道そのものを消す。
俺は“守るため”に影を使う。
読んで動かす。破ったら切る――それだけだ」
言い切ってから、視線をひとりずつ受け取る。
“脅し”ではない。“手順の予告”だ。
(ここで逆らえば、明日“損”を踏む――)
そう読ませるための、必要最低限の材料だけを並べる。
灰皿の縁で火が弾けた。
年長の男が、吸いかけの煙草を静かに捻じ消す。
「……わかった」
短く吐き出されたその声に、諦めではなく、判断の色が混じっていた。
「俺たちは“筋”だけ守る。
あんたの影で動く」
他の者たちも、椅子を鳴らさない程度に小さく頷く。
大声も握手もいらない。
了承は、こういう静かな場所で決まる。
タツヤは椅子から立ち上がる。
胸ポケットに指を滑らせると、小さな硬い感触が指先に触れた。
桂の角。
盤上で捨てられたあの日の桂馬の欠片が、布越しに皮膚を押し返す。
(――ソンダイ。見てるか)
心の中でだけ、その名を呼ぶ。
(捨てた桂の先を、俺が読む)
あのとき盤上に置かれた“捨て駒”の続きが、
今ようやく繋がり始めている気がした。
バーを出ると、夜風が一つ抜けた。
暖かい空気と冷えた空気の境目が、頬を撫でていく。
地面を這う自分の影が、路地に入り、角で折れ、また伸びる。
街灯ごとに少しずつ形を変えながらも、途切れることなく続いていく。
その影は声を上げない。
旗も掲げない。
名前も看板も持たない。
ただ、必要な位置に、必要な形で置かれていく。
香のように端を押さえ、金のように要所を締め、
角のように斜めから“筋”を通す。
街の灯は、相変わらず少し濁っている。
完全な正しさには、まだ程遠い。
それでも、静かに、確かに――
新しい筋が引かれはじめていた。




