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盤上の街スーパウロ  作者: TAMI


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第28話 王の過去 前編

最初に手放したのは、チョークだった。


日本の高校で、アキヤマは国語を教えていた。黒板に古典の一節を書き、横に品詞を並べる。答案の余白には赤で短く添える。

「主語を立てろ」「比喩は一つでいい」。

よく書けた行には、小さく丸で囲んだ「ア」。

生徒はそれを「丸ア」と呼んで笑った。


放課後は将棋部。土曜は将棋教室。日曜も研究会。休むと落ち着かないほど、将棋が好きだった。家は、いつも後回しになった。


ある冬の夜、食卓に封筒が置かれていた。離婚届の控えと、短い手紙。

「あなたの相手は、いつも言葉と盤でした。娘は私と行きます」。

椅子は四脚のまま、食器だけが二つ減っていた。


春。辞表を出した。自分をいちど読み直すために、アキヤマはスーパウロへ飛んだ。空港の外は乾いた風。土と果物の匂い。路地では裸足の子どもがビー玉を転がし、まっすぐに見返してきた。


市場の軒先で、折り畳みの将棋盤を広げた。言葉は半分でも、駒は全部で通じる。王と玉。金と銀。歩の一歩。

桂が跳ねるたび、笑い声が弾けた。

「チェックメイト?」と聞かれて、彼は首を振る。「こっちは“詰み”って言う」。

木の感触が掌に残る。ここでは、説明より手が早かった。


空き教室を借りた。黒板に初期配置を描き、駒の動きをゆっくり見せる。割れた窓は段ボールで塞ぎ、机は寄付を集めて並べた。子どもが来た。親も来た。通りすがりの老人も座った。勝てば笑い、負けても次の一手を考える。

アキヤマはここでも良い考えに小さく「丸ア」を付けた。

「先生、今日も丸ア?」――誇らしげな声が増えた。

子どもたちに囲まれて、アキヤマは久しぶりに“教える”という感覚を思い出した。

声をかけられるたびに、胸の奥の冷たい部分が少しずつ溶けていった。


老若男女が盤を挟む景色は、すぐに街の噂になった。屋台の主人が机の脚を直し、靴修理の婆さんが椅子に布を縫い付けてくれた。

「ここは明かりが消えないから安心だ」と誰かが言った。

夜、遠くでサイレンが鳴っても、この部屋の呼吸は乱れなかった。

(言葉が届く。ここなら)


スーパウロは貧しい。仕事がない。怒鳴り声が路地を横切る。ポケットの刃物が日常に混ざる。アキヤマは面食らった。だが盤の前では、人は静かになった。盤の上では、誰もが平等と伝えた。だから続けた。教室は「将棋協会」と呼ばれるようになった。


最初の揺れは、すぐ来た。


冬の雨の日。教室を出た兄妹が、コンビニ袋と細い傘を持って角を曲がる。

その先で、対立組の受け渡しがこじれていた。見張りの合図、押し問答、安い刃の光。

兄は一歩、前へ出た。背中で妹を隠す。

刃が走る。

倒れる音は、雨にすぐ消えた。


誰も止めない。通行人は傘を傾け、視線だけを逸らす。

救急は来ない。しばらくしてから、遅れてサイレン。

警官はテープを張り、写真を撮る。妹は「お兄ちゃん」と呼ぶ声を失い、口だけが開いた。

名前を呼ぶ人は、他にいなかった。


翌日、妹だけが教室に来た。制服の袖は濡れたまま、冷たい。

椅子に座っても、駒に触れない。目は盤の縁に固定されたまま動かない。

兄の駒箱は、昨日の席にそのまま置かれていた。名前の紙が濡れて波打っている。

アキヤマは抱きしめ方を知らなかった。代わりに、静かに椅子を引いた。

「ここに座れ。今日は、受けの練習をしよう」

声は届かない。けれど、座れば呼吸だけは戻る。それしか用意できなかった。


アキヤマは走った。

警察は「目撃者が足りない」「捜査中です」。

役所は「動くことは難しい」。

窓口の声は一定、目は書類のまま。

差し出した手は、誰の視線にも触れなかった。


明かりを落とし、鍵を回す。兄の名前の貼られた駒箱に、指が止まる。

外ではサイレンが重なり、雨が途切れず落ちる。


(この街は線を越えなければ守れない)


声には出さない。胸の内で、はっきりと言った。

言葉で届かない場所があるなら、別の手で届かせる。

軽い盗みや喧嘩は後回しでいい。まずは抗争の根を断つ。

昼は盤で守る。夜は、盤の外で守る。

その覚悟だけを、ひとつ深く置いた。

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