第25話 捨て駒の詩
駒が鳴いた。
先手はコーヘイ。香が真っ直ぐに出る。ためらいがない。
打ちっぱなしの壁が音を返す。長机の上の将棋盤だけが場違いに清潔で、蛍光灯の白が駒の縁を淡く光らせていた。高い位置に排煙窓が一枚。細い格子。古いガラス。空気は乾いて、薬品と鉄の匂いが混じる。
ソンダイは指先で呼吸を合わせ、銀を出した。形は教科書どおりに見せ、次の一手で裏切る。角の利きを通し、歩を一枚、静かに垂らして催促をかける。
「せっかちだな」
コーヘイの口元がわずかに動く。
香がさらに一歩。一直線。壊すための理屈だけがそこにある。
(直線で来るなら、曲線で折る)
桂が跳ねる。受けの形を一箇所だけ崩し、角筋を細く残す。相手の手番でこちらの狙いが動く段取り。
飛車が横に滑る。受けた顔をしながら直進の道を開ける、硬い手。
ソンダイは一拍置いて、桂を――成り捨てた。
コーヘイの指が一瞬だけ止まる。
駒台が小さく鳴る。できた穴に銀を割り、角で射抜く順。技が盤に乗る。
コーヘイの目が細くなる。金が寄る。形を締めて、香はまた伸びる。一直線は止まらない。止まらないという事実そのものが、彼の武器だった。
ソンダイは銀を深く打ち、歩で厚みを足し、玉の逃げ道に網を張る。受けの顔で攻め、攻めの顔で受ける。百の技の“見せ方”で、盤の空気を半歩ずらす。
「技で押すのが、お前のやり方か」
「そっちは捻り潰すのが流儀だろ。間を取ろうぜ」
言葉は軽い。目は盤から外さない。
歩の叩き。受ければ重い。放てば薄い。どちらでも狙いが通る二択。
コーヘイは重く受けた。香の直線が、今だけ止まる。
ソンダイは手拍子で金を寄せ、桂の利きを呼び込み、もう一枚――
桂の、成り捨て。今度はさっきよりも深く。命を刻むみたいに。
コーヘイの睫毛がわずかに震え、指先が半拍遅れる。
部下の誰かが小さく息を呑む。盤の呼吸がこちらに傾く。
(――届く)
その感触の次に来たのは、力だった。
飛車が通る。香が突く。金が叩きつけられる。一直線と一直線が重なり、こちらの攻め筋を“面”ごと押し潰していく。形がしなる前に、骨から折る手順。
「終いだ」
コーヘイは声を荒げない。香の位置を小さく整え、静かに宣言を落とす。
詰み。音のしない詰み。
乾いた破裂音が重なった。
右前腕を弾が掠めず、えぐる。熱が遅れてやって来る。指が利かない。
「喋らせてから、終わらせる」
低い声。部下の気配が近づく。だがコーヘイの視線ひとつで止まる。
盤の上は無傷のまま。血が近づくたび、足先でさりげなく遠ざけられる。
(――今だ)
壊れたスタンガンを指先ではじき上げ、高窓めがけて投げた。
ガラスが割れる。斜めの亀裂。夜の空気が細く落ちてくる。
「…ポンバッ!!!」
叫びと共に胸ポケットから薄いチップを親指ではじき、外へ放る。
闇に跳ねる黒片。
影が掠める――俺の伝書鳩ポンバ。
脚環の磁石が空中で“カチ”と噛み、チップごと引き抜く。
羽音が一度、すぐに消える。空中継ぎの一手。百の技のひとつ。
(明け方がいちばん、まっすぐ飛ぶ。夜の匂いが薄まる刻だ)
指で合図を一度。羽音は小さく、暗がりへ溶けた。
コーヘイの指が引き金に触れかけて、止まる。盤を見て、床の血を見て、低く言う。
「もういい。言葉はいらねぇ。勝負が答えだ」
ソンダイは口の端だけで笑って、息を置くみたいに言った。
「……コーヘイ。お前、将棋は……愛してるんだな」
視線が盤をかすめ、割れた窓の先へ、それから宙で止まる。
(タツヤ……ずっと、お前みたいに、守る手に、なりたかった。俺の分は飛ばした。……拾って、刺してくれ)
ひと呼吸、かすれる声で続ける。
「桂はここで捨てた。次は……お前の手番だ」
最後は、笑ったかどうかも曖昧なまま。
「――任せた」
答えは来ない。
すぐに、乾いた一発。
静寂。誰かが息を吸い込む音だけが残る。
「片付けろ。盤は触るな」
命令は短い。誰も逆らわない。
板張りに滲んだ赤は、盤からわずかに遠い。
高窓の割れ目から、夜の風が細く落ちた。外で、翼が一度だけ返る。もう見えない。
けれど、この建物の外で、確かに何かが動き始めている。
翌朝。
夜明けの青を背に、小さな影が将棋協会の屋根へ降りた。
紐が木の縁を叩く音に、タツヤが顔を上げる。
胸の奥で、ひとつだけ、静かに灯る。




