第24話 孤独の百
夜の骨組みは、風に鳴っていた。
街外れの建設現場。鉄骨が月を切り、足場の影が地面に格子を落とす。工事看板は色が抜け、用途の欄だけ白紙のまま。何を造る予定だったのか、もう誰にもわからない。
ここはマルアが残した“途中”だ。
工事は止まり、ブルーシートはほつれ、型枠には生乾きのコンクリートの匂いがこびりついている。いまはマッセのアジト。未完成の箱に、未完成の暴力が住み着いた。
午前二時。
街の音がいちばん薄くなる刻に、ソンダイは現場の外周を回り込んだ。鉄骨の柱を背に、足場の影を伝い、浮いた板金を踏まない線を選ぶ。砂利は踵でならして沈める。百の技は、全部「生きて戻るため」の動きだ。
資材搬入口に見張りが一人。ヘルメットもせず、タバコを吸っている。半袖の袖口から刺青がのぞき、首筋が無防備に月へ向いていた。
小型スタンガンを喉元に三秒。青い閃き、短い息。膝から崩れる身体を腕で受け、倒れ音を足で吸って、型枠の影へそっと寝かせる。
「悪いな。借りる」
血は出ていない。上着とフードを剥ぎ、油と埃の匂いを確かめて羽織る。ピッキング、変装、電撃――手順は身体が覚えている。百の技のうち、三つだけ使えば足りる。
仮設フェンスの内側、資材コンテナの並びを抜ける。ブルーシートのはためきが一瞬だけ大きくなり、また静まった。奥に、管理棟代わりの建物がある。灯りは落ちているが、人の匂いがまだ温かい。
扉は仮設の鋼板製。南京錠は使い回しの古い型だ。
薄い工具を差し、金属の震えでピンの高さを拾う。カチ、と小さな手応え。呼吸よりも小さい音で、闇の内側へ滑り込んだ。
廊下に二人の影。銃は持っているが、立ち方が慢心している。
「おい、誰だ」
「ボスが呼んでる。急ぎだ。遅れたら死ぬぞ」
声の圧だけで足が退く。スーパウロでは、声も“格”になる。
階段を上り、鉄扉の前で止まる。中の空気は重く、人は二人。どちらも動きが遅い。机の上で金属が一度鳴った。ソンダイは扉を半分だけ開け、影のように滑り込む。
「おい今は──」
返事より先に青が閃き、ひとりが床に落ちた。もう一人が机の拳銃に手を伸ばすが、その手首をはじいて腹に電極を押し込む。火花、崩落。銃はつま先で部屋の隅へ蹴り、頭を机角で軽く打って眠らせる。
「三手で終了。はい、おつ」
言葉は軽くても、目は冷えていた。
部屋にはテーブルがひとつ、安い棚がひとつ。机の上だけが違っていた。スーパウロ市街の地図に赤丸がいくつも記されている。病院、市庁舎の裏手、食料倉庫、小学校、そして――スーパウロ将棋協会。どれも金にはならない“街の機能”。線でつなげば盤面そのものが崩れる。壊してから座る――空気がそれを示していた。付箋の走り書きが目に入る。
〈静かにさせてから座る〉
〈看板は替える〉
名簿も置かれている。市の幹部や警察上層の名前の横に、金額と支払い済みのチェック。買えるやつは買った。残りは黙らせる。
(なるほど。まず街の呼吸を止める。次に協会の看板を掛け替え、ボスが“座る”。――壊してから支配、か)
ソンダイは小型デバイスを取り出し、襲撃予定、汚職リスト、日付を順に記録していく。
(間に合う。タツヤに渡せば、次が読める)
顔を上げた瞬間、背後で気配が止まった。
「……へぇ。やっぱ、来たか、読み通りだ」
息がかからない距離。気配だけが刺す。ソンダイはゆっくり振り返る。撃たれていない――まだ話の余地がある。外からは重いブーツの足音が三つ、金属の擦れる音が一つ。入口も出口も、すでに塞がれている。
背中越しの影は、コーヘイ・ジエゴだった。
天井の低さを気にさせるほどの長身、余肉のない筋が服の下で細い糸のように走る。刈り上げた髪に深く沈むニット帽。水の底みたいに冷えた瞳。立っているだけで、部屋に椅子一脚ぶんの圧が増える男だ。
「“百の技のソンダイ”。声も足音も軽いな。背骨だけ固ぇ。殺され慣れてるのに、まだ死んでねぇ顔してやがる」
「評判どおりだな。粗暴で、理屈が通らねぇ」
「悪評ってやつは、生き延びる免許だ」
ソンダイは親指でスタンガンのスイッチを押した。乾いた「カチ」だけが響いた。
火花は出ない。接点がズレたな――さっき当てた衝撃か。
ソンダイは一拍で見切り、武器を“言葉”に切り替える。
コーヘイが机を指で二度叩く。廊下の足音がぴたりと止まった。それは躾ではなく、恐怖で止まる足音だ。マッセはこの男ひとりの呼吸の上に立っている。
「正直、お前を殺すのは簡単だ」
ただの事実のように言う。ソンダイは肩をすくめた。
「知ってるよ。あんた、そういう男だ」
「ああ、そういう男だ。ヒーローぶる奴は順番に潰す。で、お前は何だ? 探偵か、正義か、それともあの玉将の犬か?」
タツヤの名が出た瞬間、胸のどこかがチリッと燃えたが、表情は動かさない。
ソンダイは視線を流し、机、床、天井、隅の木箱へと移す。ふたが半開きで、一組の将棋盤。盤も駒も血の跡ひとつなく、ここだけ不自然にきれい。布と油の匂いがわずかに漂う。(“置いてある”んじゃない。“整えてある”)
コーヘイはその視線に気づき、鼻で笑った。
「ああ、あれな。最近の連中、“将棋で決めたなら文句ねぇ”って言うんだよ。筋だの礼だの、うるせぇ。便利だろ? 殴るより早い。
何より、勝ったって証明になる」
「便利っていうか……意外と計算はするんだな。頭悪そうな顔して」
「……今、なんて言った?」
「褒めたんだよ」
片手が上がると、廊下の気配がいっそう薄くなった。恐怖の支配は、合図ひとつで完成する。
ソンダイは顎で木箱を示し、淡々と続ける。
「撃てば終わる。俺も死ぬ。玉将もいずれ死ぬ。街もしばらく黙る。だがそれだけじゃ“ただの壊し屋”で終わる。盤でも勝てるって見せろ。『将棋でも勝てる壊し屋だ、だから従え』――そう言えたら、空気ごとお前の色になる」
沈黙が落ち、コーヘイの口端がわずかに上がる。獲物が自分で罠に入ったときの顔だ。
「……おもしれぇな。お前」
「よく言われる」
「条件は?」
「俺が勝ったら、今撮った地図と名簿を持って出る。今夜、協会には触るな。負けたら、ここで終わりだ。俺も――」
「逃げ道は?」
「ない。外に“仲間”がいる。俺が戻らなきゃ動く。撃ってもいい。……でも“将棋で折らせたボス”って話のほうが、この街には効く」
(もちろんそんなものはないハッタリさ)
短いため息が笑いに変わり、コーヘイは足で机を蹴って木箱を引き寄せた。盤を乱暴に出し、しかし迷いなく並べる。香車に触れた指が一拍だけ止まり、すぐにまた動き出す。
「座れ。“百の技”。逃げんなよ。負けたらここで終わりだ。お前も、玉将も」
ソンダイは椅子を引いて腰を下ろした。膝の内側には、壊れたスタンガンの重みが残っている。(突っ込むな、って言われたばかりだろ。……悪いな、タツヤ)
コーヘイが低く落とす。
「証明してやるよ。壊すほうが早いってな」
最初の駒音が薄い倉庫の壁に沈み、外の風は向きを変えた。火と薬の匂いが、わずかに流れ込んでくる。




