第20話 無秩序の増殖
午後のスーパウロ将棋協会。
タツヤとルアンが盤を挟んでいた。盤面は中盤、均衡。駒音だけが静かに落ちる。
壁にかかったテレビが、ちょうどニュース特集を流していた。画面には、炎上する車。路地で殴り合う影。泣き叫ぶ声。サイレン。
「暴行・放火・強奪が短時間で連続して発生。犯行グループ“マッセ”が関与していると見られています。警察は『対応が追いつかない』と――」
そこまで聞いて、ルアンが手を止めた。持っていた銀が、盤上で宙に浮いたまま固まる。
「先生……また、増えてますよね。」
タツヤは盤から視線を上げない。
「前より、って意味なら違う。」
ルアンが目を瞬かせる。
「違うんですか?」
「表に出てきただけだ。もともと、こういう奴らは隠れていた。」
それは慰めではなかった。事実の確認だった。
ルアンは唇を噛む。銀を置けずにいる。
「……怖いです。でも、将棋だけはやめたくないんです。」
タツヤはそこで顔を上げた。ようやくルアンを見る。
「続けていい。指している間は、まだ大丈夫だ。」
ルアンは小さく息を吐いた。わずかに肩の力が抜ける。
協会の扉が開いた。
「ほう。余裕の稽古会、ってわけか。」
いつもの調子で入ってきたのはソンダイだった。書類の束を片手に、コンビニのコーヒーをもう片方の手で揺らしている。
「こんにちは。」ルアンが会釈する。
「おう。この人の守り、崩せた?」
「まだです。」
「でしょうね。」
ソンダイが笑うと、タツヤが淡々と口を開いた。
「ルアン。今日はここまでだ。帰り道は大通りを使え。」
それだけで、ルアンは察したようにうなずいた。
「はい。また来ます。」
ルアンが扉の向こうに消える。
残った空間に、少しだけ重さが落ちる。
ソンダイはコーヒーを机に置き、書類の束をタツヤの前に滑らせた。
「マッセの話だ。」
タツヤのまぶたが、わずかに下がる。
それは「聞く」という合図だった。
ソンダイは紙を一枚抜き、指先で弾く。
「頭目の名前がはっきりした。コーヘイ・ジエゴ。元はマルア側の人間。」
タツヤの視線がそこに止まる。
「聞いた名じゃない。」
「表に出てこなかったからな。いわゆる、後ろの人間。力仕事もやるし、始末もやる。汚れ役専門。」
淡々とした言い回しだったが、その“汚れ役”という言葉には、普通じゃない匂いが混じっていた。
「マルアが崩れたあと、行き場のない連中を拾って回って、今のマッセにしたのがそいつだ。」
ソンダイは指で机を軽く叩く。「コーヘイの言い分はこうだ。『街は管理されすぎた。だから壊す』。」
「管理、か。」タツヤが小さく繰り返す。
「マルアは支配だろ。マッセは破壊そのもの。目的が違う。タチが悪いのはそこ。」
タツヤは黙ったまま、資料の写真を見る。
暗い細い路地。笑っている男。だがその目だけが笑っていない。
ソンダイが続ける。
「公安は一時は機能してた。マルアの崩壊後、しばらくは。だが今はもう押さえきれてない。警察は下っ端がビビって動けなくて、上は金で黙らされてる。」
「上も下も、別の理由で止まってるってことか。」
「そういうこと。間に挟まれた市民だけが殴られてる。」
協会の中は静かだった。テレビは音を消されている。
タツヤはしばらく何も言わない。黙ったまま指先で一枚の駒をいじった。
「……ここまで大きくなるとは、読めなかったか?」
そう問うソンダイの声は、ふざけていない。
タツヤはゆっくり首を横に振った。
「違う。大きくなるのはわかってた。問題は、速さだ。」
ソンダイが眉を上げる。
タツヤはそのまま続けた。
「マルアは街を握って動いてた。だから動きに“段”があった。こっちも備えやすかった。止め方があった。
でもマッセは、持ってる手を全部同時に打ってくる。順番がない。だから防御の形が整う前に割られる。」
「順番がない、ね。悪い言い方すると“脳みそ使ってない”ってやつだな。」
「脳みそを捨てたほうが速い、って知ってるやつが上にいるってことだ。」
ソンダイはふっと笑い、けどその笑いはすぐ溶けた。
「……嫌な時代だな。」
タツヤは窓の外を見る。日が落ちかけていた。街の色が朱から青に変わっていく時間帯。
「街が壊れるときは音を立てない。静かに形だけ変わる。気づいたときには、別物になってる。」
「それ、記者の言葉か?」
「今は会長の言葉だ。」
短いやり取りだったが、そこにはもう、笑いは戻らない。
その夜。
協会から少し離れた場所。
街灯の下にバイクが停まった。黒いヘルメットが三つ。タツヤの顔写真が地面に投げられる。
「こいつがマルアを潰したんだろ。だから今、俺たちはこうなってんだろ。」
「だったら次は、こいつの番だ。」
吐き捨てる声は幼い興奮と歪んだ正義感でできていた。
本気で信じている声だった。
――協会ごと燃やす。
その言葉だけが、夜気の中に残った。
同じころ。
タツヤは協会の明かりを落とし、カーテンの隙間から通りを見ていた。視線が、闇の奥のさらに奥をなぞるみたいに動く。
「……動きが早い。」
呟きは小さかった。誰にも聞こえない。
右手の中には、いつも持ち歩いている駒。
それは“玉”。
タツヤはしばらくそれを指の中で転がし、握り直した。
表情は静かだった。ただ、目だけが冷たい。
(来るなら、迎える。
俺の届く範囲は、全部守る。)
街は、ゆっくりと音を失っていく。
静かなまま、別の形になろうとしていた。




