第2話 読みの果てにあった日本
大学に入っても、タツヤの“読む力”は誰より鋭かった。
評論文では論理の骨組みを、文学作品では言葉の呼吸を読み取る。
教授から「学者になれる」と言われることもあったが、本人はピンと来ていなかった。
彼が見ているのは、テキストの世界だけではない。
ニュースサイトを開けば、政府の発表と経済指標のあいだに、
“もう一つの文章”が見えてしまう。
出生率のグラフ。
非正規雇用の割合。
企業の内部留保。
社会保障費の推移。
リストラ、早期退職、地方銀行の統合。
それぞれの数字は、単独で見れば「問題はあるが、まだ大丈夫」と読めなくもない。
だが、タツヤはそれを一つの長い文章として読んでしまう。
――人を育てない社会。
――若い世代に負債だけを押しつける構造。
――“今”だけを守るために、“未来”を切り崩すシステム。
行間を繋げるほど、日本という国全体の詰みが見えてきた。
「……正しく読めば読むほど、詰み筋しか見えないのかよ」
ゼミ室の片隅で、タツヤはノートパソコンを閉じた。
同級生たちは就活サイトを開き、エントリーシートの添削をし合っている。
内定が出た者は、将来設計の話で盛り上がり、
「安定した企業」「福利厚生」「家を買うならどこか」と、楽しそうに笑っていた。
タツヤには、その笑いを否定する気はない。
むしろ、笑っていられるうちに笑ってほしいと思っている。
ただ――読みすぎてしまっただけだった。
彼らが入る企業のいくつかは、
数年後に賃金カットを行い、
十数年後にはリストラを始め、
二十年後には買収か統合の対象になるかもしれない。
そこまでの筋道が、うっすらと見えてしまう。
夜、自室の机でタツヤはノートを広げた。
将来推計人口、年金財政、医療費、税収。
いくつものグラフを切り貼りし、線で結ぶ。
一手進めるごとに、「受け」の余地が削られていく盤面が浮かんだ。
「この国は……詰んでる」
ぽつりと零れた言葉は、誰に向けたものでもない。
読み間違いかもしれないと、何度も別の資料で検算する。
だが、ルートを変えても、結論は同じ地点に収束した。
勝てないどころか、
「守り切る」という選択肢すら奪われつつある。
(守って、読み切って、刺せ)
ゲームセンターの喧騒の中で聞いた、タクミの声が蘇る。
あのときは、画面の中の勝ち方を教えてくれただけの言葉だった。
だが、今になると、それが“生き方の指し方”に聞こえてくる。
守りながら読む。
相手のクセを掴み、焦りを見抜き、最後に一発通す。
――日本という盤には、その「最後の一発」を通す筋が、もう残っていない。
そう読めてしまった。
ならば、盤そのものを変えるしかない。
タツヤは、日本以外のニュースを読むようになった。
新興国の経済成長、治安の悪化、改善の兆し。
インフラが足りず、汚職も暴力もあるが、それでも人が集まっていく街の話。
混沌としていて、先が読めない国々。
「……“読めない”って、こんなに羨ましいんだな」
ページをスクロールする指が止まる。
南米の都市スーパウロ。
陽光に焼かれた雑多な街並み、
路地でサッカーをする子どもたち、
屋台と高層ビルが同じフレームに写った写真。
記事には「貧富の差」「治安の悪さ」「政治の不安定さ」など、
ネガティブな言葉が並んでいた。
だが、タツヤの目を引いたのは、そこではなかった。
写真の中の人々は、なぜか“生きている顔”をしていた。
疲れていても、笑うときは全力で笑っている。
怒るときも、泣くときも、振れ幅が大きい。
(先が決まりきっていない顔だ)
そう読めた。
日本は――“読みすぎてしまった”。
どの分野も、ある程度の未来が見えてしまう。
その「見えている未来」が、もうあまりにも窮屈だった。
スーパウロは違った。
記事の文面からも、写真の隅からも、
まだ形になりきっていない“途中経過”の匂いがした。
「そこなら、まだ局面を読み替えられるかもしれない」
その夜、タツヤはパソコンを開き、
海外インターン、現地メディア、語学学校、ボランティア……
使えそうな選択肢を片っ端から調べ始めた。
英語はそれなりに読める。
スペイン語やポルトガル語は、これから覚えればいい。
資金の計算をする。
奨学金の残り、貯金、アルバイト。
最低限の生活費と渡航費を書き出し、何度も削る。
「日本で“安全に負ける”ために使うより、
向こうで“まだ分からない勝ち筋”に賭ける方がマシだ」
ようやくその結論に、感情の方が追いついた。
数日後、大学のキャリアセンターで相談を受けた職員が、困った顔で言った。
「海外に行くにしても、まずは日本の企業に入って経験を積んでからの方が……」
タツヤは、穏やかに笑って首を振った。
「すみません。
“経験を積んでから”っていうレールの先の景色が、
もう自分には見えすぎてしまってるんです」
職員は言葉を失い、やがて小さくため息をついた。
「……君みたいな学生ばかりなら、日本も今とは違ったかもしれないね」
「僕みたいな読み方をする人間ばかりだったら、
もっと早く詰んでたかもしれませんよ」
軽口のつもりだったが、笑いは起きなかった。
(守って、読んで、刺す。
あのとき教わったやり方は、多分こっちの方が向いている)
日本という盤の上では、
もう「投了」を待つしかない観戦者になる未来しか見えなかった。
だが、まだ形になっていない街なら、
自分の一手が、ほんの少しでも盤面を変えるかもしれない。
未知の場所。
自分の“読み”が通用するかどうかも分からない場所。
だからこそ――読む価値がある。
タツヤは、固く握っていたスマホをそっと膝の上に置いた。
「よし」
その一言は、誰に向けたものでもない。
ただ、自分の中で“次の局面”の開始を告げる合図だった。
こうしてタツヤは決めた。
読みの届かなくなった国を離れ、
まだ局面が動いている街へ向かうことを。
その一手は、まだ誰の棋譜にも記録されていない。
だが、彼自身には分かっていた。
――ここから先の盤は、もう誰も読んでいない。
読む価値があるのは、その先だ。




