第19話 百の技、ひとつの読み
旧市街の外れ。
薄暗いバーの片隅で、二人の男が盤を挟んでいた。
氷の音と、駒の音。
静かな夜の中に、それだけが響いている。
ソンダイ――かつては記者だった。
だが、マルアの支配が街を覆っていたあの頃、
彼は何もできなかった。
権力に逆らえば、命はない。
真実を書こうとした仲間が、次々と消えていった。
記事を出す勇気も、声を上げる覚悟も、
あの頃のソンダイにはなかった。
ただ、沈黙して見ていた。
マルアに踏みにじられる街を、
そして、その中でただ一人、立ち向かう男を――。
タツヤ。
理不尽の中で、命を懸けて真っ直ぐに立つその姿を見て、
ソンダイは“敗北”を知った。
自分の臆病さも、記者としての限界も、
すべてを突きつけられたような気がした。
だからこそ、マルアが崩壊した今、
彼は探偵として裏を歩く。
誰の指図も受けず、誰にも縛られず、
自分の手で掴んだ情報を武器に生きる。
それは贖罪でもあり、憧れの続きでもあった。
あの夜、何もできなかった自分に代わって、
命を賭して戦ったタツヤを支えるために。
ソンダイは“百の技”を持つ男。
華やかで、軽口を叩きながらも、
その瞳の奥には、確かな尊敬と決意が宿っていた。
――タツヤが盤上で読むなら、
ソンダイは盤外で動く。
二人の歩む道は違えど、
どちらも同じ“戦場”に立っていた。
「……なるほど。序盤から変化球か。」
タツヤが低く呟く。
ソンダイの▲4六角。
常識を外れた布陣だった。
「奇をてらうんじゃねぇ。これが俺の流儀だ。」
ソンダイが口元を歪める。
「百の技のうちの一つってやつだ。」
タツヤは目を細める。
「確かに“技”だな。
理に合わないのに、形が崩れていない。」
「お褒めに預かり光栄だ、スーパウロの玉将さん。」
「その呼び方やめろ。」
駒がぶつかり、盤上に火花が散る。
中盤――ソンダイの攻めが爆ぜるように畳みかけた。
銀、角、香。
手筋の連鎖でタツヤの陣を一気に包み込む。
「どうした、読みが追いついてねぇぞ。」
「……いや、読めてる。」
そう言いながらも、タツヤの表情にわずかな影。
読み筋が複雑に絡み、守りがギリギリで耐えている。
(こいつ……本気で百の技を持ってやがる。)
数手の沈黙。
タツヤが静かに指を止めた。
△6四歩。
ただの歩。
だが――すべてをひっくり返す歩だった。
「……っ!?」
ソンダイが息を呑む。
その瞬間、彼の攻め筋がすべて止まる。
「読みは、技を凌駕する。」
タツヤの声が静かに響いた。
盤上が静まり返る。
やがてソンダイが笑って肩をすくめた。
「……参った。お前、やっぱ化けもんだな。」
タツヤは駒を整えながら言う。
「だが――確かに、お前は百の技を持つ。
その手筋の一つひとつが、美しい。」
「へぇ……褒め言葉か?」
「敬意だ。」
二人の視線が交わる。
互いに手の内を読み合い、そして笑う。
*
しばらくの沈黙。
グラスの氷が溶ける音の中で、
ソンダイが口を開いた。
「――マッセ、知ってるか?」
タツヤの表情がわずかに変わる。
「聞いた。だが詳細までは。」
「今、南区で暴れてる。
統率なし。金の匂いもない。
ただ壊す。燃やす。潰す。
まるでこの街を憎んでるような動き方だ。」
タツヤは沈黙のまま、グラスを傾けた。
氷が鳴り、夜の空気に溶ける。
「……理も秩序もないなら、読むしかない。」
「また“読む”のか。
お前、ほんとに読みで世界を回すつもりか?」
「読まなきゃ詰む。
盤上も街もな。」
タツヤが立ち上がる。
視線の奥には、静かな炎。
「――街の形が変わっても、人の欲は変わらない。
なら、次の一手も同じだ。」
ソンダイは苦笑しながらグラスを掲げる。
「じゃあ、盤外は俺に任せろ。」
二人の影が重なり、
夜のネオンがその輪郭を滲ませた。
静の読みと、動の技。
その二つが交差した夜だった。




