第14話 決戦、理の果て
駒音が響いた。
その瞬間、会場のざわめきがゆっくりと遠のいていく。
アキヤマの初手――▲7六歩。
何度も見てきた形。それなのに、今日だけは違って見えた。
空気そのものが、盤の上で張り詰めていた。
タツヤは静かに息を吸い、△3四歩と返す。
――これが、二人の“理”の始まりだった。
アキヤマの将棋は、理想そのものだった。
隙がなく、乱れもない。
一手一手が、まるで教科書から抜き出したように正確で、完璧に美しかった。
攻めの形にも、守りの配置にも、無駄というものが存在しない。
まさしく教科書の最後に載る男。
かつてタツヤは、何度挑んでもその壁を越えられなかった。
流れを掴んだと思った瞬間、逆に読まれ、押し返される。
それがアキヤマという男だった。
だが――今日は違う。
この一年と数ヶ月、タツヤは積み上げてきた。
奇策も、派手な攻めもいらない。
“基本”を極めることこそが、“師匠を超える道”だと信じてきた。
歩を突き、銀を上げ、角を引く。
何気ない手に見える。
だが、それらは全て、“読み”の末に置かれた布石だった。
中盤、アキヤマが銀を繰り出す。
呼吸のような攻め。
その美しさに、観客が息を呑む。
「……完璧だ」
誰かがつぶやいた。
だが、タツヤの表情は変わらなかった。
静かに、正確に受け続ける。
金を寄せ、角を引き、王を固める。
一手が進むたびに、盤面が研ぎ澄まされていく。
まるで刃と刃が擦れ合うような静けさ。
攻める者も、受ける者も、一歩も引かない。
アキヤマの銀が進み、タツヤの金が受ける。
形が絡み、読みが重なり、盤上の温度が上がっていく。
観客席からは息を詰めた気配だけが伝わった。
それでも、タツヤの手は止まらない。
冷静に、慎重に、そして美しく。
“理”を積み上げるように。
――奇策では勝てない。
――だからこそ、理で挑む。
盤の上は、もはや言葉のない対話だった。
一手一手に込められる“意志”だけが、唯一の言語。
駒音が響くたび、観客の鼓動が重なる。
静寂と緊張が混ざり合い、会場全体が一つの呼吸になっていた。
タツヤの頭に、あの日の声がふと浮かぶ。
『“守り”は生き残るための技術だ。
“読み”は勝つための武器だ。
お前は後者になれる。
――焦るな。守って、読み切って、刺せ。』
その声を胸に、タツヤは再び盤上を見据えた。
銀を受け、角を引き、歩を進める。
両者の“読み”が完全に拮抗する。
攻めも、守りも、どちらも完璧。
盤面に一切の乱れがない。
だが、タツヤには確かに見えていた。
――この静けさの中に、必ず“綻び”がある。
――理を積み上げた先に、まだ知らない“答え”がある。
タツヤの胸の奥で、ひとつの想いが形になる。
この街で、子どもたちがまた盤を挟める日が来るなら――それでいい。
理を超える理由は、それだけで充分だった。
盤上に光も闇もなかった。
ただ、張りつめた均衡だけが漂っていた。
だが、タツヤの心の奥では、
確かに何かが脈打っていた。
守って、読み切って、刺せ――。
それが、まだ誰も知らない“決戦の始まり”だった。




