5. She was thought so
<これまでのあらすじ>
中規模商社の営業職、更科巧31歳は、夜の山道をドライブ中こっそり車に乗り込んでいた女の子を成り行きで街まで送ることになった。
女の子の名は有本藍子、地方銀行に勤める25歳。身に覚えのない周囲からの冷たい視線に耐えながら日々なんとか暮らしていたところ、行内で噂のエリート王子様(江口総一郎)に熱烈なアプローチを受けるようになった。
のらりくらりと躱してきた藍子だったがとうとう成り行きで江口と食事をする流れになってしまった。
食事の後、江口は「寄りたいところがある」と言って……
5. She was thought so(逃走)
このあたり(フランスレストランでの飲食)の相場に疎い藍子でも、この内容・質の料理となると
――(5桁は確定、下手をすれが6桁の可能性もあるの? ……)
と、おおよそ一般的な食事代の域を超えた金額を想定せざるを得ないと察する。
食べ始める前は早い段階で
『手持ちが少ないので後ほどお支払いという事でお願いできませんでしょうか?』
と断っておくつもりだったが
『割り勘で!』
と見得を切っておいて「実はお金無いんです」というのも恥ずかしくて言い淀んでいたら、出てくる料理につい夢中になってしまい、言い出せないまま今に至ってしまった。
食後に調理の首領と思わしきシェフがやってきて何やら話していたが、
「すごく美味しかったです」
と答えるのが精いっぱいで、後の事は完全に上の空になっていた。
身に余るおもてなしをして頂いたのに、失礼極まりないと藍子が自責の念に駆られながらうなだれていると江口がそれとなく察したのか、
「今日は僕に付き合ってくれてありがとう、じゃあそろそろ帰ろうか」
と言ってにっこりと微笑んだ。
ディナー中、江口は相変わらず上機嫌で饒舌だったが、結局核心的な話は一切出してこなかった。
「このシカ肉も美味しいけどあの作中みたいな燻製風味だとどんな感じなんだろうね?」とか、「今度は鴨とか猪とかも試してみたいね」といった話。
藍子の事については、「どんな物(食べ物)が好きなの?」とか「お休みの日は何をしてるのかな?」といった当たり障りのない話に終始した。
仕事の話も少しは出たが「年度末はいつも忙しいよね」くらいなもの。
『すごくタメになるお話をしてくれる方が知り合いにいてね』といった話はもちろん『今付き合ってる人は?』みたいな話も全く出てこなくて、なんだか拍子抜けな展開で幕を閉じた形だった。藍子としては
――(まぁ彼氏の有無については聞くまでもなくということだろうけど)
と聊か自虐的見解に至るだけに終わった。
ここにきて藍子は、
――(もしかしたら本当にただ食事をしたかっただけなのかも)
と思ってもみたが、三十路に近い独身の男性が食事目的だけで女性を誘うとは考えにくい。
それだけに目的がはっきりしないと藍子としてもモヤモヤとした不安が増すばかりだから、いっそはっきりと言って欲しいのだが、藍子からは促しようもない。
――(とにかく早くすっきりさせたいのに……)
藍子は焦燥感が増すばかりだった。
江口が係に藍子の上着とバッグを持ってくるように言ってくれたので、部屋を出る前に身支度をする。支払いの段になったら
「ごめんなさい」
と正直に言って、月曜日にお返ししよう。
そう決心して藍子は江口の後をついて行くと、スルスルとお店の扉付近まで来てしまった。
――(そういえばお勘定ってどこでするんだろう? どこにもレジとか無かったような気がするけど?)
藍子がそう思っていると、サッと店員が扉を開け、江口がスルリと出ていく。
――(え? え?)戸惑いながら藍子も一緒に外に出る。
「本日はありがとうございました、またのお越しをお待ちいたしております」
マネージャー(とかなんですよね?)が深々とお辞儀をしてくるのを受けて、
「うん、ありがとう、ごちそうさま。オーナーによろしく伝えてください」
と江口が言って颯爽と車の方に向かう。
「え、あの……お勘定は……」
慌てて藍子は情けなくも問うてみると、
「え? 済んでるから大丈夫だけど? ……」
とまさに「何を言ってるんだ君は?」みたいな顔で江口が答える。
「…… でも! 私割り勘でって!」
「…… ああ、あれか…… ハハハそれは無理」
「え?」
――(無理⁉ 無理って何??)
藍子は理解が追い付かない。
「今日はそもそも僕がお願いして付き合ってもらったわけだし、君がお金を払う道理は全くないよ」
「う……」
「それに部署は違うけど僕は一応上役で、それ以前に先輩だ。後輩との食事で費用を持たないなんて沽券に関わってしまうよ」
――(なんだか違った意味でパワハラな気がするけど……)
「まー最大の理由は男として、というか僕個人の価値観としては女性に出させるなんて有り得ないからね」
――(……)
最近では男女の付き合いでも割り勘が昔ほど抵抗なく受け入れられているらしいが、それはあくまでも男女間のパワーバランスが50対50を前提としている。
だがそれも男女それぞれの価値観によるし、今日のように目上の男性からあちらの要望として誘われたのであるとするなら藍子の方から「払います」というのも確かに無理があるように思えてくる。
「……でも最初に……」
「ああ、でもあれ、僕は了承してないからね」
「ぐぅ……」
――(ぐくくっ! 思い返せば確かにそうだ、そうだがしかし……)
「大丈夫、これを笠に『じゃあ今度また食事を』なんて絶対言わないから、そんな事したらパワハラだもんね、ハハハ」
――(この状況がもう既にですねぇ……)
ここは意固地に食い下がらない方がと藍子は諦めた。(実際出すお金も無いわけで……)
「…… あの、ではお言葉に甘えて…… ごちそうさまでした」
「いえいえ、こちらこそ付き合ってくれて感謝しかないよ」
完全論破者側の余裕なのか、さらに上機嫌になっているのが藍子としては解せぬ思いだった。
「ちょっと寄りたいところがあるんだけどいいかな? それほど時間はかからないと思うんだけど」
車で走り始めて直ぐに江口が藍子に言ってきた。
「ちゃんと今日中にはお家まで送るから」
「あ、はい、どうぞ……」
藍子は応じるしかなかった。
返事をしてから(え⁉ どこかに連れ込まれたり?)という考えがほんの一瞬藍子の脳裏を掠めたが、お店を出たのが十時前、自分の家(大まかな場所は伝えた)までがおそらく四十分くらい。その寄りたいところがどこなのかによるが、小一時間で連れ込まれて何かされるとは考え難いと藍子は踏んだ。
――(……)
車の中での江口は相変わらずご満悦な様子で、(まーそんな強硬には出ないか)と、藍子も頭にもたげかけた不安を引っ込める。
さっきは江口の申し出(奢り)を半ば強引に受け入れてはみたものの、冷静に考えるとやはりどうしても気が引ける。
手持ちも少なかった(無かっただな)し、正直ありがたいと内心ほっとしている藍子自身だが、ここでアドバンテージを取られるのも癪というか、この後の展開に大きく影響しそうな気がして落ち着かないのも確かだ。今回の対価が具体的にどれほどであったかが気になって
「あの……結構高かったのではないでしょうか? あんな立派なお店で、本当に凄いお料理でしたし……」
と、思えば随分俗物的(下世話?)な事を聞いてしまった。
「いやいや今日はいろいろとツイてたからね、女神様へのお布施としては安すぎたくらいじゃないかな、ハハ」
――(むう……、やはり明かすつもりはないようね、分かってたけど……)
――(それとどう返せばいいのか見当がつかないわ、聞かなきゃ良かった……)
藍子は質問してしまったことを後悔した。
自宅付近のコンビニか公園あたりで降ろしてもらおうと、藍子は目的地(自宅)をそう告げた。
どちらも自宅まで歩いて五分程度だし、実家の場所を知られるのも抵抗がある。
もっとも役職者なら、職場の人事名簿で住所なんて簡単に調べもつくだろうからこんな策を弄しても意味が無いのは藍子にも分かっている。しかし情報として知っているのと、本人と同伴でその場所(自宅)を知る事は大きな違いがあるような気がした。
だが藍子的に一番大きな懸念は、家の前に横付けされて家族の誰かに見られたりすると
“ エライことになりそう ”という事だった。
藍子ももうそこそこの年齢なので、具体的な門限などは設定されていないが、ここまで遅いのは久方ぶりだ。妹と母親はともかく、父親は起きて待っている可能性が高い。
普段口数の少ない寡黙な父だが家族の事を大切に思っていることは藍子にも痛いほど伝わっていた。
本当にありがたい家族達だと心の中でいつも感謝している。
で、予想される最悪な展開は江口が
「娘さんを夜遅くまで連れ回してしまって申し訳ないので、是非一言ご家族にご挨拶を」
なんて言い出す流れだ。藍子は想像するだけで血の気が引く思いだった。
“ コンビニか公園まで ”
このデッドラインだけは何としても死守しなければと藍子は心に誓う。
――(それにしても寄りたいところってどこなんだろう?)
店を出てからいくらか経ったがどこかに寄る様子は見られない。街中のどこかだろうと思っていたが、だんだんと市街を遠ざかっているような気がする。
最初はどこかのお店、例えばクリーニング店とかを藍子は想像していた。
――(あれだけの日替わりスーツじゃクリーニング店の常連だろうし)
しかしどんどんそういった店舗とは無縁な場所に進んでいて、なんとなくさっき浮かんだ不穏な思考がまた顔を覗かせてくる。
“ ←大倫山 ”
の立て看板が見えて(へー、有名なのかな?)と藍子が思っていると、そちらの方に曲がってしまったので唖然とする。
――(山? 今から山に行くの? なんで?)
ここにきて、藍子に先程から感じていたことがある。
江口の口数が如実に減ってきていて、さっきの曲がり角以降は驚くほど無口になった。
思い詰めたような風にも見えるが、未だに何を考えているのか分からない横顔が藍子の不審を更に駆り立てる。
道が上り坂になって外灯も無くなった道に差掛ると、考えないようにしていた不安、いや『恐怖』が藍子の頭の中に満ちてくる。
――(まさか本当に襲われたりとか…… まさかね……)
藍子の頭の中でその考えを認識してしまったとたん、さっきまでのノホホンとした気持ちが嘘のように絶望的な気分に入れ替わってしまった。
初めて話しかけられた時から笑顔のイメージしかなくて、少なくとも悪い人ではないのだろうと思っていた。
今日の食事でより一層この人は女性に優しく紳士的に接してくれる良い人だと自分の認識をほぼ確定してしまっていた。
――(でも……)
――(今日初めて食事をしただけの他人で、しかも男性だ。本性なんて判るはずがない、そうでなくても人との関係が乏しい自分が、こんな短い付き合いでその人を判断、いや信用していた……)
その事に藍子は今更ながらに気が付いてしまった。
あまりに幼く不用心な自分の思考に愕然として、悲しさと悔しさと憤りに胸がつぶれてしまいそうになる。
曲がる度に勾配が増していくカーブが、最悪の展開に続くカウントダウンのようで、全て構わず大声で叫びだしたくなってきた。
――(………………………… なんで私が?)
そう思ってしまったら、今までの我が身の境遇が全て呪わしいものになって、津波のように押し寄せてきた。
勤めを始めてから、いや学生時代から?
――(いや…… もっと前から……)
自分(藍子)が何かをすると一定数の人から疎まれる。
「いい子ぶっちゃってさ」とか「ちょっとできると思って」とか「白々しいのよね」とか。そんなつもりはなくてもそう思われたらもう絶対に無理だ。
ならば何もせず、関わらずにいこうと自分なりにやってきたつもりだった 。
――(そうしたら結果がこれなの?)
藍子はもはやどうでもよくなってきた。
そうまでして仕事をする事に、生活する事に、生きる事に、どれだけの価値があるのか。
――(意味があるの? ……)
何も分からなくなった。
グラグラと左右に揺れる車と、グワングワンとどす黒くうねる頭の中の思考で、藍子は本当に気持ちが悪くなってくる。というか本当に胸の奥から何かが込み上げてきた。
「ううっ……」
口を押えて藍子が突っ伏すと、江口が慌てて声を掛ける。
「えっ⁉ どうしたの⁉ 気分悪い??」
両手で口を押えたまま藍子が「ウンウン」とうなずくと
「大丈夫?? 今車止めるから‼」
江口が慌てて車を道端に寄せて停車する。
藍子は手探りでシートベルトを外すと勢いよくドアを開け、転がるように外に飛び出した。
江口が駆け寄って来て「大丈夫⁉」というのを涙目の片目と手振りで『大丈夫! 近寄ってくれるな! 武士の情けだ‼』と振り払って視界に入ったガードレールの切れ目から、少し下の草むらに飛び込んだ。
もう既に臨界状態だったが江口に生々しいライブ音声をお届けするわけにはいかない。(色々なものが終わってしまいそう)
もう守るものなんて何も無いはずなのに、とも感じながら。
雲の切れ間から差す月の明かりが思いのほか明るく、切り開かれた草むらの先まで照らしている。
――(草の葉が月夜を纏っている…… キレイ……)
幻想的とも思える光景が、藍子をほんの一瞬、このありえない現状全てを以って騙しにきているようだった。
藍子がそのさらに奥へと分け入ると、また一段下がったところに細い道らしきものが見えた。
――(なんとかあそこまで)
やっとの思いでたどり着くと、江口のいるところからは完全に死角になっていて、
――(ここまで来れば大丈夫だよね……)
やれやれとホッとする。
するとなんだか急に気持ちが(ホントに急激に)楽になってきた。
というか込み上げていたものが嘘のように治まってしまった。
思えば、物心がついてから向こう、藍子は嘔吐というものに無縁だったのを思い出す。
腹痛や胃痛の記憶も無いような気がする。
正確に言えば経験がないので「腹痛の感覚が分からない」だと思う。
月の使者の時の下腹部に感じる鈍重感に「これが腹痛かしら?」と思ったりもしたが、たぶん違うような気はしていた。
さっきのお腹の底から込み上げてくる感覚は、ある意味藍子にとって「初めての体験」で、逼迫した状況の中なのに
――(これ吐くやつよね? 私もとうとう吐くんだ!)
と変にワクワクしている自分もいて、我ながら能天気さに呆れてしまう藍子だった。
静けさと、月明かり。とりあえず危機(王子)から離れられた実感が徐々に湧いてくると、本格的に気分が納まってくるのと同時に
――(これ、今なら逃げられるんじゃない?)
という考えが藍子の脳内を席巻し始めた。
“ この状況から逃れられる ”
そう思いたった瞬間、藍子は暗い山道を一目散に駆け出していた。
この道がどこに続いているのかは分からなかったが、あの場所から遠ざかる事だけを目指して闇雲に、気が付けばただひたすらに走っていた。
所々完全な暗闇になっているところもあって、轍や大き目の石に足を取られて転びそうになりながら、とにかくわずかな月明かりで辿れる道を頼りに進む。
ふと藍子の耳に誰かが叫んでいる声が聞こえてきた。
「あい……くー……ん……」
――( ⁉ 探している!)
そう思ったら迫りくる恐怖で居ても立ってもいられなくなって、また更に声と反対方向へ走りだす。
どこをどう進んだのか分からない。途中いくつかの分岐路があったが(とにかく今は下へ)麓の方を目指して進むと、向こうの方に車道らしきものが愛子にも見えた。
月明かりに照らされて、薄っすらと輝くアスファルトが愛子にはなんだか神秘的にも感じられ、フラフラと降り立ち、そしてトボトボと歩き始める。
鼓動は早鐘のように打ち鳴らされているし、噴き出る汗が藍子の目に入って前方の景色をぼやかす。
――(疲れた……)
どれくらい離れただろうか。
ここはどこなのか?まだ自分を探しているのか?追ってくるのか? ……。
藍子の思考思慮は限界に迫っていた。
道は下っているのでここを辿れば麓には降りていけるはずだと考えたが、ただ今は走り続けるほどの体力も気力もないほどヘトヘトだった。
もし江口が車でここに近づいてきたならきっとライトの明かりや車の音で分かるだろう。
――(そうしたらまた山に身を隠してやり過ごせばいい)
それまでは先ずはゆっくりと歩いて行こうと藍子は進み始めた。
しばらく歩いていると、藍子は今更ながらに今のこの状況が怖くなってきた。
――(どうしよう……)
思わず逃げ出してしまったが、これからの事を考えてもいなかった。
――(大騒ぎになるのかな? 王子が警察に連絡とかしたら家にも職場にも……)
職場はともかく、家族にかけるだろう心配が恐ろしい。
――(これは…… とんでもない心配をかけちゃうわよね……)
不安と後悔が、藍子の心の中で止め処もなく沸き起こってくる。
――(これで家族にも見放されたら私……)
得体のしれない恐怖で、スーッと血が下がっていくのを感じる。
とたんにさっきまで溢れ出ていた熱い汗が、急激に体温を奪っていくだけの冷水に代わった気がした。
夜の山中の寒さが魔物のように、これから訪れるであろう現実と一緒に襲いかかってくるようで全身がガクガクと震え始める。
――(寒い……)
夜中に明かりの無い山道を、ただ一人歩いている現実感の無さも相まって
――(全部夢だったらいいのに……)と藍子は真剣に願ってしまう。
しおしおと進んでいると、道の先にぼんやりと白いものが見えた。
――(…… ?)
近付くにつれ、藍子にもそれは車であることが分かる 。
――(車? ……と人?)
更に近付いてみて白い車と、ガードレールの近くに人が立っているのが見えた。
――(こんな時間にこんな場所で何を……)
見た感じ、男性だという事は分かったが、谷側を向いているのでそれ以上の事は分からない。ただ時折何かをあおっているような仕草をしているので
――(何か飲みながら休憩って感じなのかしら?)
と想像する。
――(……この人に事情を話して麓まで送ってもらう?)
そんな考えが浮かんだが、見ず知らずの男性に いきなりこんな事を頼むのも憚られるし、何より
――(怖い……)
ついさっき身の危険を感じて逃げてきたところだ、この人物が安全だという保証はどこにも無い。もっと悪い展開だって十分考えられる。
――(いつだって私……ツイてないし……)
それが不運であるのか必然であるのか、藍子にも分からない。
麓を見ていた男性が不意にキョロキョロと辺りを見回し始めた。
――(⁉ 気が付かれた?)
男性との距離は大体3,40メートルくらいだが、藍子の方は木の陰で完全に暗がりになっていて、自分の足元さえ見えないくらいだから男性の方から藍子を見られるとは思えない。
男性はガードレールの切れ目に目をやると、そこから下の方へ降りて行った。
――(……? 何か見つけたのかしら?)
分からないが、今ならここを通り抜けられるのではないかと藍子は考えて、そろそろと車の方へ近付いていく。
車を横目に通り抜けようとしたところで猛烈な悪寒に襲われて、また思い出したように体がガクガクと震えだす。
――(寒い…… どこか寒さをしのげる場所に……)
そう考えると、さっきまでの車の中の温かさが藍子の頭に浮かんだ。
――(…… こっそり車に乗り込んで、なし崩し的に麓まで運んでもらうとかは? ……)
我ながら大胆というか異常と呼べる思い付きだが、とにかく寒さを凌ぐ為にどこかに身を隠したい気持ちも手伝って、なんだかすごく良いアイディアな気がしてきた。
――(でもそれも、車に鍵がかかってなければの話だけど……)
他にも問題は山積みなはずだが、冷静な判断力は逃げ出した時からとうに失っている。
もし見つかったらその時は開き直って泣いてすがればなんとかなるかもしれない。
――(相手が血の通った人間であってくれれば……)
縋ろうとしているもののか細さに、藍子の気持ちは沈んでいくばかりだった。
――(見たことのない車だけど…… ⁉)
近づいてみて藍子は驚いた。というか愕然としたといっていい。
ドアが片側に一つしかない。
――(前の席しかない? ……)
助手席に乗って気付かれないというのはいくらなんでも無理だ。
窓から中を覗くと一応後にも席はあるようだった(ホッ……)。その後ろは荷室になっているのが分かったが、太い鉄格子みたいなもの(工事関係の人?)が組まれていて、この隙間に身を潜めるのも至難の業っぽい。
――(となると後の席の足元に入り込めば……)
なんだかミッションっぽくなってきて、目的がすり替わっている気もしたが
――(うううッ! でもそんな事よりとにかく寒いッ! もう無理‼)
藍子は勢いでドアのノブにそっと手をかけ、恐る恐る引いてみる。
「ガ……チャ……」
開く気満々の感触がして
――(よし! 開くぞコイツ!)
となんだか既にミッションをクリアしたかのような気になってきた。
室内を改めて見てみると、後ろの座席はあるものの、前側の座席が「デン!」と阻んでいるのでどうやって後ろに乗り込むのか分からない。
――(前の座席の隙間から後ろに行くのかな? でも不便過ぎない? せめて背もたれを倒したりとか……)
そう思って見ると、座席の横にレバーらしきものが付いている。(これかな……)
「ギャッ‼」
引いてみると背もたれが倒れるのと同時に、座席全部が前に飛び出してきて藍子は思わず声を上げてしまった。
――(ヤバい‼ 声出ちゃった!)
バクバクする心臓をなだめつつ
――(……なるほど、これで後ろに行けるのか)
後ろの座席に乗り込めるスペースがぽっかりと空いているのを見て、変に感心する。
後ろに乗り込み、座席の隙間に身を押し込められる空間を確保して、ドアをゆっくりと閉め始める。
――(力持ちの妖精とか飼ってないわよね、さすがに……)
どれだけ車の持ち主の男性が離れているか分からないが、あまり大きな音を立てては気付かれてしまうし、かといって中途半端では閉めきれない。
――(ここは……勝負の分かれ道ね……)
今日だけで一生分くらいの分かれ道があったような気がするが、いつでも差し迫った今現在の問題が最上位だ。
――(南無三!)
想いと願い、気合と度胸、その他諸々を込めて藍子が慎重にドアを引くと
「ガチッ……」
っと無事閉まった感触がした。
ホッと胸を撫で下ろす反面、思いのほか大きい音が響いた気がしてヒヤッともする。
――(大丈夫かな……)
座席の背もたれを元に戻し、後ろの席の足元にうずくまる。埃っぽいフロアにわずかに残る温かさを感じてこの上ない幸福感に浸ってしまう。
――(ああ、温か~い……)
しかしそれも束の間、外から声が聞こえてまた藍子の心臓が早鐘を打つ。
「…… の……」
――(ん? ……なんて?)
「誰かいます……か……」
――( ⁉ )
明らかにさっきの音を聞いて警戒しているに違いない雰囲気。
――(これは…… ダメかな……)
思いの外大きな足音がだんだん近づいてくる。
――(? こんな重量級な感じだったっけ? 男の人って見た目よりずっと体重があるものなのかしら? ……)
これはいよいよ覚悟を決めて出ていくしかないかと思っていると、何やら車の周囲を慎重に歩き回っているような気配がする。
――(何? 周りに何かいるの?)
自分以外には何も(誰も)無かった気がするが、この男性は車の周囲の気配に警戒しているようだと藍子は感じた。
車の周囲を一通り周り切ったかと思うと、突然
「ザッ‼」
と踏みしめる音がして、藍子は心臓が口から飛び出そうになるのを必死にこらえる。
しばらくすると運転席側のドアが開いて男性が乗り込んできた。
――(……)
車内の様子に異変を感じているわけではなさそうで、すぐにエンジンをかけて車を動かし始める。
――(ミ……ミラクゥー! バレてない?)
一先ず第一段階をクリアできたようだが問題はこれからだ。くどいが、最初から全て問題だらけだった事について、藍子はもうこの際目を瞑ることにした。
――(この車はどこに向かっていて、どのタイミングでCOするか……)
そのあたりの問題を考え始めていた。
車が坂を下っているようなので、麓に向かっていることは分かったが、さてどこで切り出したものかと藍子は思案し始める。
災難続き(今日は格別に)でいい加減嫌になってきたので、ある程度市街っぽい雰囲気のところまで来たら
『はい! という事で――!』
と登場してやろうかとも思ったが、男性が驚いて事故でも起こした日には完全に事件になってしまう。
――(ここまで来て自棄はいけない)それだけは踏みと留まろうと藍子は心する。
街中に入れば信号で止まることもあるだろうし、そのタイミングでネタ明かしをすればまだ安全かもという思考に行き着いた。
――(…… よし、その線で行こう)
方向性が定まって気が緩んだのか態勢を少し動かした時、肘の下あたりで
「カサッ……」
と音を立ててしまった。( ⁉ ……)
「……」
――(…… 良かった、気付いていない)
肘のあたりに手をやると、紙切れに触れたのでそっとそれを手の中にしまう。
この態勢で車に乗るのは初めて(そりゃそうだ)なので、普通がどうなのか分からないが、かなり振動が大きくて時々思わず声が漏れそうになる。江口の車に乗っていた時には感じなかったが、走っている道のせいなのか、この車のせいなのか……。
そんな事を藍子が思っていると突然下の方から突き上げるような大きな衝撃があって、藍子は思わず声を漏らしてしまった。
「フグッ‼」
「ふぐ⁉」
――(⁉ ダメだ! 今のは完全にアウトだ! 復唱しちゃってるもの!)
ほんの少しだけ迷ったが、ここはもう観念して正体を明かすしかないと藍子は諦める。
――(とうとうこんなに早くやってしまったか……)
いやむしろここまでバレなかったのが奇跡的だし、男性も事故を起こさなくて良かったと思うべきだと藍子は前向きに捉えることにした。(態勢は横向きで突っ伏した状態だけど)
覚悟を決めてそろりと話しかけてみる。
――(怒るかな、怖いなー……)
「……あの」
「‼ ‼ ‼」
声は無いが明らかな動揺が藍子にも伝わってくる。
それはそうだろう、一人だと思っていた車の中で、突然後ろから声を掛けられたら誰だってそうなるはずだ。
――(一応先ずは謝っておこう……)
「…… すみません」
男性は、更に身を固くしている感じがするが、慌てふためくとか、車を停めるとかいった事はしないようだったのがせめてもの救いだった。
そうなると、この態勢はさすがにしゃべり辛いし失礼かと藍子は考えた。
――(もうどうせバレちゃったんだし座席に座っていいわよね)
藍子は身を起こして座席に座りなおしつつ改めて謝罪を試みる。
「あのすみません…… 勝手に乗り込んでしまってごめんなさい」
相変わらず運転席の男性から返答らしきものは無いが、先程よりはいくらか落ち着いた雰囲気を感じた。
――(状況の整理に一生懸命なのよね、きっと……)
藍子は自分のしでかしたことながら、相手の男性に同情してしまう。
――(いや……、もしかすると私の事を強盗とかと思ってたり?)
自分だったらこの状況で何を考えるか想像してみたが全然想定が思い浮かばない。
何が最も不安か、何が知りたいか…… 。
――(…… そうだ、目的だ)
先ず、なぜこの車に乗り込んでいるのか、何が目的なのかを知りたいだろう。
いきなりここまでの経緯を話すと更に混乱させてしまう気がするし、藍子自身もできればそこまで話したくはない。
――(虫のいい話だけど、とりあえず私の目的、というかお願いを先に聞いてもらおう。害意は無いと思ってもらう為にも……)
「勝手に乗り込んでおいて厚かましいお願いなんですけど、できたら最寄りの駅とかまで乗せて頂くわけには……」
見つかってしまって今更黙ったままではどうしようもないし、開き直りの気持ちも出てきたので勇気を振り絞って話始めてみたが、口に出してみると本当に厚かまし過ぎて、藍子はまた気が滅入ってきた。
物凄く惨めな気持ちになってきて最後の方は声になっていたか分からない。
すると運転していた男性が藍子へ意外な返答を返してきた。
「え? あ…… はい」
――(…… え? …… 伝わった…… の? ……)
どんな反応が来るのか全く予想はつかなかったが、ある意味一番予想外の返事が返ってきたので藍子は驚いてしまった。
冷静になってみると、そんな目的で勝手に乗り込んでいたとわかったなら
『ふざけるな‼』
くらいの反応は当たり前な気がするし、そう言われても仕方がない。それがどういう訳か
『あ、はい』
と、すんなり了承といった感じの返事が返ってくるとは藍子自身でさえ思いもよらなかった。
――(…… もしかして実はタクシーだったり? ……)
なんて失礼極まりない事まで思い浮かべてしまうほどの呆気なさ。
しかしまだこちら(藍子)の素性が分からないからとりあえず波風立てないように取り繕った可能性も考えられる。
――(このまま警察まで行って、突き出される事だって……)
そうなったらそれまでだと諦めるしかない。さっきの状況から抜け出せるのならそれで十分だと。しかし一方で
――(でも……優しそうな声だったな……)
と藍子は思う。
声を聴いた時に、なぜだか(この人は大丈夫な気がする)と思ってしまった。少なくとも暴力や警察に直結するような事はしないのではないかと。
それこそ見ず知らずの人なのに、藍子には不思議と不安より安心感の方が大きい気がした。
「……の」
「あの!」
――(……?)
「……へっ? ……あ、はい!」
――(エッ⁉ 私今寝てた⁉)
我ながら己が神経の図太さに、藍子は呆然としてしまった。
――(私話しかけられたのよね? 寝てたの私? 感付かれちゃったかな……)
「…… 近くの駅っていうとこの先を左に行ったところにあるんだけど、単線ローカルでこの時間だと電車もタクシーもないと思うんだよね。右から国道に入ってJRの駅に向かう? 小一時間ほどかかるけど……」
前方に丁字路を示す青い看板が見えて、男性の言っている意味が理解できた。
「駅まで」と言ったのはそこまで行けば何かしらの交通手段もあろうと思っての事だったのでそれが無いならそこ(近くの駅)に行く意味が無い。
――(でもその為にわざわざ遠回りをしてもらうなんて……)
と考えていると、とんでもない事に今更気が付いた。
――(お金もスマホもないんだった……)
バッグは江口の車に置いてきたままだ。
――(どうしよう……)
藍子がそう思っているうちにも丁字路は近づいてくる。
――(早く返事をしなくちゃ! ……)
「あっと……でもそれでは更にご迷惑になってしまいますし、それに……あっ……」
伝え終わる前に曲がり角が来てしまったが、車は右に進んで行く。
――(……大きな駅まで行ってくれるのかな……)
そう思うとなんだか胸の中が熱くなって藍子は思わず泣き出しそうになる。
「……すみません、ありがとうございます……」
「……」
返事は無いが、曲がり方の丁寧さと穏やかさに、それほど怒っているわけではなさそうだと藍子は感じた。むしろ全て承知してくれているような……。
――(ああ、もういっそ…… でもここまではさすがに……)
少し迷ったが、なぜだか(この人なら……)と思ってしまい勢いが口を割る。
「あの……それと実は……」
つづく




