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4.  It that

<これまでのあらすじ>

 中規模商社の営業職、更科巧さらしなたくみ31歳は、夜の山道をドライブ中こっそり乗り込んでいた女の子を成り行きで街まで送ることになった。

 女の子の名は有本藍子ありもとあいこ、地方銀行に勤める25歳。身に覚えのない周囲からの冷たい視線に耐えながら日々なんとか暮らしていたところ、行内で噂のエリート王子様(江口総一郎)に熱烈なアプローチを受けるようになる。

 のらりくらりと躱してきた藍子だったがとうとう成り行きで江口と食事をする流れになってしまった。


 お断りする良い機会だと気持ちを切り替え臨むのだったが……





        4. It that (いざ!)



「いざ巌流島へ!」の気構えでお店に向かっている藍子であったが、小次郎(江口)の船に乗せてもらって、尚且つ小次郎に櫓をこがせているのだから傍目にはよもや決戦の場へとは映るまい。

また当の小次郎が極めてご機嫌で、歌いださんばかりの上げっぷりだ。

「さあ藍子君! 君も一緒に‼」

と振られたらどうしようと藍子は心配になってくる。

――(店に着いたらいきなりフラッシュモブとかやめてよマジで)

色んな方向から増してくる緊張感に、藍子の決心は既に揺らぎ始めていた。


  少し戻って


 本屋で会計を済ませた藍子は、

「家に連絡を入れておきたいので少し失礼します」

と言いおいて、化粧室に向かうことにした。江口は、

「じゃあ僕も会計を済ませたら車で待ってるから」

と終始満面の笑みでレジに向かう。

 江口が手にしていたのはさっき話題にした文庫本と、ビジネス関係の雑誌が二冊。

藍子にはまったく縁のないカテゴリーの雑誌だが

――(さすがというか、あの手の雑誌って本当に買う人いるんだー)

という小学生みたいな感想が浮かぶだけだった。

ほとほと自分が平民であるという事と純粋なエリート様との根本的違いを、改めて再認識する。

――(うーん、ビジネストークって線も本当にあるか?)

なんて思ったりもしたが、こちらは丸腰なので戦いにならないだろうし、来たら作戦Aパターン「ゲヘヘ」一択だと卑屈に構える藍子だった。


 スマホで妹を呼び出す。

「……あ、すみれ? 私だけど」

「うん、だろうね、表示出てるし、どうしたの?」

――(こいつ…… まぁいい、今は用件を)

「今日私友達と食べて帰るから夕飯いらないってお母さんに伝えといてくれる?」

「はいよー、陽子さん?」

「…… う、うんそう」

「…… え? 男なの?」

「‼ ……」


 妹のすみれは恐ろしいほどに鋭い事を、姉藍子は今更ながら思い出した。

一言二言話しただけで、その話、その人の本質を見抜く非凡な能力を標準搭載しているハイスペックメンタリスト。すみれへの隠し事は未だかって隠せた(ためし)がないし、それは家族の中でも共通認識だった。自分にもこんな才能があれば、もっと違った人生になっていたかもしれないと思ったりするが、無いものはしょうがないと藍子は空しい気持ちを込めて諦めていた。

――(最初から私の仕様にないんだもの……)

 さりとて今のはうっかり言い淀んでしまった自分の明らかなミス。すみれでなくとも想定できそうな話だと藍子は迂闊な自分の言動を後悔する。

「…… んーあの、銀行の上司なんだけどね」

下手に誤魔化すより正直に言った方が得策と判断した。

――(どうせ私の芝居なんて通用しない)

「ふーん、飲み会じゃなく食事ってことは一対一で?」

「うーんと、そう…… かな」

――(あ、これヤバいぞ)

「なんかビジネス関係の話とか何とかって…… ほら、うちの業務的に」

「へー、ちなみになんてお店なの?」

――(お? 凌げたか?)

「何だったかな、デース? デエス? とか?」

「Dèesse? え⁉ ハイクラスのフランス料理店じゃん! 確か二年くらい前に開店したとこだよね? すごい人気で予約もなかなか取れないっていう」

「……え、そうなの?」


――(ちょっと待って、フランス? ハイクラス? 今日私確か五千円くらいしか持ってないわよ? ナナ〇カードって使えるのかな……)

 クレジットカードは外で使う機会が皆無なのと、紛失や盗難が怖くて持ち歩かないようにしていたのが更に事態を拗らせる。(銀行職員としてどうよって話だけども)

急に自分の言った「割り勘で」の言葉が重くのしかかってきた。そもそも週末の社会人の財布の中が五千円ってどうなの?と思う一方で、

――(いやいや、帰りがけに本屋に寄ったら高級フランス料理店に行くことになる未来なんて想定できないわよ! 社会人たる者、常に数万円入れとけってか? あ⁉)


 憤りとも逆ギレともつかない感情に藍子が一人でとっちらかっていると、すみれが話を切り上げてくる。

「いいや、うん分かった。お母さんには言っとく、じゃーねー(プツッ)」

「……」

 何が分かったのか分からないのがちょっと怖いが、一先ずこれで自分が遅くなることは連絡できたと藍子は少しホッとする。

 母に直接連絡しても良かったが、最近藍子の様子がおかしいのを薄々感じているような節があって、やたらと声をかけてくる。

「職場でドジばっかりやってないでしょうね?」やら、「顔色悪いわよ? 素がそれなりなんだからしっかり寝てせめて健康には気を使いなさい!」等々。

 冗談めかしながらも自分を心配してくれていることが伝わってくるので、藍子としては更に余計な心配事は増やしたくないと思っていた。

――(…… ってあれ? 単にディスられてるだけなのもしかして?)

思い返していたら、なんとなくそんな気もしてきたのだが。


――(それにしても……)

高級フレンチレストランと知って、更なる問題に気が付く。

――(この格好はどうなの?)


 藍子が化粧室の鏡の前で新たな危機に直面している状況。

所持金もさることながら、服装だって日頃からフォーマルな恰好なんて当然していない。というかした事の覚えがない。

 バスで通勤して仕事中は制服だし、帰りにショップへお買い物や、オシャレなカフェに寄ったり、ましてや彼氏とデートなんてのとは甚だ縁がない。なので社会人としてのNGラインに抵触しないあたりの格好(コーディネート?)が藍子の常となっている。

――(ちょっと子供過ぎない?)とは自分でも薄々思っていたが、おフランスレストランへの入店という事を踏まえて改めて現実を直視すると

――(これはあまりにあまりな……)

 鏡に映る自分の姿を、藍子は情けない気持ちで眺めていた。


――(やっぱりドレスコードとかあるわよね?)

 成人してから間もない頃、藍子の両親が「社会勉強」と称してほんの少し高級なレストランへ連れて行ってくれたことがあるが、その時でさえ一応ピンクの少し控えめなフリルを施したワンピース(十分子供っぽいけれど)を着ていったのを藍子は思い出す。あのレベルでああだとすると、

――(高級おフランスならどうなるの? ディナーだとイブニングドレスみたいな? 肩から二の腕のところだけ生地がスケスケだったりするあれか? うーん……)

 海外のニュースで見た何かの授賞式とかのレッドカーペットを想像する。

――(さあ、それを踏まえてこちらである。改めて鏡の自分を見てみよう……)

 水色のパーカーにベージュのパンツ、荷物がたくさん入るし丈夫だからと肩から下げてる帆布生地のトートバッグ……。

――(全て間違っている!)

目も当てられないとはこの事だ。


――(う……うん、けどあれだ、ダメならダメで大いに結構じゃない)

『ではしょうがないですよね』と退散する口実ができるというものだ。それにさっき妹も言っていたように、なかなか予約も取れないとすると、週末の夜に飛び込みで入れるとは到底思えないと藍子はふんだ。

「今日はお流れが濃厚ね、本当に残念ですコト。オホホホホホ」(…… スン)

 悪役令嬢っぽくポーズしてみたが面白くもなんともないので素に戻り、藍子は化粧室を出る。


 食事会がなくなるなら、それに越したことはない。むしろ気が楽になって、さっきまで

の絶望が嘘のよう晴れわたってくるのを感じる。

――(最終決戦? なにそれ? どこかに行ってろバーカ!)


 なんてイキがっていた頃が藍子にもあったと思う。



 

 藍子は車の中ではドレスコードなんて話には一切触れずにいた。もしそんな事を気にしているような素振りを見せようものなら

「なるほど、じゃあ店に行く前にドレスでも見繕いに行こうか」

などと言い出しかねない。(この王子なら十分あり得る)

 小さな公園脇の有料駐車場に車を停めると、江口がまたしてもさっとドアを開けてくれるのでもうどうにでもしてと藍子は車を降りる。


「すぐそこなんだけど」

にこやかに江口が藍子の前を歩き始めると

――(え? これってエスコートってやつなの?)

と嫌な単語が藍子の頭に浮かぶ。さっきのレッドカーペットを引きずっているようだ。

――(この状況ってそんな感じのやつなのよね? まさか脇を開けて腕組みを促してきたりしないわよね? 止めてよ、私とじゃアルゴリズム体操みたいになるのが落ちよ!)

 藍子が一人で変な妄想と戦っている間に気が付けば店の前まで来てしまった。

――(よ、よし。さあ! 入店をキッパリと断ればいいわ! 門番さん)

心の中で藍子は気持ちを奮い立たせる。

――(いえ、断ってください、お願いします、どうかひとつ……)



 真っ白な壁の中央に小さめの入り口があって、その横に控えめなゴシック書体でDèesseと彫り込まれている。

――(ああ、ラテン文字なのね、おフランスだわ)

なんて事を思いながら、潔く断頭台へ歩みを進める藍子に江口が至極優しく

「ここはドレスコードとかあまりうるさくない軽い感じのレストランらしいから、気楽にしてね」

と言い放つ。

――(なるほど…… 断頭台の手前で翼を折りに来たか、やるな。だがこれしき想定内、私にはもう片方の翼(予約無)があるのよ)

 エスコートされてビクつきながら店に入ると、江口がウェイターに声をかける。

「予約した江口だけど」

――(なん……だと⁉ ……)

「お待ちしておりました、こちらへどうぞ」

呆気なく心の両翼をへし折られ、満身創痍で藍子は江口の後についていった。


 入り口に比べ店内は割と奥行きがあって、外観の印象とは裏腹にゆったりとした広さを感じさせる。

豪奢ながらそれでいて品を保ったシャンデリアが二灯吊るされているが、とにかく天井が高くて圧迫感を感じさせない。

 テーブルは六つほどあり、それぞれが余裕を持って配置されていて、なんとも贅沢な空間の使い方だなと藍子は感心しきりだった。と同時に、このテーブル数で人気では予約なんてそうそう取れないだろうとも合点がいった。

――(それにしても今日のさっきでどうやって予約取れたの? たぶん私が本屋の化粧室に行った時だろうけど……)


 お客は三組ほどが座っていて、藍子達をじろじろ見ることはしないが、五感を使って窺っている気配は藍子にもビシビシと伝わってくる。女性の方々は王子(江口)を気にしているのかもしれない。

――(その後ろをオドオドと付き従っている私は、さながら貴族様に連れられた見すぼらしい使用人って感じよね……)

 他三つのテーブルにはリザーブの意味と思われるブーケ(おっしゃれー)が置いてある。

――(あの内の一つなのかしら? できれば隅っこのがいいなぁ)

などと藍子が思っていると、先導するウェイターがどんどん店の奥に進んでいく。

――(厨房? んなわけないか、じゃあ賄い部屋とか?)

 さすがに店内の予約は取れなくて、『とにかく食事ができれば』と、従業員用のスペースを借りた可能性を藍子は想像する。

――(ならいっそそちらの方が気楽でありがたいけど)

 奥の通路に入る前に、ウェイターが「お荷物と上着をお預かりします」と藍子に向いて言うので「あ、はい……」と答えてばたばたとパーカーを脱いでトートバッグと共に渡そうとした。

「中に貴重品はございますか?」と聞かれ、財布とスマホが入っているのを思い出す。

「金庫にしまうから大丈夫だけど不安なら持っておく?」

江口が優しい表情で藍子を見ながら言う。

――(ひぇー、お客用の金庫があるの? この手のお店だと普通なのかしら? 財布はいいか、所詮中身は五千円……)

「ではスマホだけ……」

 特に誰から連絡が来るわけではないが、手持無沙汰の慰めにはなるかもと手に取る。

――(食事中にスマホを見れる雰囲気では到底なさそうだけど……)

 藍子から恭しくバッグを受け取ったウェイターは横の女性スタッフにすっとそれを渡して「では」とさらに先へと進む。

――(そんな大層なものじゃありませんのでその辺に捨ておいて頂ければもう)

全てが申し訳なくて藍子は土下座してしまいそうになった。


 通路の先を曲がり、目の前にあるドアを開いて、

「どうぞこちらです」

と促された扉の上のプレートには【Privè】と記してある。

――(プリべ? 何?)

 全く状況を呑み込めない藍子は促されるまま進み室内を覗くと、さっきの店内とはレベルが全く違う、まさに絵に描いたような格式高い光景が目に飛び込んできて立ち竦んでしまった。

 細長い部屋の中央に細長いテーブルが置かれていて、皿やカトラリー、グラスが整然と並んでいる。

 三つほど置かれたテーブルフラワーの中央には燭台があって蠟燭に灯が灯っており、最小限に抑えた照明と相まって神秘的な雰囲気を演出していた。

 部屋の四隅にはアンティークっぽい調度品が品良く飾られており、壁にかかった油絵(なんだか良く分からないけど)はそこそこのサイズだが色合いが落ち着いていて、部屋に閉塞感を与えないよう配慮されているようだった。

 床は短い毛足の絨毯張りで、一歩部屋に入るとふわふわとした感覚が雲の上に降り立ったような錯覚を覚えさせる。

――(あ、【Privè】ってプライベートだ、いわゆるVIPルーム……)

このふわふわした感じは絨毯のせいだけではない、恐らく眩暈が主成分だろうと藍子は思う。


――(賄い部屋が良かったなー……)

ことごとく希望が打ち砕かれて、藍子の気持ちは増々疲弊していくようだった。

――(ダウングレードってきかないかしら……)



 もうここまで来たらジタバタしてもしょうがないので「受けて立つ」と決めたが、差し当たり、目の前のテーブルのどこに座ればいいのか藍子には皆目見当がつかない。

――(どこに座るのが正解? 映画とかで見た感じだと王様は奥の短い辺の方に座るから私は対面の短い方に座るのかしら? 声とか届くのかな?)

 もうずっと今日は“ ? ”ばっかりだ、頭の中でウィキペディアに接続できればいいのにと藍子は真剣に思い始めた。


 江口が奥の短辺に向かって進むので(やっぱりそうか)と藍子は入り口側の短辺あたりを目指して恐る恐る進む。すると長辺側の端から二つ目の席に立った江口がスッと手を前に出し、

「こちらへどうぞ」

と笑顔を浮かべて向かいの席を藍子へ勧めてくる。

――(え、そこなの?)

 予想外の場所に戸惑いながらそちらに向かうと、ウェイターが椅子を引いてくれる。藍子がテーブルの前まで来ても江口は立ったままで藍子を見ていて着席する気配がない。最初から部屋にいたウェイター(給仕さん?)も江口の後ろで椅子に手をかけたまま動く様子がない。

――(え? え? どゆ事?)

 藍子が更に戸惑っていると、江口がもう一度「どうぞ」と促すので「いいから座れ」という意味と解釈して腰を落とし始めると絶妙な間で椅子が藍子のお尻の下に収まる。

――(すっごーい! これがプロの技か! 語彙力ゼロてすみませんが)

藍子が着席するのを見て江口がストッとスマートに座る。

――(え? 私が座るまで待ってたの? ……あ、これって……)

 ふと藍子は以前テレビで見た古い外国映画を思い出した。

――(…… あれかー! そんなの知らないよー。日常生活にないんだもんこんなの)

なんだか現実味がなさ過ぎて、気持ち悪くなってきた気がする。


 席に着くと、ウェイターが奥にあったワゴンに藍子達の前にあるもの以外のお皿やグラスを手早く下げ始めた。

――(何々、下げちゃうの? まぁあっても使わないから良いんだけど、だったら最初から置いとかなきゃいいのに、ゴージャス感演出とか?)

「せっかくだしどうせなら真ん中に座っても良かったんだけどギャルソンが大変になっちゃうからね」

と江口が小声で藍子に囁いてくる。

――(ああ……)

『どこでもどうぞ』と並べてあったのだと藍子にも理解がいった。席が決まったので撤収と。

――(なるほどねー)

 あと、

――(今ギャルソンって言った? ウェイターじゃないの?)

 フランスレストランだとスタッフの呼称も違うと知って、危うく『ウェイターさん』と言わなくて良かったと藍子はドキドキしてしまう。

今日は勉強になる事ばかりだと、心ならずも楽しくなってきたが

――(今後活用する機会はないだろうけどね)

とも思う。

――(でもギャルソンが大変とはなんだ?……あ、料理出したりする時にあっちとこっちで行き来が大変って事かぁ、なんだ割と気が利くじゃない王子)

「中ほどの席でも構いませんが?」

ギャルソンがお皿とグラスを手に江口を見て言ってくる。

「いや、大丈夫だよここで」

江口が藍子の方を向いて『聞かれちゃった、テヘ』見たいな顔で舌を出す。

――(こりゃ子猫ちゃん達はイチコロだわね)

「恐れ入ります」

ギャルソンが一礼した後、ワゴンを押して扉の方へ向かうのを目で追っていると、こちらの壁にも絵が飾ってあるのに藍子は気が付いた。

――(後ろのより小ぶりね)

 描かれているのはりんごとオレンジがいくつかの静物画。藍子の記憶の中で、これは以前何かで見たことがある気がする。

――(私が知っているくらいだから有名な絵なのよね。だけど…… あれ?)


 ワゴン隊が部屋を出るのと入れ違いにスーツ姿の初老紳士が愛子達の前に登場してきた。

 年齢的には六十台半ば(後半?)といったところか。佇まいが(あくた)の苦労と成功を織り交ぜたような、威風堂々とした風格を醸し出している。

――(まあ♡ ジェントルメンの完成形だわ)


「本日はお越し頂きありがとうございます。スタッフ一同心よりお待ちしておりました」

 良く通る声でかくもスタイリッシュな会釈があろうかという挨拶を藍子と江口に放ってきた。

 会釈というほど軽くはないが、お辞儀というほど畏まったというか(へりくだ)った感じもしない。実にスマートな所作で思わず藍子も見とれてしまうほどだ。

「柳さん、すみませんね、突然無理を言って。ご迷惑ではなかったですか?」

――(当日予約とか迷惑でしょ、普通。そうでなくても取れないらしいのに)

「いえいえ、偶々こちらが空いておりましたので。こちらこそ江口様をお招き出来て幸いでした」

――(本当ですか? 言う時はちゃんと言っておいた方が良いですよ柳さん…… って、え? 知り合いなの?)

二人の会話の違和感に気が付いた辺りで、

「おやおや!」

『さあ、次はお前の番だ』と言わんばかりに柳が藍子に顔を向けてくる。


 眼差しは優しいが、一瞬にして全てを見透かすような視線に、思わず藍子の体が強張る。

――(なに? 使用人がなぜここに座っているのかと思ったのかな? そこは認めます、場違いな小娘ですよねぇ、なんかすみません)

どういう顔をしていいものやら見当もつかず、藍子が頬を引きつらせていると、

「これはまた!」

先程とは打って変わって破顔した好々爺みたいになってのたまう。

「随分と当店の名にふさわしいお嬢様をお連れでいらっしゃいますな!」

――(はあ?)

「はは、ありがとう、僕も信じられないくらいなんです」

江口が嬉しそうに答えてから、藍子へ告げる。

「 “Dèesse ”っていうのはフランス語で“女神 ”っていう意味なんだよ」

「…… はぁ?」


――(はあああ??)だ。

 どこの世界線にパーカーを着て、トートバックを肩にぶら下げた貧相な女神がいるのか?そんな女神様がいたら顔が見てみたいものだ。と考えたところで藍子は

――(…… ああ、見たな、今日本屋のトイレで……)と思いだした。

――(結構その辺プラプラしてるのかな? 野生の野良女神)

 

「ああこれは失礼しました、この店のオーナーの柳と申します。江口様のご家族様にはいつも大変ご贔屓にして頂いておりまして、是非女神様にも今後ともご愛顧を賜りたく存じます」

すっと胸に手を当てて軽く会釈をする。

――(あの……まだそれ(女神ネタ))引っ張るんですか?)

さすがに藍子もだんだんウンザリしてきたが、振舞いのエレガントさに圧倒されてしまってもいた。

――(こういう時って私も名乗るべきなのかな?)戸惑っていると江口が

「柳さんは都内にも店をお持ちでね、そちらには何度かお世話になってたんだ」

と話を繋げてくれた。(ていうか常連ですかオイ)

「お勤め先がこちらの近くとの事でしたから、いつお越しになって頂けるかと首を長くしてお待ちしていたのですが、いやはや。このような素敵なお嬢様をお連れになって頂けるとは」

――(すみません、ただの野良デエス)

  藍子は完全にこのカラクリが紐解けた。

――(オーナーに直接連絡したのか! カーッそりゃ反則でしょ!)

上流階級の荒業に、全く納得はいかないが今は屈するしかない。


「なかなか一人で来て良いところじゃないですしね、それに来るなら特別な女性をと思っていましたし」

「なるほど、今日はその記念の日という事ですな、これはまさに光栄の至り、最善をお約束します。お話しですとジビエ料理をとの事でしたが他にご要望等ございますか?」

かくもエレガントに江口と藍子の顔を窺ってくる。

「藍子さん、ジビエ以外に食べたい物ってあるかな? 後、食べられない物とかアレルギーとかは?」

――(は? 何自然に下の名前で呼んでんの??)

 色々ツッコみたい藍子だったが、今は質問への答えだと我に返った。

ただ、「他に」と言われてもメニューも無いので正直困惑してしまう。

――(壁に書いてあったり? ……ないない)

視線が壁に行きそうになるのを何とか堪え、観念して答える。

「あの本当にシカだけで……」

江口と柳が、ポカンとした顔で藍子を見る。


――(シカ? 私シカって言った?? おフランスレストランでシカって何よ⁉)

藍子は自分の発言に気を失いそうになった。

――(熊? ……熊なの私? 肉食系(女子)通り越して猛獣じゃない!)

「プッ……」

「⁉ 」(王子貴様!)キッっと藍子が江口を睨む。

「ごめん、そうだシカだ、僕もそれが食べたくて来たんだもんね。まずはそれだ、うん」

江口は笑いを必死に飲み込んでいる。

――(くっ! ここで斬首に来たか!)

墓穴は藍子自身で掘ったわけだが。

「では柳さん、シカをしっかり味わいたいからコースはフルでなくてヴィアンド主体の構成でお任せできますか?」

「なるほどシカをシッカりですな、承知いたしました(ニコッ)」

――(全然面白くない‼ 柳さん! ジェントルメンからただのオヤジに降格ですよ)

「ハハハ」

――(王子、あなたもね)

「それにしても本当にツイておいでですね、本日ちょうど最高の熟成具合のシカ肉がございますのでご期待に添えるものがお出しできるかと」

「やあ、それは楽しみだ、今日彼女と食事ができるのも偶然だったし、本当にこれは女神様の思し召しかな? ハハハ」

――(はいはい、持っていらっしゃる方は全てがトントン拍子に進みますよね、それ全部私の裏目で成り立ってますからね、言っときますけど)

「はは……」


 苦し紛れの苦笑いで目を泳がせていると、オーナーの後ろに飾ってあるさっきの絵が目に入って、藍子はついまた見入ってしまう。

「……」

「? …… こちらの絵が気になりますか?」

 柳が藍子の視線の先を振り返った後、藍子の方に向き直って聞いてくる。江口が

「果物ならデセールで出てくると思うけど特に食べたいフルーツとかあるならお願いしようか?」

藍子の視線をそう理解したらしい。

――(私の事ただの食いしん坊キャラと思ってるでしょ? 否定はできませんけど……)

――(それとさっきからヴィアンドとかデセールって何ですか? そこから既に分からんのですけども!)

 イライラしてきたのもあって、思わず言い返しが口をつく

「いえあの……そうではなくてですね……」

「?」

「?」


 江口と柳が「ではなんぞ?」と迫ってくる(ように感じる)のでここで変に口籠るのも失礼かと思い、藍子は勇気を出して話してみる事にした。

「あの…… 以前に私も何かで見たことがあるので大変有名な絵画なんだと思うんですけど、その時の絵ではお皿のオレンジは見えてるだけで五つだったような気が……」

江口がもう一度絵の方を見る。

「これは……四つだね」

柳はずっと藍子の方を見たままだ。

――(あ、まずい事言っちゃったのかな? どうしよう……)


「あ、あの私全然美術とか芸術とかに詳しくなくて本当に無教養なものですから、もしかするとこの絵ってたくさん種類があるのかなと……」

それを聞いた柳が突然笑いだした。

「ハッハッハッハッハッ!」

「 ‼ 」

――(地雷だった? 闇組織のボスが正体を暴かれた時のやつよねこれ? 始末されるの私?)

江口も不思議な顔でボス(柳)を見ている。

――(よし、コイツは組織の人間じゃなさそうね、いざとなったら囮になってもらって……)


 藍子が酷い事を考えていると、柳が目尻を抑えつつ嬉しそうな顔で言う。

「ハハハ……いや失礼、恐れ入りました」

「?」


「これはポール・セザンヌの“りんごとオレンジ ”……という絵の模写です」

――(モシャ? 模写か)

「まぁレプリカですね、本物はパリの美術館に所蔵されていて売買の対象になっていませんから。

対象だったとしてもとても手の出せる値段ではありませんが」

――(でしょうねぇ)

「とはいえこちらもコピーというわけではなくて、ちゃんと絵の具で描かれた『模写として』ですがある意味本物です」

――(ええ、きっとお高いんでしょう? 分かります)さっぱりだが。

突然絵画講義が始まってしまったようだが、神妙に進められる話に藍子と江口は聞き入っていた。


「絵画の模写を専門とする画家は、とりわけ有名絵画のとなるとそれこそ世界中に数多くいます。完成度や質、作風自体も多種多様です」

――(まー上手い人もいればそうでない人もいるわよね。でも作風って? 元の絵通りじゃなくて?)

「原作と寸分違わず精密に模写する画家もいれば、原作から離れてオリジナルの作風に描き上げる画家もいます。そういった中で、この模写の画家は『オレンジを一つ減らしてみる』という試みをしてみたのです」

――(へー、そういうのアリなんだ……)

「周りの構図や配色・絵の具、筆のタッチまで忠実に再現して、オレンジの数だけ一つ減らす。ただ減らすだけではなくて、違和感のないように置かれ方を少し変えて描かれていますのでこの絵を見ただけでは絵画に目が肥えている方でもなかなか気付きません。原作と並べれば明白ですが」

「……」

「私も最初は気が付きませんでしたが、本物(もちろん画像ですが)と比べると確かに違う。ですがそこで改めて原作の凄さを痛感したのです。」

一呼吸置くと藍子と江口に、まさに大学の講義のように続ける。


「一見適当に置かれた果物のように見えて、実に完成された位置と数。個々の存在感が作品全体のまとまりとして表現されていると感じ入ったのです」

 壁の絵の向こうの、本物のそれを見ているような顔。

「置く場所が少し違っても、数が一つ多くても少なくても、原作の作品としての完成度には至らないと」

――(あ……)

 なんとなくだが藍子にも分かるような気がした。この部屋でこの絵を見た時の僅かに感じた違和感はオレンジの数だけではなかったのかもしれない。

「必要なもの、存在すべきものがそこにある美しさ。真理と言ってはいささか言葉が過ぎるかもしれませんが、私にはそう感じたのです。更に言えば人の在りようもそういう事なのではないかと気付かせてくれた。

そうして私はこの絵が大変気に入ってしまって、ついつい店に飾ってしまったという次第なのです」

――(なるほど、この絵はそういう……)

 話の途中から、柳の藍子を見る目がちょっと変わった気がする。江口もさっきから藍子を見ている。

――(ん? 何? やっぱやんのか?)

「いやはや、長々と語ってしまいまして面目ありません。この絵の秘密をお気付きになる方がいらっしゃって嬉しさのあまりついはしゃいでしまいました。なにとぞお許しください」

優しい顔で微笑んでくる。

「いえ、そんな……」

――(すみません、りんごとオレンジが印象にあっただけなんです……)

「ちなみにこの絵にお気付きになったのはお嬢様を含めお二人だけですよ」

「はあ……」

絵画に造詣が深い人達が来そうなお店だろうし、もっと気が付く人がいるかと思ったが、意外とそうでもないのかと藍子は不思議な気もした。

――(まぁお料理を楽しむところだものね、身の置き場がなくて周りの粗探ししかできない人とかそうそうこんなお店に来ないか……)

「都内の店に置いてある時に幸三様に」

柳が江口の方へ静かに語りかける。

「ああ……」

江口が久しぶりに声を発するが、少し気の抜けたような感じだ。

不思議そうな顔で見ている藍子に、

「僕の祖父でね……」

とやや困ったような顔で教えてくれる。

「そう……なんですか」


 意外な人物登場で藍子はちょっと面食らってしまったが、噂の御大(頭取)様と同じところに気が付いたというのは果たして光栄な事なのかどうかが分からない。なのでどういうリアクションが正しいのかも。

――(ただ……)

『都内の店に置いてあった時』と言ったが、今ここに飾ってあるのはなぜなのか。

――(その時に何かあったのかしら? 『紛い物を置くとはけしからん!』みたいな……)

そんな事を考えていたら、(妄想の)偏屈な頑固ジジイに藍子は腹が立ってきて

「あの……でも私、この絵は好きです。これもまたすごく素敵だと思います……」

と流れ的に全く脈絡のない事を言ってしまった。

――(あ……また変な小娘だって思われてるわよね……)

 居たたまれず俯こうとした藍子に、柳が満面のジェントルスマイルで答える。

「ありがとうございます。幸三様にも同じように仰って頂きました」

――(……あれ? 仰ったんですか。そうなんですか)

「お、恐れ入り……」気の利いた言葉を返そうとしたが出てこない。

――(くっ! 世界中のみんなー! 少しだけ私に語彙力を分けてチョーだい‼ イヤイヤイヤ、鬼子母神様はお呼びしてませんって!)

諦めた。


「……ましてございます……」

――(国語ちゃんと勉強しとくんだったなぁ)

かくも見事な撃沈だった。



 ディナーの出来事については藍子的にあまり思い出すことはない。

――(少なくとも私の知っている晩ごはんではなかった)

 ギャルソンが配膳の度に「こちらは“fhんp△いh☆ぴw ”になります」って説明してくれていたような気がするが、何一つ記憶に残っていない。(ごめんなさいぃ)

 料理の名前も、どういった調理方法なのかも良く分からなかったが、どれも素晴らしく美味しかった(本当に)のだけは覚えている。

『世の中にはこんなに美味しいものがあるのね!』

この世の更なる可能性を感じられたのは、貴重な経験だったと思う。


 メインのシカ肉も本当に素晴らしいものだった。

 牛に比べると淡白な印象の味だが、熟成の効果なのか、何とも奥ゆかしい芳醇な余韻が飲み込んだ後でも押し寄せてくる。控えめに添えられたソースがまた絶品で、シンプルながら見事に肉の旨味を引き立てていて、なんにでも中濃ソースをかけて満足している藍子としてはまさに「目から鱗」の体験だった。

 強いて不満があったとすれば、共に出されたのはご飯でなくパンだった事くらいか。


 軽くベイクされたバケットや、柔らそうなものまで三種類くらい出てきたが

――(最初に出てくるってどうなのよ?)

って話だった。

 微かな知識として、コース料理とはそういうものだと分かってはいたが日本人、というか藍子には未だに納得出来かねる常識だ。

――(せめてお肉と食べたいでしょ!)

特にこのシカ肉とソースなら、ご飯と食べたらさぞ極楽であったろうといつまでも悔いが残る気がする。パンだとしてもフランスパン三切れ程度では到底足りない、藍子的には三本はいける自信があった。

 というわけで、美味しかったが全てにおいて満足できたわけではない。

――(フム、今日のところは引き分けって事にしておいてあげるわ)

そう考え至ったあたりで、本日最大の問題を藍子は思い出した。

――(清算どうしよう……)

最初から敗戦確定の戦いであった。




                            つづく


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