11. Cagey me
<これまでのあらすじ>
中規模商社の営業職、更科巧31歳は、夜の山道をドライブ中こっそり乗り込んでいた女の子を成り行きで街まで送ることになった。
女の子の名は有本藍子、地方銀行に勤める25歳。身に覚えのない周囲からの冷たい視線に耐えながら日々なんとか暮らしていたところ、行内で噂のエリート王子様(江口総一郎)に熱烈なアプローチを受けるようになる。
なぜか江口と食事をする事になった藍子だが、帰りがけ、山奥に連れてこられ恐怖を感じてしまい逃げ出したところ、偶々たくみの車を見つけ潜り込むことにした。
どうにか街まで送ってもらった藍子だが、家に帰る気にもなれず駅前のネットカフェで一夜を過ごす。
翌日、これからどうしようかと思案していると、昨日の車の男性の事を思い出して一か八かでその人に頼ってみる事を決意する。
藍子を匿うことを決めた更科巧だったが、これからどうしたものか困惑し、同僚の新道と先輩の美咲に
相談することにした。
流れで藍子は美咲さんに引き取られることになり、翌日藍子を送り出したたくみはなぜか藍子の母梗子から呼び出され、言伝を託された。
美咲に引き取られた藍子の元へ、藍子の母梗子からの言伝を託されたたくみが現れる。
家族や同僚の陽子の思い、そしてたくみと美咲に背中を押された藍子は次(未来)への一歩を踏み出そうと……
11. Cagey me (けじめ)
藍子は美咲のマンション近くの駅から、高橋(課長)と待ち合わせをしている大森駅へ向かっている。
昨日お風呂に入った後、バタバタと辞表届を書き綴ったので寝たのは結局明け方近くになっていた。
「そんなの表に『辞表』って書いた茶封筒だけで十分よ。中身なんて意味ないんだから」
と美咲が言う。
実際そうかもしれないが、藍子としてはお世話になったし今回の事で多大な迷惑をかけた事を考えると一応最後くらいけじめとしてしっかり伝えておこうと、ネットで文例を検索しつつなんとか仕上げた。
気持ちがブレないうちに動いた方が良いと心に決めて、翌日月曜日の午前中に高橋に電話を掛けてみる事にした。
本来藍子直属の上司にあたる佐々木(係長)に先ずは話すべきかと思ったが、もう心は決まっているのだしと直接高橋に話をしようと考えた。(すみません、係長……)
緊急時の連絡用として係長と課長の個人携帯の番号は所属職員全員が登録してあるが、初めて使うのがこれになるとは藍子自身でも思わなかった。
「あ…… あの……」
「はい、高橋ですが(ちょっと待って……)……」
途中から急に小声になる。
――(? ……)
「…… ごめん、ちょっとデスクから離れた。有本君だよね?」
――(ああ、そういう……)
自分からの連絡だと周囲に悟らせないよう場所を移したのだと藍子は察した。
「はい…… あの、この度は大変ご迷惑を……」
「いや、うん、それは大丈夫なんだけど君は今は……」
「…… あの、自宅にはまだおりませんで、その……」
「かなり離れたところに?」
「あ、いえ、隣の市とかその辺りなんですが……」
藍子はなんとなく詳しい所在を告げるのが憚られた。
――(隠れているわけではないんだけど……)
「じゃあ、君さえよければ会って話せないかな? ここじゃ何だから…… 大森駅の向かいのファミレスとか、あ、今日でも良い?」
意外な反応と申し出だが、藍子としてもありがたいことだ。
「あ、はい、大丈夫です。私も改めてお話ししたいことがありまして……」
「…… うん、詳しくはその時に、午後3時ぐらいでも良いかな?」
随分性急な気もするが、早いに越したことはない。
「はい、お忙しいところ申し訳ありません」
「じゃあまたあとで」
「よろしくお願いいたします」
そう言って電話は終わった。予想以上にスムーズに話が進んだので藍子はほっと胸を撫でおろす。
――(善は急げ、思い立ったが吉日よね)
善なのか吉日になるのかはまだ分からないが、とにかく踏み出せた事は大きな成果だと信じて進むしかないと藍子は思った。
午後2時過ぎのファミレスは、駅前とはいえ閑散としていて、ガヤついた雰囲気では話がし辛いのではと危惧していた藍子としては少しだけ心配が和らいだ。
遅れるよりは良いだろうと約束の40分前に着いてしまったが、バッグを開いて封筒が入っているのを確認する作業をもう数えきれないほど繰り返し続けている。
3時間際に高橋が店に入ってくるのが見えて、藍子が奥に座っているのを見つけると真っ直ぐに藍子の方へ歩いてくる。
藍子は先ずは謝罪をと席を立って
「あ、あの……」
と頭を下げようとしたところで、被せるように高橋の方から
「申し訳ない」
と謝ってきた。
「…… ?」
藍子は完全に出鼻をくじかれてしまって、どういう状況かが掴めないでいたが、それでもこちらの謝罪をと言葉を続ける。
「…… いえ、あのこの度は大変お騒がせしてしまい、申し訳ございませんでした」
これで謝罪になっているのか分からないが、藍子としては気持ちだけは反省している感を、これでもかと注ぎ込んだつもりだった。
「うん…… まぁ大騒ぎだったのは事実だが、君が一番大変だっただろう。元気そうで何よりだ、あと改めて、申し訳なかった」
高橋がまた頭を下げてくる。
「あの……」
「先週日向君が私のところに来て、君についての事を色々話してくれた」
「陽子が……」
陽子との電話が藍子の頭に浮かぶ。
「君の…… というか君の周囲の状況についてはあまり良くないのは私も佐々木君から聞いていたが、日向君からの話を聞いて、もっと深刻なものだったと改めて思い知らされた」
――(佐々木係長から……)
「君の事は佐々木君とも『楽しみな子が入ってきた』と度々話をしていたんだが、いつの間にか君が随分表立たないように仕事をするようになって、最近では表情もどことなく……」
はっきりとは言わないが、さぞ陰鬱な様子に映っていたのだろうと藍子は察する。
「何かあったのかと思ったし、どうも周囲とあまりうまくいっていないようにも見えて、どうしたものかと考えてはいたんだ」
初めから想像もしていなかった言葉と展開に藍子は戸惑いつつ、なんとなく自分の状況を憂いていてくれたことに心からありがたさが込み上げてくる。
――(そんなに気にして頂いてたなんて……)
「そして江口君だが、彼は他部署だし、当然私や佐々木君以上に君の状況を知らない。後でその事を話した時はかなり悲壮な顔をしていたよ」
「……」
「ただ彼は純粋に君を好いていたようだし、悪意あっての事ではないのでそこは誤解しないであげて欲しい。些かその、表現が大っぴらに過ぎるところはあるが……」
「…… はい、それは」
――(好意の気持ちについては私も真摯に受け取らなければ失礼だ……)
「私と江口君もそこまで君が追い詰められていたのかと…… 実際最悪の事態まで想像してしまったが、いや、君が無事で何よりだった。そして改めて謝罪させてほしい、何もしてあげられなくて本当に申し訳ない」
「! ……」
――(まただ……)
職場にも、話せばちゃんと聴いてくれていたはずの人がいた。
何を話せば良かったのかは藍子にもよく分からなかったが、困惑している状況を伝えていれば、少なくとも一緒に考えてくれたのではないかと。
そしてまた違った結果になったのかもと。
「い、いえ! 私が…… 私がもっと早くに相談をしていれば……」
「いや、気が付いていたのに何も対処しなかったのは管理責任者として失格だ、本当にすまなかったと思っている」
ありがた過ぎて藍子は言葉が見つからない。
「とんでもありません…… 身に余る…… ありがとうございます」
伝えたいのは感謝しかない。そしてこんな事態にまでしてしまって、自身が被ったであろう迷惑より先に藍子への謝罪を述べてきたことに、苦しいほどの申し訳なさ。
「本当に…… 申し訳ありません」
藍子はひたすらに頭を下げることしか出来なかった。
「…… それにしても思いのほか元気そうで安心した。本当に」
安堵の表情を見て、藍子はまた更に申し訳なさが募る。
一息付けたような顔で高橋が藍子に話を向ける。
「…… で、君の話というのは……」
「あ……」
この流れで話(辞表)を切り出すのは如何かと思ってしまったが、ここで揺らいだら前に進めないと藍子は心を決める。
「あの…… 散々ご迷惑とご心配をおかけしておいて本当に身勝手な事なんですが……」
バッグの中から封筒を取り出し、高橋の前へ差し出した。
高橋は静かにその封筒を見降ろしながら「やはりか」といった面持ちで言う。
「…… そうか…… そんな気はしていたが」
「…… すみません」
高橋が諦めともやるせなさとも取れる表情で藍子に問う。
「…… 後悔はしなさそうかい?」
――(もう決めた、進むと)
藍子は改めて心の中と膝の上の手で拳を強く握る。
「はい!」
「そうか」
高橋が今日初めてにっこりと微笑んで言った。
「という訳で、辞表の方は受理して貰えました」
藍子は帰宅した美咲に今日の出来事を話した、上司の方々がちゃんと心配してくれていた事も含めて。
美咲が二本目の缶ビールを開けながら聞いている。
「ふーん、まあ評価を2点くらい加算しといてあげましょうか、まだ全然マイナスだけど」
――(相変わらず美咲さんは点数辛口だなー)
「で、労務関係の処理とかは?」
「必要書類を送ってくれるそうなので、それを返送してくれたらいいと」
「あー、アリアちゃんが銀行に出向かなくていいように配慮したって感じかしら、じゃあプラス3点」
――(辛いなー)
「あと私は懲戒解雇のつもりだったんですけど、普通の依願退職扱いにしてくれるらしくて、『少ないけど』って退職金も頂けるみたいで……」
「当り前よー、アリアちゃん悪くないんだから、加算ナーシ!」
失礼ながら、こんな感じで生きてこられたら自分も楽だったろうなと藍子は思う。本当に。
「で、引き止められなかった?」
――(?)
なぜかニヤニヤしながら美咲が聞いてくる。
「…… いえあの、『私としてはなんとか残ってほしかったんだけど……』とは仰ってましたけど、上司として一応形的に引き止めるのは普通ですよね?」
「ハッハッハッハ! ヨーシ、私が少しすっきりしたからプラス500点!」
――(スッキリ? …… 基準が分からない)
「あの、それで、お財布とカードが戻って来たので、とりあえず今までの分と、今後の生活費についてなんですが、おいくらくらいかと……」
帰りがけに下ろしてきたお金の入った封筒を藍子が差し出す。
美咲がビールを煽りながら封筒を持ち上げて
「まずこれは要らない、今までのは私の趣味だから」
と藍子のトレーナー(美咲に借りた)の胸元に突っ込む。
「エ、エ、エエエェ……」
藍子がオロオロする。
「今後は…… 気にしそうだから食費だけは月末に折半くらいにしましょうか。他は家事を手伝ってくれればチャラで、でもそうするとやっぱり収入は必要よね…… うん、やっぱりウチの会社で働いてみない? 他にやりたい事が見つかればその時に考えればいいし」
「え…… でもそう簡単には……」
「ダーイジョーブだって、小さい会社だしどうとでもなるから。元のとこの退職手続きが終わったらすぐこっち来られるようにしとくし…… あ、嫌なら無理にとは言わないんだけど?」
直ぐに次の仕事を探さなければと思っていたので、藍子としてはこの申し出には感謝しかない。
「いえ、私はありがたいです、是非お願いしたいです」
「そっか、わかった」
美咲が優しい顔で笑って、またビールを煽る。
「ヨーシじゃあ今日は祝退職・再就職で祝杯ね!」
「あの…… ダイエット中って言いながら昨日も『チートデーだ』って飲んでましたよね……」
「祝! 毎日チートデー‼」
ウキウキと三本目を取りに冷蔵庫に向かう美咲を見ながら、なぜだか藍子は未来への期待感がじわじわと沸き立つのを感じていた。
洗い物をしてお風呂に入った後、疲れを感じて藍子は早めに寝ることにした。
布団の中で高橋から最後に
「これ、江口君から預かったものだ」
と手渡された手紙を読んでみる。
藍子の状況を知らずにしつこく誘ってしまった事、初めての食事で浮かれてしまい、結果藍子を不安にさせてしまった事、そのせいで藍子の家族にまで心配と迷惑をかけさせてしまった事を誠心誠意謝罪する言葉。
そして心から好きだった事、直接会って伝えたかったが今はこの手紙だけにすると決めた事…… そんな事が本当に丁寧な字で綴られていた。
『もしまた会えるなら先ずは友人の末席として君の中にいさせてほしい』と締められた手紙を顔の上に置いて藍子はしばらくじっとしていた。
――(きっともう戻ってこないのわかったんだろうな……)
彼は何も悪くない、自分が一人でから回っていただけ。全てが完璧で非の打ち所がない、嫌いになる理由も今では思い当たらないし、もちろん嫌いではない。
――(でも……)
不釣り合いなのは分かりきっている、でもそんな理由で付き合えないというのとは違う。
藍子は自分なりの気持ちを冷静に浚ってみた。
――(本当の笑い顔で彼の隣にいる自分が想像できない……)
こんなぼんやりした理由で拒もうとしている自分の不誠実さが、堪らなく彼に申し訳ないと藍子は思う。
――(もし…… もしまた会えたらちゃんと謝って、そして……)
意識はそこまでだった。
つづく