10. Who meets dusk?
<これまでのあらすじ>
中規模商社の営業職、更科巧31歳は、夜の山道をドライブ中こっそり乗り込んでいた女の子を成り行きで街まで送ることになった。
女の子の名は有本藍子、地方銀行に勤める25歳。身に覚えのない周囲からの冷たい視線に耐えながら日々なんとか暮らしていたところ、行内で噂のエリート王子様(江口総一郎)に熱烈なアプローチを受けるようになる。
なぜか江口と食事をする事になった藍子だが、帰りがけ、山奥に連れてこられ恐怖を感じてしまい逃げ出したところ、偶々たくみの車を見つけ潜り込むことにした。
どうにか街まで送ってもらった藍子だが、家に帰る気にもなれず駅前のネットカフェで一夜を過ごす。
翌日、これからどうしようかと思案していると、昨日の車の男性の事を思い出して一か八かでその人に頼ってみる事を決意する。
藍子を匿うことを決めた更科巧だったが、これからどうしたものか困惑し、同僚の新道と先輩の美咲に
相談することにした。
流れで藍子は美咲さんに引き取られる(?)ことになり、翌日藍子を送り出したたくみはなぜか藍子の母梗子から呼び出され、言伝を託された。
一方たくみ宅での飲み会の翌日、美咲のマンションに向かっていた藍子は……
10. Who meets dusk? (踏み出す)
どんどん小さくなっていくアパートとたくみの姿をサイドミラーで見ながら、ありがたさと申し訳なさが藍子の胸を締め付ける。
――(本当にいくら感謝してもしきれない……)
これまでの自分の愚行を受け止めてくれて、更にその先へ導いてくれた。でも
――(なんだか益々周りの人に迷惑を広げていく……)
美咲の車の助手席で、親指を中にして握った自分の手を見ながら藍子は思う。
後ろに乗っている新道のアパートに寄ってから、美咲のマンションへ向かうらしい。
「あの…… 本当にご迷惑を……」
美咲がちらりと藍子を見てから明るく答える。
「はあ?迷惑ってのは相手の主観の問題なんだからね、特にイイ女はフリーパス当然だし」
実に楽しそうに言うので、心ならずも藍子の気持ちが少し楽になった気がする。
「ま、私は気にしたことないわね、てか今チョー楽しくなってきたんだけどウヒヒ!」
かくもあっけらかんと美咲が笑いながら言う。
「たくみのやつも迷惑なんて微塵も思ってないよね。つーかさっきなんて我が娘を送り出すみたいな顔してたもんな、きっと今頃泣いてるんじゃね?」
後部座席から新道が茶化すように言ってくる。
――(…… でもそんな事ない、きっと厄介払いができてホッとしているはずだ……)
と藍子は思う。
今冷静に考えても、厄介以外の何物でもない。
本当にあの時の自分はどうかしていたと恐ろしく感じ、それを受け入れてくれたありがたさは、とても言葉では言い表せないと藍子は改めて思いを噛みしめる。
――(本当に良くしてもらって…… なんとかなったらきちんとお礼をしないと…… 、なんとかなったら……)
そんな表情を読み取ったのか美咲が新道に釘を刺す。
「あんたホントにデリカシーが欠落してるわよね」
「ええ? まなみんがそれ言うの? 自虐?」
「ここで降ろすか? あ?」
「さーせーん」
「ふん」と美咲が鼻を鳴らし、視線を前方に戻す。
二人のやりとりが自然過ぎて藍子は不思議に思う。
――(それにしてもこのお二人ってどういう……)
昨日の会の中、新道はたくみの同期で、美咲は三つ上の先輩。二人と違う部署で更に役職も上だと聞いた、あと離婚経験がある事も。
今ひとつ関係性が見えてこないが、藍子から見る二人のやり取りは、ただの先輩後輩という間柄だけでは無いような気もしていた。
――(このあたりの察知能力が本当に無いからなー私……)
「あ!見て見てまなみん、【 Hotel 百点満点!】だってさ、おもしれー。ホテルってホントネーミングセンスが独特で好きだわーオレ」
――(わ…… 本当にその…… デリカシーといいますか、何といいますか……)
「…… 60点……」
美咲が前を向いたままぼそりとつぶやく
――(…… 60?)
藍子は美咲を不思議に見る。
「……え⁉ ちょっ……美咲さん⁉ オレ結構いけてたと思ってたんすけど⁉ え?」
新道が何やら焦っている。というか驚きと憤慨という感じに藍子は驚く。
「へえ」
美咲がさも無関心といった返事をしたあたりで藍子は今更ながら察っするに至った。
――(…… え? エエッ⁉ そ、そそういう……)
さすがにここまでくると理解がいった。ここまで直球ど真ん中なら。
「じゃ、じゃあ、ちなみに前の旦那は?」
「え? 聞きたいの?」
――(いやいやいやいや、ちょっ……)
「えっ… とー…… いや、やめとく。立ち直れないかもしれないから……」
新道が不貞腐れたように言葉を引っ込めた。
美咲が藍子の方を向いて(ま、そういうことなのよ)と小さくウィンクをして可愛く微笑む。
――( ‼ )
――(ひゃーー、ビックリしたー……)
自分でも顔が赤くなっているのに気が付いて、藍子は慌てて窓の外に視線を移す。
――(…… でもカッコいいなー、ホント大人の女性って感じ……)
ウィンドウに映る自分の顔が、藍子には情けないほど幼く見えた。
「じゃーねーアリアちゃん、またねー……」
「本当にありがとうございました」
手を振る新道の顔が少しぎこちない。
――(新道さん大丈夫かしら? ……)
新道は自分のアパートで降りて行ったが、なんとなく元気がなくなったように藍子は見えた。
――(そんなにショックだったのかなあれ? …… 良く分からないけど)
「よし、じゃあ当面の必需品を揃えに行こうか!」
――(美咲さんは全然ね、力関係は圧倒的なんだな……)
マンション近くのドラッグストアで美咲と一緒に店内を見て回る。
ここなら化粧品はもとより、生活雑貨や手軽な食料品まで全て揃ってしまうので便利この上ない。
「クレンジングや化粧水なんかは私のもあるけど、お気に入りとかあれば揃えるわよ。あと生理用品も」
――(ああ、神……)
たくみとの生活で、この問題をどう切り抜けようかと悩んでいたので、美咲からの同居の提案は実のところ藍子にとって願っても無い事だった。
「あの、特に意識して選んでいたわけでもないので美咲さんの物をお借り頂けるならそれで……」
「そう? でもファンデーションと口紅は買うわよ、どうせたくみ君に気を使ってろくなの使ってないでしょ?」
「いえそんな…… でも、あまり外に出るわけでもありませんし……」
「出なくても肌の手入れとお化粧は毎日しなきゃダメよ。人間辞めても女は辞めちゃダメなんだからね」
凄い理論だなと藍子は思いつつも確かにお化粧をするのは女性として、健全な日常生活を意識付ける為にも重要な事のひとつにも思える。
半ば強引に化粧品を一通り選ばされ(誘導尋問みたいだった)、レジで会計をすると案の定、なかなかの額になった。
「本当にすみません、後ほど必ずお返ししますので……」
と藍子が言うと
「いーのいーの、なんだか妹が出来たみたいでホント楽しくなってきたわ私も」
ガハハと笑いそうな感じで美咲が返すのを見て、藍子は心がまた軽くなってくるのを感じた。
――(お姉ちゃんってこんな感じなのかな……)
「あ、ごめん、娘か? ハハハ」
と美咲が笑う。
マンションの駐車場に入ったところで突然美咲が
「あーっ‼ しまった‼」
と声を上げたので、何か買い忘れでもあったかと藍子が驚いていると
「ちょーーっと5分、いや10分だけここ(車)にいてくれる? ね? すぐ戻るから」
そう言って車から飛び降りると、一目散にエントランスに駆け込んでいった。
「?」
待つこと15分、戻ってきた美咲が激しく息を切らしている。
「ハァハァ……ごめんね。じゃあ、ハァ、行こうか」
荷物に美咲が手をかけ始めたので藍子は慌ててそれを制しつつ
「あ、私が持ちますから!」
と荷物を持って後をついて行く。
美咲は玄関の前まで来てから
「ちょーっと散らかってるから心しておいてね、へへ」
と念を押してきた。
「あ…… えと、大丈夫です」
なるべく平静さを醸し出しつつ藍子が答える。
――(なるほど、さっきのは一通り片づけに帰ったのか、申し訳ないなぁ……)
間取りは3LDKで、寝室と他二部屋にもそれぞれドアがあり、広めのリビング、そこに繋がるオープンキッチンといった造りになっている。
物は比較的少なく、全体的にすっきりとした印象。
というか生活感が薄いくらいだなと藍子は感じた。
「わあ…… 素敵なお宅ですね」
本当に『カッコイイ理想の空間!』と感じて藍子は思わず口に出してしまった。
――(予想より(失礼だけど)全然散らかってなんかないわ、あんなに慌てなくても…… かなり部屋の乱れに厳しいのかしら? 気をつけなくちゃ……)
「そ、そう? 楽にしてね、じゃあお昼にしましょうか、パスタで良い?」
「あ、私やります…… えっと、ソースから作るとかでなければですけど……」
途中で、たくみのところでの事が藍子の脳裏をかすめる。
「は? レトルトに決まってるじゃない、あ? たくみ君家そうだったの? カーーッ!
アホかあいつ! イかれてるわね!」
自分の方が一般的感覚だと認識できて、藍子は少しホッとしてしまう。
「いえ、そんな…… でもちょっと思いましけど……」
「……ぷっ!」
美咲が思わず噴き出す。
「プフフフ」二人して笑いながら準備に取り掛かった。
――(たくみさんゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイ……)
午後、美咲に家電や部屋の説明をしてもらった。
「ちょっとこの部屋はその…… プライベート的な? とこだから、ここだけはあの……」
「あ、はい、絶対開けません、分かりました」
――(そりゃ見られたくない場所もあるわよね、自宅なんだし)
「い、いやホント大したあれじゃないんだけどね、ハハハ……」
妙な取り繕い方が不自然な気がしたが、こちらに置いて頂く以上、パンドラの箱は絶対に開けるべきではないと藍子も承知している。
「あと電話とパソコンは自由に使っていいから、ロックもかけてないし」
――(? 一番シークレットな感じがするけどそこは大丈夫なんだ? ……)
「あ、ご家族に滞在する場所が変わったって連絡した方が良いんじゃない?」
「あ……」
妹に連絡したっきりだったと思い出し、今の状況を含めて話しておくべきかと藍子は一瞬思ったが、うまく話せる自信がない。
今後どうするのかも藍子自身でも決め切れていない今、何を伝えたらいいのか、更に不安にさせてしまうだけではないのかと思うと、どうしても怯んでしまう。
「…… すみません、もう少し落ち着てから連絡しようと思いますので……」
と逃げた。
「…… そう、でもなるべく早い方が良いわよ、ご家族も心配しているでしょうから」
「…… はい」
母親の、妹の、そして父親の心配する顔が頭に浮かんで藍子はまた胸が苦しくなる。
夜はピザのデリバリーをとって夕食になった。
美咲は三本目のビールを飲みながら
「くはーっ! 昨日は二本しか飲まなかったから不完全燃焼だったのよねー」
とご満悦だ。
――(ああ、やっぱり抑えてくれてたんだわ、私のお話の為に……)
改めてその優しさを藍子はありがたく思う。
――(でも二本であのノリだったのって凄いな)
変な感心をしながら久しぶりのピザを堪能するが、少し不安な気もしてきた。
――(やっぱり体型変わりそう……)
お風呂に入った後、二人でしっかりスキンケアをして、さて寝ましょうかとなった。
「寝室のベッド、ダブルだから一緒に寝ようか?」
と美咲に提案されたが
「い、いえ、私リビングのソファーとかで大丈夫ですから」
と藍子は辞退した。
本当のところは元ご夫婦の寝間という事で少し…… な想像をしてしまって怖気づいたというのが正しい。
「えー、別に襲ったりしないわよ? でも一人の方が気が休まるか…… よし、お客用の布団があるから隣の部屋に……」
言い淀んだ美咲の顔が俄かに険しくなる。
「?」
「…… えーと布団出してくるからちょっと待ってて」
そう言って例のパンドラ部屋に入っていくと、何やらごそごそとやり始めた。
しばらくして
「ギャーーッ‼」
という悲鳴が上がったので、藍子は慌てて部屋の前まで行ってみる。
――(開けるなとは言われたけど倒れてたりしたら……)
今は緊急事態だと判断して、思い切ってドアを開けた。
「すみません! 入ります! 美咲さんだいじょう…… ぶ……」
洋服や美容器具、ありとあらゆる生活雑貨が散乱する部屋の中で、布団とその他諸々の下敷きになっている美咲を発見する。
「あー…… もうバレちった、デヘヘ」
「あ…… はい」
何が「はい」だか分からないが、藍子は他のバリエーションを思いつかなかった。
「いやーごめんねー、基本的にだらしなくってさーハハハ」
とまさに隠すものがなくなって、美咲はすっきりした顔をしている。
美咲の屈託のない子供っぽい顔が見れて、藍子は嬉しいというか可愛くなってしまった。
「いえ、私片づけとか結構得意ですからよろしければ任せて下さい。というかなんだか燃えてきた感じがします!」
と素直な提案を述べる。
「いやいや、さすがにそれは………… アリなの?」
「アリです!」
「…… マジならお願いしちゃいそうなんですけど私」
「ガチです!」
「…… ン、アリア―ッ‼」
美咲が藍子に大袈裟に抱きついてきた。
藍子は、
――(ああ、ボディソープとシャンプーの良い香りが……)
失礼ながらまた(可愛いぃ!)と思ってしまう。
寝室の隣の部屋に布団を敷いて、
「とりあえずここがアリアちゃんの部屋だからね」
という事になり、例の伏魔殿(色々呼び方変わるけど)の処遇については追々考えていこうという事になった。
「今は(あの部屋は)そっとしておきましょう……」
遠い目をして美咲が言う。
――(とりあえずあの部屋に散らかっている物を詰め込んだのか、道理で生活感が無いくらいすっきりしてたはずだわ)
その時の光景を想像して藍子は思わず笑ってしまいそうになる。
次の日は日曜日で、洗濯やお掃除を藍子が手伝いながら過ごしていると夕方くらいになって美咲に電話が入った。
「はいよーどうしたの? アリアちゃんの忘れ物とかあった?」
ちらりと美咲が藍子の方を見る。
――(もしかしてたくみさん? ……)
「………… そう、…… うん、………… んー明日(会社)でもいいけど……」
――(仕事の話かな……)
自分の事ではないのかと、藍子は厚かましくも少し寂しい気がしてしまう。
「ねえ、今から来たら? どうせ暇なんでしょ?」
――(え? たくみさんが今から来る?)
心ならずも藍子は嬉しさが込み上げる。
昨日しんみりとお別れしたばかりで、藍子的には今日またたくみと会うのは少し、いやかなり気恥ずかしい感じだ。でもなぜかうれしいと思う自分もいて、すごく変な気持ちだった。
「うん…… あ、来客用の駐車枠空いてると思うから適当に止めて、はーい、気を付けてねー」
「たくみ君がアリアちゃんに渡したい物があるんだってさ」
「? …… はあ……」
美咲の言葉に藍子は戸惑うしかない。
――(なんだろう? 特に忘れ物とかは無かったと思うけど……)
「…… という事でこれをキミにって……」
とたくみが藍子にバッグを差し出す。
藍子が以前母梗子に買ってもらったバッグ。
中に財布とスマホが入っていて、他には何も入っていなかった。
――(本当にお母さんらしい……)
妙なところで藍子は母を実感する。
「あと、『先ず今の仕事の事をきっちりさせなさい』と伝えてくれって」
「……」
「俺も先ずはそこからだと思う…… 大きなお世話かもしれないけど」
「そんな事は……」
本当にそんな事はない、正論過ぎて改めて窘めてくれたことに藍子は頭が下がる思いだ。
「それは私も賛成、その先に進めないもんね」
美咲も後押ししてくれる。
――(…… でも……)
どうするのが正しいのか、ずっと悩んだまま藍子自身では決め切れていない。どうしても。
「とっとと辞めちゃえばいいのよ」
「…… え?」
――(仕事を…… 辞める? ……)
理屈では分かっている。もうそれしか答えは無いはずのに、ずっと藍子の頭の中で巡る思考。
――(でも今の職場を辞めると言うのは……)
そこでいつも立ち止まってしまう。
“ 嫌になったからまた逃げだすの? ”
“ ここを辞めても次のところで同じ事の繰り返しなんじゃないの? ”
そう思うとどうしたらいいか分からなくなって、ただ時間だけが流れていくだけだった。
「『え?』って何? 辞めないの? あり得ないわよそれ」
(⁉ ……)
美咲の言葉に、自分のした事と立場を思い知らされて、藍子は今更ながら見当違いな悩みのバカさ加減が恥ずかしくなってしまった。
(………… それはそうだ……)
ここまでの事をしたわけだし、無断欠勤の日数でいえば十分解雇理由になり得る。
自分の意思などもはや意味が無いのも。それは分かっている。分かっているが……
「でも…… あ、懲戒解雇なのは分かってるんですけど……」
「? 違う違う、こっちから辞めてやるのよ。辞表叩きつけて」
美咲が呆れたような顔で言う。
「…… 私から? ……」
(私の方から? ……)
「話を聞いた感じ、周囲との確執は根深そうだし、原因もアリアちゃんに責はないとすれば今後回復の見込みは無いと思うのよね。それに今から復帰したら更にこじれるのは目に見えてるもの」
それは藍子自身も考えたが、“ もっとがんばれば……“とも思う。
――(私が今まで以上に我慢して、目立たないように、私なんてそこにいないように……)
鼻の奥がツーンとしてきて、藍子はグッと奥歯をかみしめる。
「あなた『それだと現実から逃げる事になる』とか、『それなら私がもっと我慢すれば』とか思ってるでしょ?」
藍子の表情を覗き込みながら、美咲が言う。
「⁉……」
「あのね、逃げりゃいいのよ、戦ったって意味なんて無いんだもん」
「戦う……」
美咲に言われて藍子はハッとする。
そもそも自分は何にがんばっていたのか? 何と戦っていたのか? と。
「だいたい私に言わせれば上司がダメね。部下のそんな窮状と管轄部署の空気感を把握できてない時点で無能もいいところだわ」
「あの、それは私がちゃんと相談とかを……」
「話聞いてから動くようじゃ所詮ダメよ。真っ先に察しろって話よ! ていうかもうその銀行全部がダメ、あー腹立ってきた!」
最初、時折うなずきながら美咲の話を聞いていたたくみが、段々心配げな顔になって美咲を見ている。
――(たくみさんも同じ風に思ってるのよね……)
たくみと美咲の気持ちが藍子に流れ込んでくる。
「『嫌なものは嫌』『無理なものは無理』って言うのなんか、勇気でもなんでもないからね。子供でも言えるっつーの」
――(ああ……)
大人として、社会人として、言ってはいけないと思っていた言葉。
――(そーか…… 嫌って言えばいいのか……)
藍子の目の前の鬱々として遮ったいたものがサーッと無くなって、急に前のめりになりそうな感覚。
足を前に出さなければ転んでしまいそうな、そんな。
「で、どうするか決めた?」
少し間をおいてくれた美咲が優しい顔で藍子に聞いてくる。
「…… はい、決めました」
最初から自分(藍子)でも分かっていたような気がする。
――(自分で自分に色々と理由を付けて、悩んだふりをして、言い訳しては結論を先延ばしにしていただけ。最後は結局背中を思いっきり叩かれて顔を上げられた)
藍子にもう戸惑いは無くなった。
「しっかり辞めてきます」
「よし!」
美咲とたくみが親指を上げる。
「じゃあたくみ君、景気づけに何か美味しいもの作ってよ、どうせ帰っても一人で食べるだけなんでしょ?」
「えー…… 、俺は『嫌』って言える勇気ある人間ですよ?」
「ほう、私はその勇気をへし折る権限と力(物理)を持っているのだが?」
「…… 食材なんかあるんですか?」
「えーと鶏肉とピーマンがあったような……」
美咲とたくみが二人で冷蔵庫を覗きに行く。
――(またお二人に助けられちゃった。この先一生かかってもお返しできるかな……)
気付かれないように、鼻をズズッとすすりながら藍子は二人の背中を見ていた。
夕食を食べ終わった後、たくみは「じゃあまた……」と言って帰っていった。
「母の事も含め、ご面倒をかけっ放しでごめんなさい……」
と藍子は何度も謝罪とお礼を伝えたが、終始困り顔で「全然だから」と言うだけだった。
別れ際に
「ご家族にはちゃんと連絡してあげて」
と言ってくれたのがまた藍子にはありがたく、そして自分だけでなく、家族の事まで気遣ってくれていることが本当に嬉しかった。
「先にお風呂入りなよー」という美咲に「家に電話しようと思いますので美咲さんお先に」と断りを告げ、藍子は自分に宛がわれたた部屋に入る。
――(お母さん…… はまだちょっと怖いからすみれにするか……)
今はまだ母と話すまでの勇気は出てこない。
「……あ、すみれ? ……」
「あーっ‼ お姉ちゃん! …… ってなんでお姉ちゃんのスマホから?」
「…… お母さんが持ってきてくれたみたいで……」
「みたいでって……」
「たく…… 更科さんに渡してくれたみたいで……」
――(危ない危ない!)
「え? 何それ? なんでお母さんと更科さんが会えるの? 私何も言ってないよ?」
「あんたのスマホから連絡とったみたいよ」
「…… あー昨日かぁ! リビングにうっかり置いたままだったけどあの一瞬で…… え? ロックもかけてたはずだけど?」
「お母さんだもん、意味無いわよ」
「…… ハァー、そりゃそーだ……」
母梗子は年の割に(まだ50手前だが)IT機器にやたら強く、その上娘達の思考パターンなどお見通しだ。
「まあいいや、それよりあの後大変だったんだからね!」
たくみのアパートに泊めてもらう事になって藍子がすみれに電話した時、
“ 銀行から家に藍子がが行方不明になったと連絡があって大騒ぎになった ”
という事は聞いた。
一足先にすみれに連絡(金曜日)を入れていたので一応は無事だと判明して、両親も職場の方もとりあえず一安心となったらしいが……。
「あっ! 陽子のところに連絡がいったとか……」
「あー、陽子さんのところに居るとか言ってないからそれは大丈夫なんだけど」
すみれがしれっと答えるので藍子は益々分からなくなって戸惑う。
「? …… え、だって私電話で……」
「最初のでしょ? だってあれ公衆電話からじゃん」
「⁉」
公衆電話からの通話は、着信時にスマホに表示が出る事を藍子は完全に忘れていた。
あの時はなんとかうまく誤魔化せたと思っていたが、全部見透かされていたのだと藍子は今更気付く。
――(…… あ、それで「大丈夫か?」って……)
また尚更に妹の聡さと、それ以上の思いやりに涙が込み上げそうになる。
「あの時は行方不明って聞いてびっくりしたわよ、ホントにもう!」
あの場では一応藍子を信じてくれていたようだが、行方不明となったら話は別だろう。
――(すみれからは連絡も取れなかったわけだし……)
「ホントにごめん……」
「ま、いいけどさ、それよりあの(二回目の電話)あと職場(銀行)の人が二人来てさ、一人は高橋さんて人で、もう一人は江口さんて人、なんだか王子様みたいなオーラ纏った人ね!」
――(⁉ 王子が家に? ……)
「玄関先で『申し訳ありませんでした』って土下座するくらいの勢いで平謝りしててびっくりしちゃった」
「……」
藍子にもなんとなくその光景が目に浮かんでくる。
――(本当に誠実な人なんだな。やっぱり私の早とちりなだけだったのかな……)
「で、『藍子さんの事は前からお付き合いをしたいと』とか言うもんだから家族みんなぶっ飛びかけて、『あの日は偶然食事することになって、その後ご自宅に送る途中で大倫山に寄ろうとしたらその道の途中で……』ってあたりでお父さんもお母さんも(私もだけど)『あー……』ってなっちゃってさ」
「? 『あー』って何?」
「え? いやあそこ告白とかプロポーズの有名スポットだから、あそこに向かってる時点で『そういう事』って普通分かるじゃない」
「え?」
「え?」
「…… そうなの?」
「…… 知らないの?」
――(エーーーッ‼ そんなの知らないわよ! そういえばたくみさんにこの話した時ちょっと変な顔してたような…… ええええ! 言ってよたくみさーん!)
あの時のたくみの表情を、今更ながらに藍子は理解した。
「私はてっきり…… 襲われちゃうんじゃないかと……」
「…… ああ、なるほどねー、お父さんとお母さんはそのあたり(藍子が知らない事)まで察してたのかぁ。その後急に『娘も無事みたいですし、ハハ……』みたいな感じになっちゃって変だなぁとは思ってたんだよねぇ」
――(お母さんと話すのは益々無理そう……)
藍子はまた思う。
「あ、そんでお姉ちゃんのトートバック置いて行ったんだよ」
「ああ……」
――(車に置いてきたんだった……)
「スマホとかお財布とか、こっそり届けてあげようかと思ったんだけど、お母さんがGPS設定仕込んで追跡とかありそうだしやめたんだよね、届けなくて良かったわー」
「それな……」
――(あの人(母)ならやる、確実に)
「でもさ、あの王子様なら玉の輿確定じゃん、嫌いだったの?」
妹に問われ、藍子も自分の気持ちに問い質す。
――(否定する要素なんて何もない……だけど……)
「…… 良い人なんだと思うんだけどね……」
「まーあれね、失敗とか負い目とかとは無縁そうな人種っつーか、自信が服着てるみたいな感じだもんね。お姉ちゃんとは合わなそうだよねー」
――(この子は本当に核心をズケズケと……)
モヤついた自身(藍子)の気持ちを客観的に、且つ的確に論う妹が恐ろしくもあった。
「えーとさ、今の仕事…… 辞めようと思ってて……」
藍子は思わず口をついてしまう。
「ふーん……」
「ちゃんと自分できっちりさせるから、お母さん達には……」
「……」
母には直接切り出せなくて、すみれにと思いつつもここまで妹にお願いするのも姉としてどうなのかと逡巡していた藍子は自分がほとほと情けなくなってきた。
――(やっぱり自分でちゃんと……)
「ん、分かった、お母さん達にはそれとなく言っとく」
――(……)
「…… ごめんね、すみれ……」
――(本当にこの子は……)
「当分こっち戻る気ないんでしょ? ま、お母さんも承知してるみたいだし良いんじゃない? けどこの貸しは高くつくわよーへへへ」
「うん…… バッグでもお寿司でも旅行でも何でも言って…… 出世払いだけど」
「今から無職の人がそれ言うんだ?」
「だからに決まってんじゃない」
「ハハハハ、たまにはメールでも入れてよー…(ツー……)」
――(…… 本当に、本当にごめん、ありがとう……)
スマホに表示されている“すみれ”の文字を見ながら藍子は胸の中で手を合わせることしかできなかった。
スマホの着信履歴が凄いことになっているのに気づく。七、八割は陽子だと分かって慌てて陽子にも掛けてみる。
(もう寝てるかな…… (プル……ッ))
「アリアッ⁉ ちょっと何やってんのよっ‼」
怒号スタートに驚きつつ
「ごめん、その……」
怒られているのに久しぶりの陽子の声に、嬉しさと安堵で藍子の胸がいっぱいになる。
「…… ふう…… 元気なの?」
「うん、一応……」
「…… ま、それならいいけど、で、何があったの」
これは隠し立てが一切許されないやつだと観念して、藍子は今までの経緯を一通り話すことにした。
「ふーん…… それで私には今まで一切連絡も無しなんだ、ふーん」
「ち、違うのよ! 連絡しようとは思ってたんだけど……」
「…… 私に迷惑かけるとか思った?」
「……」
陽子の問いかけに、藍子は少し戸惑いながら正直な気持ちを言う。
「…… あの……う ん……」
「あんたねっ‼」
「⁉ ……」
「なんで最初に言ってくるのが私じゃないのよ!」
――(…… ああ、私……)
藍子の目の前がジワリと滲む。
「……ごめん」
「そんな状況で私に言ってこないとか…… 悔しくて…… 死にそうなんだけど……」
「…… 陽子…… あの……」
陽子の涙交じりの声を聴いて、藍子は息が出来なくなる。
すみれといい、家族といい、陽子といい、こんなにも近くに私を本気で案じてくれる人達が居た。
そのことに気が付けないでいたバカさ加減。
自分が初めに気が付くべきなのはこの事だったと藍子は思い知らされる。
「…… ごめんなさい」
藍子の素直な感謝と気持ち。
「(ズズッ)…… まぁあんたらしいからいいけどさ…… で、これからどうすんの?」
一瞬戸惑ったが、今揺らぐわけにはいかない。
「銀行…… 辞めようと思う……」
「……」
「……」
しばらくの沈黙の後、陽子が口を開いてくれた。
「そう…… うん、それもいいかも」
「あの…… 陽子……」
「もう決めてんでしょ?」
「…… うん」
「じゃあ進め!」
「…… うん」
――(また背中を叩かれてしまった。なんでみんなこんな私に……)
藍子はまた鼻の奥が痛くなって、抑えようのない気持ちが込み上げてくる。
「まぁでも私の結婚式には来てもらうわよ」
「……うん、もちろん」
――(もちろんだ。何があろうとも……)
「ああ良かった、ご祝儀が減るかと思って心配したわ。期待してるからね親友相場」
「…… へ?」
「まー無職にそれほど期待しないけど5本くらいは妥当な線よね」
「…… いや、ちょっと……」
「日取り決まったら連絡するーまたねー(プッ)ツー……」
「……」
――(…… すみれといい、陽子といい、言いたいことだけ言って……)
ピロン♪
Lineの着信があって開くと、陽子からライオンのイラストに「迷わず行けよ!」と吹き出しのついたスタンプが届いている。
――(…… なにこれ? …… でも…… ありがとう)
選んだこの先に何があるのかは分からなかったが、とにかく進もうと藍子は改めて自分の心を奮い立たせた。
「(コンコン)出たよー、アリアちゃんお風呂入りなー」
「(グズズッ……)あ、はーい!」
――(よし! 全部洗い流して行くぞ私!)
なぜだか、行けば分かるような気がした。
つづく