『フランチェスカ』 〜激しく燃え上がる訳ではないこの感情も愛と呼ぶのだ〜
「おかーさん、このひとだれ?」
異母妹、フランチェスカに初めて会ったのは彼女がまだ四歳くらいの時だったと思う。いつから歪んでしまったのか。最初はただ、笑顔の可愛らしい女の子だったのに。
「ちょっとあなた、これのことは気にしなくていいわ。ええ。世話もしなくていいわ。侍女らしいことをする必要はないの。ねえ、フラン、いい? フランはこんなのと関わっちゃいけません」
愛人とその娘が暮らす街中にあった家に預けられた私。知らない女の人が侍女の格好をした人に私の世話をするなと伝えた。横にいる女の子にこんなのと関わるなって嫌な顔で見られて、胸が締め付けられたのを覚えている。
観劇だなんだと理由を付け、父娘二人の時間を装った父。指示を無視して私の世話をしてくれたのはその家の侍女だった。フランと呼ばれていた女の子も気にせず遊んでくれた。何も知らずに友だちが二人もできたと喜ぶ私を置いて、父と愛人は二人でどこかへ出掛けて行った。
母への告げ口を恐れた父は、私に隷属魔法を使って画策した。禁じられた魔法ですら使いこなす父は優秀な魔法士。ただし、不真面目。父は裕福な母の生家からの支度金が目当てで結婚した。前途洋々として見えた父は不良品だったのだ。
とは言え力量は本物。隷属された側の私が、父の魔力量を越えるまでこちらからは解消できない。幼かった私が父に敵うはずもなく、葛藤に耐えるしかなかった。母に父の裏切りを早く伝えたい。しかし訓練は過酷。それでもあんなに頑張ったのに、願いが叶う前に母は病に倒れた。
母の葬儀は寂しいものだった。必要最低限の見送りをして、最短期間のひと月だけ喪に服した。喪が明ける前、新しい母と妹ができると父に伝えられた。父がとても嬉しそうでモヤモヤした。後にも先にもあんなに嬉しそうな父は見たことがなかった。喪が明けたその日、愛人とその娘は伯爵家の敷居を跨いだ。久しぶりに会った二人は誇らしげに、とても美しく着飾っていた。
私の部屋の方が好きだと『妹』、フランチェスカが言った。父は『姉だから』と部屋を明け渡すように命令した。母との思い出の詰まったこの部屋は、彼らにとってはただの部屋。母と選んだ家具が置かれたこの部屋は、私ごときにはもったいないのだそうだ。
母に貰った刺繍入りのハンカチ、母に貰ったクマのぬいぐるみ。フランチェスカが私から奪った物の一部だ。そんな誰かの思い出が染み付いた、自分以外への気持ちが籠った品が本当に欲しいの?
私のものだった部屋から追い出される日、少ない荷物を持ち、扉を開けた私は振り返って異母妹を見た。彼女は満足そうに微笑んで、ハンカチとぬいぐるみを空中に浮かせ、火を点けた。私には何が起こったのか分からなかった。
空中に突如現れた青い炎は一瞬大きくなって霧散。同時にハンカチとぬいぐるみも消えた。
「さっさと出て行って。あんたも燃えたいの?」
十歳の少女とは思えないその冷たい眼差しを受け、混乱した私は部屋を出た。部屋の外で待っていた侍女に連れられて、使用人部屋へ。
「お力になれず申し訳ありません」
彼女の方が辛そうだった。
「いいの。親がいない子どもなんてこんなものよ」
『まだ父親がいる』誰もその言葉は口にしなかった。政略結婚で結ばれた両親は、喧嘩が絶えなかった。父には貴族としての自覚が足りず、搾取することばかり。どう行動したら自分が得なのか、その為にはどう奪えばいいのか、息を吐くかのように。
他者の幸せなど見ても喜びもせず、自身の享楽が優先。彼の娘に生まれたことが最大の不幸。先程は火属性魔法の使い手に絡まれて、あの程度で終わったのは幸運だったのかもしれない。
母の元執事、侍女、料理人。この三人以外はクビを言い渡された。元々多かった訳ではない使用人を減らすよう指示したのは継母。蔑まれたとお怒りだった。男爵位や子爵位のご令嬢も働いていたから上手くいかなかったようだ。表向きは経費削減なんだそう。
翌日から私は使用人として働き始めた。食事も入浴も侍女と一緒。『令嬢』ではなくなったのだ。三人は優しかったが、私が仕事を覚えなければ迷惑をかけてしまう。私は必死だった。
床を水拭きするように言われた。こんな汚れた布で拭いて綺麗になるのかは疑問だ。匂いが床についたら文句を言われそうだと考えた私はバケツの中の水の不純物を排除した。水魔法の使い手の私が、同じく水魔法の使い手だった母から受け継いだ『抽出魔法』という稀有な固有魔法。
母はこの魔法の存在を父には知らせていなかった。生家の家族ですらも信用できず伝えられなかったのだと悲しそうに教えてくれた。この国に蔓延る男尊女卑。魔法属性差別。それすらも覆し、莫大な利益を生む可能性があるから誰にも教えないようにと。特殊な魔法を使う者は自由を奪われたり、搾取されたり、何かと不幸になることが多いのだと母は言った。
そんなに信頼できない相手と結婚しなくてはいけないのは何故だろう。父と母は相手を選べず、義務として私を生んだらしい。貴族同士の結婚。政略。そんなに大切な結びつきが得られるもの? 表面上の繋がりなんてとても脆いものなのに。
父にとっての本当の愛はあの意地悪な継母が対象だ。私の母は対象外。どんな感情をぶつけても良い相手。母の延長線上にいる私と、最愛が産んだフランチェスカの扱いが違うのは、当然のことだった。まあ、あの人のどこが良いのかは全く分からないけれど。
ある日突然転機が訪れた。元執事の手配で、母方の祖父母の領地へ逃げることになったのだ。自分たちの代わりの使用人を四人用意した。しばらくは気付かないだろうし、気付いても何とも思わないだろう。
彼ら三人は元々孤児で、家族がいる訳ではないし、伯爵家での待遇の変化に不満があった。この家に私一人を残していくことはできないと、一緒に逃げるよう誘われた。それに私がいれば祖父母の領地に入領しやすいらしい。関所で血族の確認が取れると転領もしやすいのだそうだ。知らなかった。
例え祖父母の家に受け入れてもらえなくても、豊かで気候の良い土地だから働き手は引く手数多なのだとか。伯爵家の領地ではそうはいかないらしい。それに、母から受けた恩を私に返したいと言った彼らの真摯な眼差しが忘れられない。母が彼らの人生を変えていたことも知らなかった。
ちょうどその頃、この決断を後押しするかのように、私は父の魔力量を越えた。ついに訓練が結実したのだ。感覚的に分かる。いつでもこの呪縛を破れる。隷属魔法から解放され、父の管理の外へ出ることができる。魔法を解くのは領地から出る直前と決め、出奔の準備を進めた。あとは決行日をいつにするか決めるだけだ。
母の元執事は父が雇った執事を飲みに誘って巧みに情報を得ていく。苦労が多い彼は隠そうと思っても情報がこぼれ落ちてしまう。私たちが母の生家に辿り着くのは呆気ないほど簡単な事だった。結局、隷属魔法しか私を縛るものはなかった。それに、魔法を解いても父は何の動きも見せなかった。私には何の関心もなかったのだろう。
ありがたい事に、祖父母は温かく迎え入れてくれた。私が若い頃の母に似ていると泣いた。本当にこの人たちが母に愛のない結婚を強要したのだろうか。優しくて、温かくて、人が良さそう。
その疑問の答えは伯父にあった。歳の離れた母の兄。母は彼の戦略の駒だったのだ。早々に祖父から侯爵位を継いだ伯父は戦略家だった。私を連れてきた使用人の三人に孤児院の経営を任せたいという名目で私から引き離した。
男の子ばかりの侯爵家に保護を願い出た血族の娘。甘やかす者を排除し、利用価値が高まるように見た目を磨かれ、教養を詰め込まれた。生家でのあの生活よりは遥かに『人』らしい生活。でも雁字搦。虐げられた経験がなかったら耐えられなかったかもしれない不自由さ。大切にしていた唯一無二の物を奪われて壊される。あの悲しみに比べたら、自分を高めるための圧力などその時の私には大したことではなかった。
フランチェスカは二歳下。だから貴族家の者に卒業が義務付けられた王立学園で再会するとは思ってもみなかった。二年間、教養、マナー、ダンスを学ぶ学園。この学園を卒業しないと貴族の一員として暮らしていくことは出来ないという法律があった。王家にとって、入学金や学費、寄付金は莫大な収入源なのだろう。
元々は貴族間の交流が目的で、嫡子ではない者にとっては貴重な就職先を探す場でもある。私は伯父にとっての戦略の駒、ただひたすらに自分を磨くしかなかった。
そんな中でも、同世代がしばらく一緒に過ごせば自然と気の合う者同士が集まっていく。そう。私にも友人ができた。朗らかで親切な友人。ところが、あるお茶会の件で友情は霧散した。
参加を口頭で打診されたお茶会。招待状を送るわねと言われたきり、詳細を伝えられず、結局当日になっても連絡は来なかった。何かあったのかと心配していると、不機嫌そうな彼女の横にフランチェスカが立っていた。
「……お姉様、ごめんなさい! 睨まないでください……私が悪いんです」
当然私は睨んでなどいないが、彼女はハンカチを持って泣き始めた。呆気に取られて眺めていると、友人はキッと私を睨み、フランチェスカを連れて離れて行った。
何が起きたのか分からない。まあ、フランチェスカに関わると何が起きたのか分からないなんてことはよくある。何のことなのかと考えているうちに、私が悪者になっていたなんてザラ。フランチェスカはそういう人の心を操ることに長けていた。
私は『友人』を追わなかった。きっとこれで彼女との関係も終わりだ。寂しいが仕方がない。経験上分かっている。例え誤解が解けたとしても、以前のような関係には戻れないのだ。寂しさはあるが仕方がない、そう考えていた私に声をかけてきた男性がいた。
「災難だったな」
「いえ。いつものことです」
「なぜ戦わない?」
「何の為にですか?」
「自分」
「真っ向から行っても勝てない戦いです」
「なるほど。勝ち筋がないのか?」
「勝つ必要はありません」
「なぜ?」
「キリがないので」
「……ほう」
「……あなたのお見立てでは私は勝てそうなのですか?」
「ああ、あなたの方が魔力量が多い。それに美しい魔力だ。とてもよく練られている。並々ならぬ努力をしたのだと思う。尊敬するよ」
「お戯れを」
私はカーテシーをしてその場を辞した。彼のことは知っている。王位継承権を持つ某公爵家のご令息。伯父が私を嫁がせようとしている男性。値踏みでもしに来たのだろう。あの家は代々薬学の大家で、薬草や治癒魔法の分野では一目置かれている。きっと、私が母から受け継いだ抽出魔法を便利に使いこなすだろう。伯父は本当は母を嫁がせたかったのだ。
母系の固有魔法は娘に、父系の固有魔法は息子に。発現しないで血筋に眠っていることもある。つい先日まで公にされていなかったことだ。母は発現していたのに誰にも伝えなかったから、神殿の職員しか知らない。本人以外が公表すると死罪もある。魔法の全てを管理する神殿は等しく魔力を持つ者の味方なのだ。
もし伯父に伝えていれば違う未来があったのかもしれないのに……。普段の振る舞いから伯父を信じきれなかったのは仕方がない。年の離れた兄妹だからこそ難しかったのかもしれない。
妹には素直になれない兄であった伯父は、父の同性にだけ見せる従順な姿を信じて母を不幸にした。伯父は父の本性と、そのせいで母に何が起こったのかを知り、後悔するしかなかった。妹には幸せになってほしかった、優しいだけでは生きていけないと手を差し伸べなかった。そう泣きながら私に言い訳をたくさん聞かせた。
この姿も演技かもしれない。私の同情を買うために泣いて見せているのかもしれない。大切と言いながらもその妹を張りぼてでしかなかった政略結婚の駒にした伯父。どちらが本当の姿なのかは分からないけれど、私は伯父に自分の固有魔法がどんなものなのか告げた。その時の喜びに満ちた伯父。その理由を知ったのは随分後になってからだったが、この後すぐ、私は某公爵家のご令息の婚約者になった。
その後もフランチェスカは私が親しくする相手を片っ端から奪っていった。何をしにこの学園に来ているのかと思うほど。男でも女でも少し親しそうに振る舞えばすぐに仕掛けてくる。それでも、私の傍には婚約者が残った。彼はフランチェスカには惑わされない。面白い物でも見ているような目で彼女を見る。その笑顔を異母妹は逆手に取り、彼に愛されていると嘯いた。
私の生家である伯爵家に婚約者の生家である公爵家から抗議が届いたのはそれからすぐの事だった。それを受けて父からの苦情が侯爵家にいた私に届いた。
『お前の、血を分けた妹だろう!』
怒りの滲んだ文字。それを読んだ私は無視することにした。だからどうしろと?とそのまま放っておいたら、継嗣の件で手続きがあると神殿に呼び出された。魔法に関する全てを管理する神殿に呼び出されたらのなら行くしかない。幼い頃の魔法鑑定で私の固有魔法を知った母が心配して爵位継承予約の手続きをしていたのだと知った。
固有魔法持ちの親の依頼で鑑定した場合、子どもの保護という名目で親も結果を知ることができるのだそうだ。通常通り暮らせないと判断された場合は神殿預かりにもできるらしい。私たちの固有魔法は危険はないと判断され、口止めするに留まった。
自分の魔力に疑問を持った母が魔力鑑定を受けた時に、神殿の職員から固有魔法持ちの者が辿りやすい未来を知らされた母は絶望し、魔法士として生きることよりも結婚に夢を見た。ここ数代発現していなかったから良い手本がいなかったのも一因だ。
何より驚いたのが、母は父の裏切りを知っていたということだ。あの時熱を出した私を愛人の家から連れ帰ったのは母だった。当時の私を治療をしたという方が偶然神殿での担当で、あの時の! となり、教えてくれた。母の死を伝えると、巡り合わせってあるんですね、と彼女は哀しげに微笑んだ。
伯父、父、継母、異母妹、婚約者、そして私。神殿では親子鑑定もできる。継嗣を決める時には必ず親子鑑定が行われる。子がいない場合は血筋を遡る必要がある。爵位を継ぐにはその家の当主と同じ血筋であること、それだけが条件だ。
候補が複数いる場合は誰を嫡子とするのか現当主が選ぶ。関係者全員を集めて行われる選定の儀式。爵位継承予約を入れておくと、この選定の場に必ず呼ばれる。嬉しくない母からの贈り物となったが、仕方がない。
最初に父と私。親子だと判定された。伯父と私。親子ではないが血筋を継ぐ者と判定された。これで侯爵家の爵位継承選定の場にも参加できると言われたが断った。
継母は庶民だからかこの神殿のことも親子判定のことも知らなかったようだが、それもあってか何ともつまらなそうにしていた。貴族であるためにとても重要なことを話しているのに。
継母と異母妹の親子鑑定。なんと二人は親子ではなかった。先程までとは打って変わって取り乱す継母。冷たく笑う異母妹。異常な雰囲気で不安になったのか、婚約者が私を抱き寄せて異母妹を警戒し始めた。異母妹が喚いて、父と異母妹の鑑定。二人はちゃんと親子だった。
「お前は誰なの? 私の、私の娘はどこにいるのよ!」
母親の悲痛な叫びに、異母妹はニイッと笑って私を指差した。継母は悲鳴をあげた。父が直ぐに彼女を庇った。
「そうじゃない! 俺が本当に愛した女の産んだ娘だ! あんなやつじゃない!」
激昂した父にもっと怒り狂った伯父が掴みかかった。
「なんだと!」
父は生家の金目当てで母と結婚したことを伯父に告げた。喚き合い、揉みくちゃになった父と伯父は神殿の職員に引き離されて連行されて行った。その場に残された呆けた継母とニヤニヤと笑う異母妹。私を抱きしめて守ろうと必死な婚約者。
「あたしはね、あんたが虐げた侍女の娘なの」
『フランチェスカ』が先程まで自分の母親だった女性にそう告げた。
「え? もしかして街中の家で働いていた?」
「あら、おかーさま、覚えててくれたの? あたしの母さんはね、あんたのフランチェスカを死なせてしまったの。あんたたちがイチャイチャしてる間にあたしとフランチェスカの二人を一人で育ててたもんだから手が回らなくてね。六歳の頃、熱を出したあたしを連れて必死に神殿へ行ったの。家に解熱剤の一つでもあったら違ったんだろうけどね。やっとの思いで診てもらって帰ってきたら、フランチェスカも熱を出してうんうん唸ってたんだって。でもね、母さんは疲れていたの。仮眠をとってから神殿に連れて行こうと思った。もうすぐあんたも帰るだろうし、栄養状態も良いフランチェスカはすぐにはどうにもならないだろうと思ったんだって。単なる使用人の娘のあたしとは違ってね。疲れてて眠かったんだもの、仕方がないよね。なのに、その夜あんたはフランチェスカを迎えに来なかった。あんたが迎えに来るまでの仮眠のつもりが朝まで眠ってしまった母さんは、冷たくなったフランチェスカを見つけた。だからあたしがフランチェスカになったの。母さんのために。二人が生きるために。あんたがフランチェスカを迎えに来たのはそれからさらに三日後だった。元々似てるって言われてたあたしとフランチェスカ。分からなかったんでしょ? まあ、父親が同じだものね。私たちは父親似だから」
継母はヘタリと座り込んだ。涙を両の目から流したまま空を見つめて何も言わない、普段は強気で父以外には意地悪な継母。『フランチェスカ』は私を申し訳なさそうな顔で見た。
「あんたには恨みはなかったんだけど、なんか無性に腹が立って意地悪しちゃった。もう貴族ごっこはやめる。みんなコロコロ引っ掛かってつまんないし、隣国にでも行ってやるからお金ちょうだい。手切れ金。伯爵家の醜聞の素のあたしが逃げてやるって言ってんだからたんまりと寄越しなさいよ」
「あ、あなたのお母様は?」
私がそう聞くと、チラッとこちらを見た。
「……死んだ。フランチェスカが亡くなってしばらくしてから聞いた。同じように朝起きたらもう冷たくなってたって。フランチェスカと似たような症状だったって聞いた」
「……そう。私にも優しい人だった」
「あら、覚えてるの? あたし、あの頃のあんたのこと嫌いじゃなかった。綺麗な子だなって。あんたの持ってる物は全部輝いて見えた。あたしの物になった途端に全部色褪せたけど」
「……そう。私はあなたが大嫌い。最初は好きだったけど」
「……そう」
私は『フランチェスカ』を抱きしめた。『フランチェスカ』は体を強張らせた。
「ちゃんと幸せにならなかったら許さない」
「……無茶言わないでよ。あんたの前から消えるだけで許して」
「ちゃんと生き抜かなかったら許さない。這ってでも何でも」
『フランチェスカ』は泣いた。私も泣いた。幼い頃、そうとは知らずに遊んだことのあった三姉妹。あの朧げな楽しかったあの日。私も熱を出して寝込んだから、もしかしたら夢だったのかもしれないと思っていた。あの後フランチェスカは亡くなっていたんだ……。知らなかった。
私の婚約者がお金の入った袋を用意した。
「手切れ金だ」
お金の入った袋をしばらく見つめた後、勢いよく掴み取った彼女は神殿から出て行った。彼女の背中を見送る間、私と婚約者は一言も話さなかった。
見ないふりをしてくれた神殿の職員にお礼と、騒いで迷惑をかけたとお金を渡し、フランチェスカがいなくなったこと以外表面上は落ち着いた。父は血筋を遡って継嗣を決めた。引き継ぎが終わったら父と継母は領地に送られるそうだ。二人の愛は変わらないらしい。ある意味凄い。
学園で私に冷たい目を向けた面々はフランチェスカの失踪を知ると謝罪しに来た。将来の公爵夫人と知って気が変わったのだろう。
「純粋なあなたが羨ましいわ」
そう伝えると、許されたと勘違いする者と顔を強張らせる者に分かれた。後者とは付き合いを続けた。嫌味を理解してくれる方が付き合いやすい。それだけ教養があるということだ。
結婚後、抽出魔法を使った薬の精製に本格的に関わることとなり、次々と新薬が市井に流れ始めた。ある日伯父が私を訪ねてきた。
「本当にありがとう。お蔭でお世話になった方のお嬢さんに薬を届けることができた。不純物が多い薬だと効果が出なくて困っていたんだ。もっと早く、という思いもあったがこればっかりは何ともできず歯痒かった。薬学の大家との縁を得ることになり、念願が叶うかもと思ったあの日の嬉しさは今でも忘れられない」
伯父が本当に愛する女性のための薬。いつも優しい義伯母の顔がチラついた。幸せそうに見えていた伯父夫婦の、思いもかけない事実を知ったその夜はなかなか眠れなかった。
夫は私を大切にしてくれている。でも本当に愛しているのかどうかは知らない。私は彼に感謝しているし、尊敬もしている。でも彼への激しい感情は、私の中には見つけられない。
間違いなく彼は私の人生を変えてくれた。やり甲斐のある仕事、名声、潤沢な資金、愛する娘と息子。彼は私に与えるばかりだ。私は彼に何が返せるのだろう。私を見て優しく微笑む彼を見ると胸に小さな火が灯る。
ああ、激しく燃え上がる訳ではないこの感情も、愛と呼ぶのだ、と思った。
完