エピローグ
その後、セフォレッタとアレクセイの婚約破棄が正式に発表された。
あの夜の騒動を知る者にとっては特に驚くようなことでもなかったが、事が事だけに次の王太子妃への注目が集まった。
オルヴァーグ公爵家の娘でも手に負えない男というレッテルが貼られた王太子に対し、国内から候補となる令嬢が出るはずもなく、結局は遠く離れた国と同盟を結ぶことを口実にその国の王女との結婚が決まった。これがまた苛烈で男勝りと噂の王女らしく、淑やかでふわふわとした女性が好みの王太子は今から怯えているという話だ。
彼自身、現国王の唯一の実子ということもあり廃嫡にこそされなかったが、後継者としての教育はやり直し。学園を卒業したにも関わらず、毎日帝王学を一から学び直す毎日らしい。
また、アレクセイを持ち上げていた取り巻きたちに対しても『前代未聞の醜態を晒す王太子を止めるどころか助長した』として国王が怒り狂い、各家が必死の火消しに回ったという。詳しくは知らないが、廃嫡になって庶民に落ちた者、出世を望めない役職に就かされた者、僻地の防衛という名目で飛ばされた者と様々な成れの果てが拝めたらしい。
そんな話をレイヴィンから聞くも、セフォレッタの胸中には特に何の感慨も湧かなかった。最早自分には関係のないことであるし、新しい婚約も整った今、アレクセイのことなど心底どうでも良かった。
そして、婚約破棄騒動からの慌ただしい日々が一転し、約1年が経過した。
穏やかな毎日を送る中、セフォレッタは久々に庭園でのお茶会を開いていた。
「セフィ様!」
「エセル」
公爵家の美しく咲き誇る花々の中に建てられた東屋の下。亜麻色の髪を結いあげ、翡翠色の瞳を輝かせたエセルの姿にセフォレッタは嬉しそうに微笑んだ。
「久し振りね。元気そうで嬉しいわ。しばらく顔を見ていなかったから心配していたのよ」
「セフィ様こそ、お会いしていない間にますます美しくなられて……! お元気そうで何よりです」
「貴女もよ。やはり好きな人と結婚すると幸せが滲み出るのかしら?」
セフォレッタの言葉にエセルが頬を染めた。幸福に満ちた表情を満足気に見つめ、セフォレッタはその背後に立つ人物に目を移す。
褐色の髪と黒い瞳の上背のある青年だ。優し気な風貌はどことなくエセルの纏う雰囲気と似ていた。
「貴方もようこそ。アーノルド子爵のご子息ね。何とお呼びすれば良いかしら?」
「お招きいただき光栄です、オルヴァーグ嬢。どうぞオルスとお呼びください。既に家を出た身、爵位はございませんので」
「そう。では、そう呼ばせていただくわ」
エセルの夫となったオルスの言葉にセフォレッタは頷いた。彼らを席に案内した後、セフォレッタは改めてエセルに祝いの言葉を贈る。
「手紙でしか伝えられていなかったけれど、改めて結婚おめでとう。貴女が幸せそうで嬉しいわ」
エセルとオルスの結婚の知らせが届いたのは学園を卒業してから数ヶ月後のことだった。
あれから無事に王太子から逃げおおせた彼女は、アーノルド子爵の三男・オルスと結婚した。
当初、周囲は王太子からの求婚を拒み、子爵家の子息と結婚したことに驚いていたが、彼が王立図書館の司書ということが分かると納得する者も多かった。いい歳をして公衆の面前で婚約破棄を叫ぶ王太子より、有能さの代名詞とも言われる王立図書館の司書の方が良い、という見解である。
1年前の婚約破棄騒動のことを思い出しながらしみじみとしていれば、エセルが幸せそうに頷いた。
「すべてセフィ様のおかげです。私一人ではきっとどうにもできなかったでしょうから……。本当に感謝しております」
「その節は大変お世話になりました。まさかエセルが王太子殿下に見初められていたとは……。知らなかったとはいえ、妻の大変な時に何の役にも立てずお恥ずかしい限りです」
「貴方が気に病む必要はないわ。それにエセルが殿下から逃げられたのも貴方を想う気持ちが強かったからよ。本当に、この子ったら暇さえあれば恋人の自慢話をしていたから……」
「えっ!? 私、そんなにオルスの話をしていましたか……?」
「ふふ、冗談よ。まぁ、話はよく聞いていたけれど」
焦るエセルと照れたように笑うオルスを見つめ、セフォレッタは悪戯っぽく微笑んだ。
学園を卒業してからは近況を伝える手紙のやり取りしかしていなかったため、こうして会うのは久しぶりである。懐かしさに目を細めながら、セフォレッタはそっと用意していた箱をエセルたちの前へと置いた。
「遅くなってしまったけれど、結婚のお祝いよ。貴女たちの家に送っても良かったのだけれど……どうしても直接渡したくて」
「まぁ、そんなこと……。お気持ちだけで十分なのに……」
「ふふ、私が用意したかったのよ。どうぞ開けてちょうだい」
恐縮するエセルたちが恐る恐る箱を開けると、中には二つの手帳と、それと対になるペンが収められていた。手帳の表紙とペンの軸にはそれぞれエセルとオルスの瞳の色と同じ石が埋め込まれ、どう見ても特注品だった。
「宝飾品よりも実用性のある物の方が良いと思ったの。これなら仕事でも使えるでしょう?」
「綺麗……。こんな素敵な品をいただいてしまっていいんですか……?」
「もちろんよ。これは結婚祝いでもあるけれど、貴女の司書試験の合格祝いでもあるんですもの」
ハッとエセルが目を丸くした。驚く彼女にセフォレッタは片目を閉じて答える。
「オルヴァーグ公爵家の情報網の精度は知っているでしょう? 私に隠し事ができると思って?」
「今日、驚かせようと思っていたのに……!」
「ふふ、私の方が上手だったわね。……おめでとう、エセル。夢を叶えた貴女を誇らしく思うわ」
王立図書館の司書になりたい。それがエセルの夢だった。
セフォレッタの祝福にエセルが目を潤ませた。それでも次の瞬間には心の底から嬉しそうに微笑みを返す。
「ありがとうございます。そのお言葉に恥じぬよう、誠実な仕事をすると誓います!」
「その心意気よ。何か困ったことがあれば私を頼ればいいわ。でも、私ももうすぐ隣国へと嫁いでしまうから、直接何かをすることはほとんどできないけれど……」
何気なく呟いた言葉にエセルが目に見えて肩を落とした。
「そうでした……。セフィ様は隣国へ行ってしまわれるんですよね……。ご結婚はめでたいことですが、寂しいです……」
「隣国なんてすぐに行って帰って来られる距離でしょう? 結婚式には貴女たちも招待するから参加してくれると嬉しいわ」
「もちろんです! 絶対に参加します! それと、その……」
エセルがそろりと上目遣いにセフォレッタを見つめ、口ごもる。
「これからもお手紙を書いていいですか……?」
「当たり前でしょう? むしろ貴女が書かなくても私から一方的にに書くつもりだったわ」
不安げな顔をするエセルの言葉にセフォレッタは軽やかに笑って答えた。
婚約破棄騒動後、新しい婚約者が決まらなかったのはアレクセイだけではなく、セフォレッタもまた同様だった。ただし彼女の場合、立候補者が多すぎて収拾がつかなかったわけだが。
何せ王妃となるべく育てられた名門オルヴァーグ家の一人娘。麗しの美姫と貴ばれる美貌と公爵家の後ろ盾を欲する王侯貴族は星の数ほどいる。アレクセイとの婚約破棄が正式に発表された後、公爵家には連日セフォレッタへの求婚者や手紙が列を成し、レイヴィンが『全員まとめて国外追放にしてやろうかなぁ……』と暗い目で呟くほどだった。
セフォレッタとしてはどのみち政略結婚。どこの誰に嫁いでも同じことだと思い、レイヴィンや公爵家にとって都合の良い相手ならば誰でもいいとだけ伝えていた。
そして、あの騒動から数ヶ月後、新たな婚約者が決定したのだ。
「セフィ様を妻にされるサンシェル公爵様は幸せ者ですね」
にこにこと笑うエセルの言葉にセフォレッタは何も言わずに微笑んだ。
セフォレッタの新しい婚約者の名はユリウス・サンシェル。
隣国サンシェル公爵の当主にして、レイヴィンの友人。
そして、セフォレッタの初恋の相手であった。
「――セフィ」
不意に呼ばれた自分の名に、セフォレッタはふと我に返った。
隣に視線を向ければ、心配そうに自分を見つめる夫の姿がある。
「どうかしたかい? さっきからぼんやりとして……」
「……少し、昔のことを思い出していましたの」
ゆったりと長椅子に腰掛けながら、セフォレッタは記憶を辿るように目を細めた。母国に住む友人の懐妊を知らせる手紙を封筒の中に収め、隣に座る夫の肩へと頭を預ける。
「友人からの手紙を読んでいたら、かつて彼女と仕組んだ計略のことを思い出してしまって……。ふふ、王太子殿下を相手にするなんて、今思えば結構大胆でしたわね」
「大胆な計画でも成功させた君の度胸と知略を尊敬するよ。大した奥方だ」
「光栄ですわ。――ねぇ、ユリウス様」
首を傾け、髪を撫でる夫・ユリウスの顔を覗き込む。理知的な琥珀色の瞳を見つめ、セフォレッタは柔らかく微笑んだ。
「あの舞踏会でのことがなかったら、私はきっと貴方と結婚できませんでしたわ。だから、その点だけはあの王太子に感謝しておりますの」
王太子からの婚約破棄宣言。
どのみち、あの時点で婚約破棄は確定していたわけだが――アレクセイが婚約破棄を叫んだあの夜の舞踏会は国内の貴族の他、国外の貴族も多く参加していた。もちろん、ユリウスも例の騒動の一部始終を知っている。
王太子の浅慮と迂闊さ、思い込みの激しさとセフォレッタに対する暴言の数々――。
これまで人伝の噂でしか知り得なかった王太子の婚約者に対する最悪な態度を目の当たりにした隣国の公爵は、その瞬間、セフォレッタに求婚することを心に決めたそうだ。
友人の妹であり王太子の婚約者。たとえ心奪われても隣国の公爵という身分では手に入らない高嶺の花。ゆえに、せめて良き兄の友人であろうと自分を律していたが、あの夜の出来事で話が変わったという。
その話をユリウス自身から聞いた時、セフォレッタは心底驚いた。ユリウスから恋い慕われていることなど全く気付いていなかったのだ。
ユリウスの求婚に戸惑うセフォレッタにレイヴィンは何とも複雑な、それでいて慈愛に満ちた表情で言った。
『前にも言っただろう? 僕はお前が本当に望むのならばどこに嫁いだっていいし、逆に無理して嫁がなくてもいいって。……ユリウスは必ずお前も幸せにするよ』
セフォレッタの言葉にユリウスは苦笑した。昔から変わらない優しい眼差しのまま、セフォレッタの身体を抱きしめる。
「レイヴィンに君へ求婚したい旨を告げた時、『ようやく覚悟が決まったのかい?』と笑顔で言われた時が一番恐ろしかったけれど、君がそう言ってくれて嬉しいよ」
「お兄様も素直ではありませんこと。私の結婚相手がユリウス様であることを誰よりも喜んでいらっしゃるはずなのに」
「それはそれとして、可愛い妹が他の男の物になるのは面白くないんだよ。男なんてそういうものだからね」
「ふふ、殿方って難儀な方ばかりですわね」
そう言いながら、セフォレッタは膝の上に置いたエセルからの手紙をそっと撫でた。
母国で王立図書館の司書として働く彼女から定期的に届く手紙は、いつもセフォレッタの幸せを願う言葉が綴られている。
彼女自身の人格を表すような優しい文章を思い出し、セフォレッタは美しい微笑みを浮かべる。
もう少し落ち着いたら、エセルへ懐妊祝いの贈り物を送るつもりだ。それに同封する手紙に書かれたことを、彼女はきっと自分のことのように喜んでくれるだろう。
その光景を想像しながら、まだ膨らみが目立たない自身の腹に手を添える。
「……私、幸せですわ」
心からの言葉を唇に刻んで、セフォレッタはそっと目を閉じた。
これにて完結です。
お読みいただきありがとうございました。
n番煎じの婚約破棄モノを少し捻ってできた話でした。
エセル視点の話も書いてみたい気がするので、そのうちひっそりと追加するかもしれません。
その際はよろしくお願いいたします。