計略⑨
きぃん、と頭に響く高い声に顔を顰めるセフォレッタの背に縋りながら、エセルがぶるぶると震えていた。
怯えているのかと思ったが、アレクセイを睨む眼力の強さにそうではないと悟る。
「あなたと結婚するなんて絶対に嫌! そんなことになるくらいなら馬に蹴られて死んだ方がマシだわ!!!」
「エ、エセル……?」
「大体、あなた方のせいで私が学園でどんな目に遭っていたかお分かりになります!? これまで余計な荒波を立てないように細心の注意を払って大人しく過ごしていたのに、あなた方が全てをひっくり返したから台無し! 台無しになったんです! 本当に迷惑だった! それに私は好きな人がいて結婚の約束をしていると何度も伝えたじゃありませんか。 それなのに結婚? あなたと? 冗談じゃないわ! そもそも私、いつあなたが好きだと言いました? 一度も言っていませんよね? 身分のことを考えて精一杯やんわりと遠回しに伝えていたからわかりませんでした? あなたが嫌いだってはっきり言わないと分かりません!?」
凄まじい剣幕でまくし立てるエセルの姿に誰も何も口を挟めなかった。
思慮深く淑やかな姿しか見せなかった彼女が、これまでの怒りを爆発させるかのように叫んでいる。アレクセイは唖然とし、取り巻きたちは言葉を失い、セフォレッタも思わず目を丸くする。
そんな周囲の様子など気にも留めず、可憐な顔に怒りを浮かべたエセルが息を弾ませながらも続ける。
「あなた方の行動にはただでさえ迷惑していたのに、ここにきて勝手な憶測でセフォレッタ様まで貶めるなんて……! ふざけるのも大概にしてください。セフォレッタ様も公爵様も反逆なんて企てていません! 私のような者にも良くしてくださる素晴らしい方々です! どうか愚かな戯言に惑わされないでください……!」
最初はアレクセイたちに向け、最後は周囲の観衆たちに向け、胸の前で祈るように手を握り、エセルは涙ながらに叫んだ。
呆気にとられる周囲の視線を一身に集め、やがて緊張の糸が切れたのか声もなく泣き出すエセルの肩をセフォレッタは優しく抱き締める。
「よく言ったわ。頑張ったわね」
「セフォレッタ様……」
「そんなに泣いてはダメよ。綺麗な顔が汚れてしまうじゃない。それに淑女たるもの、人前で泣くのはおよしなさいと言ったでしょう?」
「でも、でも……私、悔しくって……。セフォレッタ様たちは何も悪くないのに、あんなことを言われて、おまけに反逆の疑いまで掛けられるなんて……」
「あら、そんなに心配しなくても大丈夫よ。あんな戯言、ここにいるどなたも本気になんてしてないわ」
ぽろぽろと溢れるエセルの涙を指先で拭いながらセフォレッタはにっこりと微笑んだ。
「我が家が本気で反逆を企んでいたら、殿下はとっくに王太子ではなくなっているもの」
「――まったく、その通りだね」
まるで天気の話をするような軽やかさで答えたセフォレッタの言葉に同意が返される。
視線を向けると人々の間からレイヴィンが優雅に現れるところだった。
「お兄様」
「やぁ、セフィ。僕が少し離れていた間に随分と面白いことになっているね」
輝くばかりの美貌に殊更美しい笑みを浮かべ、けれどその瞳にはどす黒くすらある怒りを浮かべ、オルヴァーグ家の当主がセフォレッタと並び立つ。
天使の如く美しい兄妹の姿にアレクセイが引き攣った表情を浮かべるのが見える。
「王太子殿下にご挨拶申し上げます。――何やら、私の妹と楽しいお話をされていたようで。ぜひ私も混ぜていただけませんか? 兄として、オルヴァーグ家の当主として、大変興味がございます」
「オルヴァーグ公……貴殿も参加していたのか……」
「今夜は王家主催の舞踏会。あなたの門出を祝うめでたい席に招待されて参加しない貴族はおりません。それに、我が家は建国より王家を支えてきた家門の一つ。あなた方に尽くしてきたという自負がございます。――そう、我が妹も含めて」
レイヴィンが微笑む。天使のように美しいのに悪魔のように恐ろしい壮絶な笑みだった。
アレクセイたちが気圧とされたように息を呑み、それでも負けじと胸を張った。
「それはそうだな。しかし、オルヴァーグ公。聞けば貴殿の妹と私の婚約は破棄されたと聞いた。私には知らされていなかったが、残念なことだ。もうじき父上からも通達が行くと思――」
「ああ、そのことならご心配なさらず。婚約破棄に関しては私から国王陛下へ申し出まして、それはもう大変快く、喜びながら婚約破棄の書面をくださりました。ほら、これが証拠です」
レイヴィンが連れていた侍従から一枚の書簡を受け取り、アレクセイへと提示した。そこには間違い
なく王家とオルヴァーグ家の印が押され、セフォレッタとアレクセイの婚約破棄を宣言する文言が綴られていた。
ちなみに、セフォレッタとアレクセイの婚約破棄についてはレイヴィンが秘密裏に話を進めていた。
当初、王家はなんだかんだ渋ったらしいが、元よりアレクセイのセフォレッタに対する態度は有名であったし、 それを強く諫めなかった国王夫妻への怒りもあり、レイヴィンが穏便に婚約破棄を強行したらしい。普通ならあり得ないが、それが許されるのがオルヴァーグ公爵家である。
その結果、セフォレッ タとアレクセイの婚約破棄はごく一部の人間にしか知らされておらず、今この瞬間に知らされる者がほとんどだった。
「誠に残念ながら、王太子殿下には我が妹の素晴らしさはご理解いただけなかったようで。どこに出しても恥ずかしくはない我が家の至宝ですが……殿下のご趣味にはそぐわなかったようですね」
再び書簡を侍従に預け、レイヴィンはにこりと笑った。その笑みの不穏さにセフォレッタに縋りつくエセルが怯えたように肩を震わせた。
「殿下のご趣味に苦言を呈する気はございませんが……既に婚約者のいる令嬢を無理やり我が物にしようとするのは紳士としてあるまじき行為かと存じます。――そうは思いませんか?」
レイヴィンが周囲に問いかければ、参加者たちが戸惑いながらも首肯する。詳しい事情は不明だが、客観的に見てもアレクセイたちが無茶苦茶なことをしていることは明白だった。
レイヴィンの言葉に次々と同意を示す貴族の多さに今頃自分たちの劣勢を悟ったのか、アレクセイが慌てたようにエセルを見た。その瞳には驚愕と戸惑いが浮かんでいる。
「エセル……どうして……。婚約者がいるだなんて一言も言っていなかっただろう!」
「私は何度も結婚の約束をしている方がいると申し上げました! あなたがろくに私の話を聞いていなかっただけです!」
今更被害者のような顔をするアレクセイにエセルが反論する。
先ほどの姿といい、今の突き放すような言葉といい、これまで可憐で清楚な姿しか見せなかったエセルの変貌にアレクセイはよろよろと崩れ落ちそうになった。
しかし、まだ何かの間違いである可能性を捨てきれない。
「それは……君がセフォレッタに脅されて、そういう嘘をついているのだとばかり……。そ、それに結婚の約束といっても愛のない政略結婚だろう……?!」
「私とオルスは相思相愛です!」
「相思相愛!?」
アレクセイが衝撃でよろけた。取り巻きが慌てたようにその身体を支える。
「そんな……。それでは、君は私の心を弄んでいたというのか……? その可憐な微笑みの下で愛に溺れる私を嘲笑っていたというのか……? これまで私なりに真摯に君を愛してきたというのに、この気持ちは君には届いていなかったというのか……!」
何を言っているんだこの男は。
突然始まった茶番にセフォレッタは天を仰ぎそうになった。エセルは理解できないものを見る目をしているし、周囲に関しては状況がわからないながらも王太子の醜態に眉を顰める者がほとんどだ。
急激にこれまでの勢いを失っていくアレクセイにセフォレッタは溜め息をつき、ついでに止めの一撃をお見舞いした。
「お言葉ですが……全て殿下の思い込みと勘違いだったようですわね。独りよがりな愛なんて誰も幸せにはなれませんわ」
「勘違い……!? 独りよがり……わ、私のどこが……っ」
「私から言わせれば、身分を盾にして求愛を迫っていた気持ちの悪い男性にしか見えませんでした」
「気持ちの悪い……!?」
「そもそも婚約者がいる身の上で他の女性に求愛すること自体、恥知らずだと思いませんこと?」
冷ややかな言葉にアレクセイが反論しようと口を開こうとする。しかし、上手く言葉にならないのか、ぱくぱくと中途半端に開け閉めするだけだった。
そんな彼を見下ろし、セフォレッタは冷たく言い放つ。
「自らの責任も果たせないのに愛だの真摯だのと……一体、どのお口が仰るのかしら?」
婚約者がいる身で他の女性との結婚を目論むなど、身分がどうこう以前に人としての常識を疑ってしまう。誰に対しても真摯さの欠片もない。
それに、仮にセフォレッタがエセルのことを助けず、彼女を王妃にするというアレクセイの試みが上手くいったとして、次に同じことが起こらないと誰が言えるだろうか? 王太子でありながら貴族の掟を容易く破り、自分勝手な婚約破棄を告げる相手を信じられるだろうか?
貴族の面倒な掟は秩序であり、同時にその身に背負う責任でもある。
王太子であれば責任は更に重く、国王ともなれば言わずもがなだ。
その覚悟と考えがアレクセイにはない。まるでいつまでも幼い子供のよう。しかし、それを補完できる存在だったセフォレッタはもう、彼の隣にいない。
セフォレッタの言葉にアレクセイの顔が歪んだ。震える手でセフォレッタに指を突き付ける。
「それを言うならお前だって恥知らずだろう……! 私の愛を得られないからとエセルに酷い嫌がらせをしていた! 自らの責任を果たせというのなら、身分を盾に醜い嫌がらせをしたお前の卑劣さを見過ごすことは王太子として看過できない!」
「その通りです! 我らは何も理由なくオルヴァーグ嬢を責めていたわけではありません。これは証拠を掴んだ上での正当な申し出なのです!」
「こちらは証拠も証人も準備しております。それを確かめもせずに決めつけるそちらこそ、何か後ろ暗いことがあるのでは?」
「そうだ! 正義は俺たちにある!」
アレクセイに続いて取り巻きたちも騒ぎ出す。最後の足掻きと言わんばかりの様子に呆れると同時に、この状況においても逆転を狙おうとする心意気は見習いたくもある。
しかし、全てが遅かった。
「私物や教本、衣服の損壊に形見の盗難! 全て証拠はある! このような嫌がらせをするなど、お前こそ貴族の風上にも置けない――」
「あら、おかしなこと。エセルさんへ嫌がらせをしていた犯人ならば、既に自分から名乗り上げて彼女へ謝罪をしておりましてよ?」
「――は?」
セフォレッタは微笑んだ。
そう、エセルへ執拗な嫌がらせを繰り返していた人物たちは既に特定し、彼女の前で謝罪をさせている。ちなみに犯人は下位貴族の子女たちだった。エセルと王太子たちの関係をやっかみ、アレクセイが言うような地味かつ悪質な嫌がらせを繰り返していたらしい。
ただ、まさかオルヴァーグ公爵家がエセル側に付いているとは夢にも思わなかったのか、皆一様に謝罪の席でエセルと並び立つセフォレッタの姿をこの世の終わりのような顔をして見ていた。
「汚損された教本や衣服は既に相手の家から弁償されておりますし、何なら相手のご両親からの謝罪状もございますわ。きちんと家紋の印付きで。それにエセルさんのお母様の形見だって――ほら、ここに」
セフォレッタがエセルの腕を示した。
真珠と小さな翡翠の付いたプレスレット。彼女が肌身離さず身に付けていた亡き母の形見だ。今日の派手な装いの中では目立たないが、それでも質の良い品だということが一目でわかる。
「盗まれた後、下町の宝飾屋に売り払われておりましたの。私が私財を投じて買い戻しましたわ。何やら私の名で売られていたようですけれど、その犯人も見つけております。もちろん、証人も」
美しく微笑み、セフォレッタはアレクセイを見据えた。
「エセルさんは私の大事な友人です。友人が悲しむことを私がするはずもありませんわ。それに、こちらには公的な証拠も身元が確かな証人も準備がございますが――これでもまだ、私をお疑いになりますの?」
アレクセイのとんでもない婚約破棄計画を聞いてから公爵家の伝手を最大限に行使した成果である。
期間は1ヵ月も必要とせず、拍子抜けするほど簡単に解決したことにレイヴィンと「やりがいがない」と文句を交わしたほどだった。
そう、すべてが呆気なかった。その気になればアレクセイ自身でも簡単に解決できる程度の問題だったのだ。
本当に彼がエセルを想うのならば、いくらでも解決の手段はあったにもかかわらず――アレクセイは何もしなかった。
それどころか、エセルの不幸をセフォレッタへの断罪の理由へと利用した。アレクセイの言う『愛』がどの程度のものが窺い知れるだろう。
言葉を失うアレクセイたちから視線を外し、セフォレッタは周囲の参加者たちを見る。
「オルヴァーグ公爵家の名に賭けて、私は私自身の身の潔白を証明いたしますわ」
水を打ったように静まり返る空間にセフォレッタの凛とした声が響く。
完全に出鼻を挫かれたアレクセイたちが呆然とする中、不意に国王夫妻の登場を告げる声が聞こえた。