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図書室の片隅で、キミと落ちる恋

作者: W732

 第1章:ページの海、君の影

 春の気まぐれな陽光が、図書室の窓から差し込んでいた。埃を含んだ光の粒が、古びた書架の間を漂う。佐倉ひかりは、いつもの定位置である窓際の席に座り、文庫本のページをめくっていた。図書室は、彼女にとっての聖域だった。人見知りで、賑やかな場所が苦手なひかりにとって、ここだけが唯一、心を落ち着かせられる場所だった。

 ひかりは、本の中の世界に没頭する。登場人物たちの感情の揺れ動き、異国の風景、未知の知識――ページをめくるたびに、ひかりの世界は無限に広がっていった。現実世界では目立たない存在の自分も、ここでは誰にも邪魔されず、自由に呼吸できる気がした。

 図書委員でもないのに、ひかりはほとんど毎日、放課後になると図書室に入り浸っていた。新しい本が入荷すれば真っ先にチェックし、貸し出し棚に戻された本は、まるで旧友と再会するかのように手に取った。本の香りが好きだった。紙の匂い、インクの匂い、そして長い間多くの人々に読まれてきた時間の匂い。それらが混じり合った、図書室独特の匂いがひかりを包み込んでいた。

 その日も、ひかりはミステリー小説を読み終え、次の本を探していた。書架の間を縫うように歩き、背表紙を指でなぞる。ふと、ひかりの目がある一点に引きつけられた。それは、普段なら誰も見向きもしない、古典文学の書架の奥。そこに、明らかに場違いなものが置かれていた。鮮やかな青色の、古びた文庫本。それは、ひかりがずっと探していた、絶版になっているはずの詩集だった。

「あった……!」

 思わず小さな声が漏れる。手が震えるのを抑えながら、そっとその本を引き抜いた。興奮を抑えきれず、すぐにでも読みたかった。ひかりは足早に、いつもの窓際の席に戻ろうとした。

 その時だった。

「あ、それ」

 背後から、不意に声がかけられた。ひかりは心臓が飛び跳ねるほど驚き、振り返った。そこに立っていたのは、全く予期せぬ人物だった。

 氷室優斗。

 ひかりと同じ学年で、クラスは違う。成績は常にトップで、運動神経も抜群。加えて、背が高く、整った顔立ち。彼が歩けば、女子生徒たちの視線は一斉に彼に集中した。ひかりとは、まるで住む世界が違うような、まさに人気者の代表格だった。そんな彼が、なぜ、こんな図書室の奥に? しかも、自分に話しかけてくるなんて。

 ひかりは慌てて手に持っていた詩集を隠そうとしたが、もう遅い。優斗の視線は、確かにその本に注がれていた。

「それ、俺の」

 優斗はそう言って、ひかりの手元の詩集を指差した。ひかりは混乱した。この本は、絶版のはず。なぜ彼が、こんな詩集を?

「……え、でも、この本は、絶版で……」

 ひかりの声は上ずっていた。優斗は困ったように眉を下げた。

「いや、俺が昨日、ここに置いていったんだ。友達に貸してたのが返ってきて、ついそのまま置きっぱなしにしてた」

 彼はそう言うと、気まずそうに頭を掻いた。ひかりは顔が熱くなるのを感じた。他人の忘れ物を、勝手に自分のものだと思い込んでいたなんて。穴があったら入りたい気持ちだった。

「ご、ごめんなさい!知りませんでした。すぐに返します」

 ひかりは詩集を差し出した。しかし、優斗はそれを受け取ろうとしない。

「いや、いい。君が読みたそうにしてたから。もしよかったら、先に読んでいいよ」

 優斗は少し微笑んだ。その笑顔は、普段見せるクールな表情とは違い、どこか優しげだった。ひかりは驚いて彼を見上げた。人気者の彼が、どうしてこんな自分に?

「でも……」

「いいから。俺はまた明日取りに来るから。それまで、ゆっくり読んで」

 優斗はそれだけ言うと、書架の陰に消えていった。ひかりは、彼が完全に立ち去った後も、しばらくその場に立ち尽くしていた。手に残る詩集の重みが、現実のものとは思えなかった。

 図書室は、再び静けさを取り戻した。けれど、ひかりの世界は、もう以前と同じではなかった。古びた詩集のページをめくるたびに、優斗の影がそこにあるように感じられた。そして、明日、彼がこの詩集を取りに来る。その事実が、ひかりの胸を甘く締め付けた。

 これは、ただの偶然だろうか?それとも――。

 ひかりは、ページの端から少しだけ覗く優斗の、几帳面な書き込みを見つけた。彼の、もう一つの顔。図書室の片隅で始まった、奇妙な出会い。ひかりの心は、静かに、けれど確実に、動き始めていた。


 第2章:秘密の交換、心の距離

 翌日、ひかりはいつもより早く図書室に行った。手にしているのは、一晩で読み終えた優斗の詩集だ。文字の一つ一つを丁寧に追いながら、彼の意外な一面を知った。普段のクールな印象からは想像できないほど、感情豊かな詩を選び、鉛筆で細かな書き込みがされていた。

「朝から来てるんだ」

 不意に、背後から声がした。振り返ると、そこには優斗が立っていた。昨日の出会いが夢ではなかったことに、ひかりは少しほっとした。

「あ、はい。読み終わりました。ありがとうございました」

 ひかりは詩集を差し出した。優斗はそれを受け取ると、ぱらぱらとページをめくった。

「どうだった?これ」

 優斗が尋ねた。ひかりは、彼の書き込みについて話そうか迷ったが、結局言葉を飲み込んだ。

「とても、素敵でした。特に、この詩が……」

 ひかりは、自分が一番心を惹かれた詩のページを開いた。それは、孤独と希望を歌う詩だった。優斗は、ひかりが指差した詩に目を落とし、小さく頷いた。

「ああ、俺もこの詩が好きだ。孤独を謳いながらも、どこかで光を求めている。そんなところに惹かれるんだ」

 彼の言葉に、ひかりは共感を覚えた。人気者の彼も、案外、孤独を感じることがあるのだろうか。

「君は、どんな本を読むの?」

 優斗がひかりの借りていた本の履歴を見て尋ねた。ひかりは少し恥ずかしかった。彼女が読むのは、あまり人が手を出さないような、古いSF小説や哲学書ばかりだったからだ。

「えっと……SFとか、ちょっと難しい本が好きで……」

「へえ、意外だな」

 優斗はそう言って、少しだけ楽しそうに笑った。その笑顔に、ひかりの心はまた、小さく跳ねた。

 その日以来、二人の間には、図書室での秘密の交換が始まった。優斗はひかりに、自分が面白かった本を教えてくれた。最初は詩集や文学作品だったが、次第に彼が趣味で読むという、歴史書や科学書にまで及んだ。ひかりもまた、彼におすすめの本を教えた。それは、彼女の愛するSF小説や、思わず感情移入してしまうようなファンタジー小説だった。

「これ、君が読むって言ってたやつ」

 優斗が貸してくれたのは、彼の愛読書だという分厚い歴史書だった。ひかりは驚いた。

「え、こんなに難しい本、私に読めるかな……」

「大丈夫。君なら読める。この作者の視点が好きでさ。もしよかったら、この部分、読んでみてくれ」

 優斗はそう言って、あるページを開いた。そこには、彼が引いた赤い線と、小さな文字で書かれた感想がびっしりと書き込まれていた。ひかりは、その丁寧な文字に、彼の真面目な性格が滲み出ているのを感じた。本を通じて、優斗の思考や価値観が、ひかりの中に流れ込んでくるようだった。

 ひかりも、彼に貸す本に、小さな付箋を貼るようになった。印象に残ったセリフや、考えさせられた部分に、一言二言、自分の感想を添える。すると、優斗もまた、別の色でその付箋の横に返事を書いてくれるようになった。

「この主人公の葛藤、わかる気がする。(優斗)」

「私もそう思います。でも、それでも前に進む勇気が、すごい。(ひかり)」

 図書室の本のページが、二人の交換日記のようになっていった。言葉を交わすだけでは伝わらなかった、お互いの心の奥底にある感情や考えが、本を介して通じ合っていく。

 優斗は、ひかりが思っていたよりも、ずっと読書家だった。しかも、読むジャンルは多岐にわたり、深い洞察力を持っていた。普段、クラスで冗談を言い合い、常に笑顔を向けている彼の、もう一つの顔。そして、彼もまた、ひかりがただの地味な本好きではないことに気づき始めていた。彼女の繊細な感性や、知的好奇心に、優斗は惹かれていった。

 ある雨の日、図書室にいるのは二人だけだった。窓を打つ雨音が、静かな空間に響く。ひかりが読んでいた小説について、優斗が尋ねた。

「その小説、面白い?」

「はい。登場人物の、ちょっと不器用な恋が、応援したくなるんです」

 ひかりはそう言って、少しはにかんだ。優斗は、その小説の表紙をそっと撫でた。

「不器用な恋か……。俺は、そういうの、苦手だな。どうしたらいいか、わからなくなる」

 彼の言葉は、いつもの自信に満ちた優斗とは違っていた。ひかりは驚いて彼を見た。

「氷室くんでも、そういうこと、あるんですか?」

「あるさ。俺だって人間だから」

 優斗はそう言って、少しだけ困ったように笑った。そして、ひかりの目を見て、まっすぐに言った。

「君と話していると、面白い。他の誰とも違う」

 その言葉に、ひかりの心は激しく脈打った。それは、告白の言葉ではなかった。けれど、ひかりにとっては、これまで誰からも言われたことのない、特別な言葉だった。

 図書室の静かな空間で、本を通して深まる二人の心の距離。それは、誰にも邪魔されない、秘密の場所で育まれる、特別な絆だった。けれど、この秘密の関係が、いつかこの静けさを破る時が来ることを、ひかりはまだ知らなかった。


 第3章:ページの終わりに、君と落ちる恋

 二人の秘密の交換は、当たり前のように日常に溶け込んでいった。優斗が貸してくれた本には、いつも彼が読んだ証が残されていた。ページの端を折った跡、鉛筆で小さく引かれた線、そして、時折挟まれた小さなメモ。ひかりはそれを見つけるたびに、彼がこの本の、どの部分に心を動かされたのかを想像した。そして、自分の感想を添えた付箋を貼って、彼に返す。それは、まるで二人の間でしか通用しない、特別な会話だった。

 ひかりは、優斗の読書遍歴から、彼の意外な一面を次々と知っていった。彼は成績優秀で完璧に見えるけれど、実は歴史の失敗談を読み込んでは「人間って愚かだな」と呟く、少し皮肉っぽいところがあった。SF小説の壮大な世界観に感動し、未来への希望を語る、ロマンチストな一面もあった。そして、時折、彼が書き残す「もし、この主人公が僕だったら、どうしただろう?」という言葉からは、彼が常に深く物事を考え、自分自身と向き合っていることが伝わってきた。

 ある日、ひかりは優斗に、あるラブストーリー小説を貸した。それは、主人公が不器用ながらも片思いを実らせる物語だった。数日後、その本がひかりの元に戻ってきた。ページをめくると、最終ページに、小さな付箋が貼られていた。

「不器用な恋も、悪くないね。…でも、もう少し、素直になってもいいと思う。(優斗)」

 その言葉に、ひかりの胸は高鳴った。彼は、この本を読んで、何を思ったのだろう。もしかして、彼の言う「不器用な恋」とは、彼自身のことだろうか。それとも――。

 ひかりは、もう自分の優斗への感情を誤魔化せなくなっていた。本を介した交流は、いつしか彼の全てを知りたいという、強い恋心へと変わっていたのだ。

 季節は巡り、秋が深まっていた。文化祭の準備で、図書室にも普段は来ない生徒たちが賑やかに出入りするようになった。二人の秘密の時間は、以前よりも少なくなった。そんなある日の放課後、ひかりが書架の整理をしていると、優斗がひょっこり現れた。

「最近、会えなかったな」

 優斗が、少し寂しそうに言った。ひかりの心臓が、ドクンと跳ねた。それは、彼女が密かに感じていたことだった。

「うん……」

 優斗は、ひかりの隣に立ち、彼女が整理している本に目をやった。それは、彼が以前ひかりに貸してくれた、あの絶版の詩集だった。

「この詩集、まだ君のところにあったんだな」

 優斗は、詩集を手に取った。そして、パラパラとページをめくる。ひかりは、彼がどのページを見ているのか、じっと彼の表情を追った。彼が指を止めたのは、ひかりが初めてこの詩集を手にしたとき、一番心を惹かれた詩のページだった。

「この詩を、君が好きだと言った時、俺は少し驚いたんだ」

 優斗はそう言って、ひかりを見た。

「僕がこの詩集を好きだと言うと、みんな、ちょっと意外そうな顔をする。俺がこういう詩を好きだとは思わないんだろうな」

 彼は小さく笑った。その笑顔は、どこか寂しげに見えた。

「私も、氷室くんがこの詩集を好きだと知った時、驚きました。でも……」

 ひかりは、勇気を振り絞って言葉を続けた。

「でも、その意外な一面を知って、もっと氷室くんのこと、知りたいって思いました。…この詩集を読んで、氷室くんは、私と似てるのかなって、勝手に思ったりして……」

 ひかりの声は震えていた。顔が熱くなるのを感じる。優斗は、ひかりの言葉にじっと耳を傾けていた。そして、ゆっくりと、彼が持っていた詩集を、ひかりの手に重ねて戻した。

「君は、俺が見てきた誰よりも、俺のことを理解してくれているのかもしれない」

 優斗の言葉が、ひかりの心を強く揺さぶった。彼の瞳は、ひかりの瞳をまっすぐに見つめている。その眼差しは、今までひかりが見たことのない、真剣な光を宿していた。

「佐倉さん」

 彼は、初めてひかりを下の名前で呼ばなかった。そのことに、ひかりの心はさらに高鳴った。

「この本を、君にあげるよ」

 優斗はそう言って、ひかりの手にある詩集をもう一度、優しく包み込むように握った。

「君とこの詩集を通じて話している時間が、俺にとって一番、素直な自分になれる時間だった。だから、君が読んでくれるのが、一番嬉しい」

 彼の言葉は、まるで詩の一節のように、ひかりの心に深く染み渡った。そして、彼は続けた。

「それに……この詩集には、まだ書いてない、俺の気持ちが、たくさんあるから」

 優斗は、そっとひかりの手に触れたまま、その指で詩集の最後のページをなぞった。その指先が、ひかりの心臓に直接触れたかのように熱い。ひかりは、もう、どうすることもできなかった。

「俺は、君が好きだ」

 図書室の静寂の中、優斗の声がはっきりと響いた。外の喧騒が遠く聞こえるが、ひかりの耳には、彼の言葉だけが、まるで魔法のように響き渡った。

「私も……私も、氷室くんが好きです」

 ひかりは、震える声で精一杯答えた。優斗は、その言葉を聞いて、そっとひかりの手を握りしめた。彼の瞳には、星の光のように、優しさと喜びが輝いていた。

 図書室の片隅。二人が初めて出会った書架のすぐそばで、ひかりは、彼と共に、恋という名の新しいページを開いた。それは、これまでどんな本にも書かれていなかった、二人の、本当の物語の始まりだった。本の香りが漂うこの場所が、二人にとって、永遠に特別な場所となることを、ひかりは知っていた。

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