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紅茶を入れるや給仕はお辞儀ひとつ残して部屋を後にした。もちろん、部屋のドアは開いている。
王都有数の格式高いレストランは、アフタヌーンティーもやっていたらしい。あるいは特別なお客様だけの特別なサービスなのか。
落ち着いた飴色の家具を中心に、品良く飾られている高価な調度品の数々。どう見ても一般客が通される筈のない部屋だ。
長い足を静かに組みながら紅茶をひと飲みしたロベルトは、いまだ手をつけずにいるリリスにくすりと笑みをこぼした。
「何がそんなにご不満?」
「……なにもかもが」
「えぇ~、なんでよぉ。自分で言うのもなんだけど、かなりの優良物件よ、俺」
ぶすりと無愛想な態度のリリスとは対照的に、ロベルトはますます楽しげに相好をくずした。
「ええい!ずっっっっと我慢してたけど、ロベルト様はそんな口調で喋らない!へらへらもしないし、もっと高貴なオーラを纏ってて自分にも他人にも厳しいお方で、だけどふと見せる雪解けのような微笑みが最高なのよ!お前は誰だ!」
「ロベルト・マルカート様でーす」
「くっそおおおおおおおおおおおおおおお」
崩れ落ちるようにテーブルへ突っ伏したリリス。ガシャンと派手な音でカップが揺れる。それを心配するでも怒るでもなく、ロベルトは腹を抱えて笑いだす。
貴族らしく、目尻を拭う指の先まで整っていて、リリスの心中は無性にありがとうを叫びたい気持ちとこれまでの苛立ちとでぐちゃぐちゃだ。
そうとは知らないロベルトは、ひとしきり笑った後に紅茶をごくりと飲み干した。
「あー、笑った笑った。……ごめんな?ていうか、さっきの言い分だと俺って何かしらの登場人物だったり?気付いたら転生してました~くらいの認識だったからさぁ」
「……私も最近気付いたばかりだけど、女性向けアプリの世界みたいなのよね、ここ」
「どーりで。単位とか暦とかちょっとした文化とか、西洋っぽい世界観のくせに日本と同じだもんな。あと無駄にイケメンが多い。はあ~、なるほどなるほど」
案の定というか、ロベルトもリリスと同様、転生者だった。それも似たような時代、同じ日本からの。
滑らかに喋るロベルトによると、ガッツポーズのようにそもそも概念のないものもあれば、別の名称で呼ばれるものもあるらしい。例えば、シャンパンはないが、スパークリングワインは存在するし、この世界の地名をもじった酒もあるとのことだった。また、トウモロコーンのように微妙に名前が違うものも他にあるようで、業腹ながら勉強になる。
「あ、そうそう。参考までに、リリスちゃんの知ってるロベルトってどんな奴だったんだ?」
「え?ええと、基本はですます口調で、自分のことは私って言うかしら。それから普段はレディって呼ぶけど、大切なシーンでは名前で囁いてくれて……お花に例えて褒めてくださって、世界で一番可愛い女の子になれたみたいな気持ちにもさせてくれるのよ。修行パートの鋭い指摘もこっちを思いやってのことって分かるのに、後でこっそり気にしてるところなんか可愛らしいの」
「うわあ、現実にそんな男はいねぇ」
聞いてきたくせに、なんだそれ!
悔しくて、唇を噛みしめながら鋭く睨む。いつものリリスならば、そのまま勢いに任せて威勢良く言い返していたが、如何せん目の前にいるのは散々崇め奉ってきた正にその人。やっぱり顔が好きすぎる。とてもつらい。
口を開けば別人と分かっていても、黙っている分にはほとんど相違が見られないのだ。ましてや画面越しでは決して叶わなかった、その双眸に確かな熱を持って見つめられると、どうも怒りが飛散してしまう。
「いや~、やっぱり想像以上に面白いんだよなあ、リリスちゃん。癖になりそ。お兄さん、ついからかいたくなるわぁ」
「切実にやめてください。なんならもう二度と関わらないで」
「あはは、やだ」
へらへら拒否する様を無言で見つめていると、ロベルトは急に居住まいを正して声のトーンを落とした。
「だってレオから話聞いてた時点で興味あったけど、実際会ったら本当に素敵な女の子だったし」
内緒話でもするかのような囁きに、うっと息が詰まる。
ロベルト・マルカートは顔だけじゃない。声も良い。
なんとなく雰囲気に流されそうな予感を振り払うべく、リリスは温くなった紅茶に手をつけた。ミルクも砂糖も入れなかった故のすっきりした味わいが丁度良い。
「……というか、兄様からどんな話を聞いてたのよ」
心なし頭もすっきりしたところで、気になるのはそれ。一体どんな話をされているのか、場合によっては問い詰めなくてはならない。
「いろいろあるけど……んー、ほら、マヨネーズ作ろうとして絶望した話とか」
あっさり教えるロベルトに、リリスは急速に血が上ってくるのを感じた。
「いや、あれは、だって思った味にどうしてもならなくて……!」
「分かる。分かるわ~、リリスちゃん。コクというか、味が全然違うんだよなぁ。俺もやった。そして企業努力に涙した」
ロベルト曰く。他にも日本食への懐古から醤油や味噌作りにもチャレンジしたところ、ことごとく失敗。しかし、その時培ったノウハウで医薬品の開発に成功し、個人資産はかなりの額に上るという。
おのれ、チート野郎。リリスはぐぬぬと歯噛みした。
それを見て可愛い可愛いと持て囃すロベルトは趣味が悪いとしか思えない。
「なぁ、俺達、気が合うと思わない?」
「思いません。たまたま似たような経験をしてるから話が分かるだけでしょ」
「そりゃあね。最初はそれ目当てだったのは否定しない。同じ境遇なら分かり合えるんじゃないかって」
深く座り直したロベルトは、正面で手を組み、親指をくるくる回し始めた。
「他に転生したっぽい人物はいなかったけどさ、もし居たとしてもリリスちゃんを選んだだろうなって今なら思うわ」
「……随分女性慣れしてるのね、お上手だわ」
「まさか!昔も今も立派な魔法使い予備軍だ」
皮肉げに言うものだから、リリスはぱちりぱちりと目を瞬いた。
意味がよく分からない。ロベルトは立派な魔術師のはずでは。というか、ちょっぴり影のある艶っぽい表情をされると、まさに『ロベルト様』って感じで最高。カメラ欲しい、カメラ。スマホでも可。
脱線しつつある内心が顔に現れていたのか、いまひとつ通じていない様子を理解したロベルトは口許に右手をあてながら横を向いた。
「あー……いや、ごめん忘れてくれ余計なこと言った」
気まずそうにカップを手に取ったロベルトは、その中身が既にないと知ると、口を引き結んでますます決まり悪げに目を伏せた。
カップとソーサーの触れ合う音がやけに大きく聞こえる。
「まあ、その、なんだ。つまり、どの口がってかんじだけど。こんな楽しい気持ちにさせてくれる女の子、はじめてなんだ」
先程までとは一転。目元を赤らめ、小さく呟かれた言葉にリリスまでこそばゆい気持ちになってくる。
ゲームのロベルトといえば、詩的でドラマチックな台詞の数々を口にして、大人の色気たっぷりで。人によっては笑ってしまうほどムードのある人物だった。
それなのに、なんだか、ずるい。そんな風に照れた顔、スチルでも表情差分でも見たことがない。
「反応が良いっていうか、つい構いたくなるんだよなあ。……リリスちゃん、俺の顔好きだろ」
そりゃあそうだ。悔しいことに、じっと見つめてお願いなんてされた日には全て叶えたくなるほどの魅力がある。
そして残念ながら、照れ隠しのように浮かべた意地の悪い笑みさえ嫌いになれなくなっていた。ゲームのロベルトでは、あり得ない仕種なのに。
「さっき言ってたみたいに元々のキャラと俺が違い過ぎてか最初はドン引きみたいな目で見てくるくせに、すぐぽわぽわした顔になってんの気付いてる?すげえ可愛いよ。そのまま絆されてくれないかなーって思うくらい」
なんということ。
リリスはできることなら白目を剥いて倒れたくなった。
「それにさ、たぶんこれからも調子乗っていろいろやらかす俺だと思うから、それを笑い飛ばしてくれるだろうリリスちゃんに惹かれておりまして……なんなら一緒に馬鹿やったりしてくれても良いんだけど、どう?」
「どう、と聞かれても」
正直ぐっときているが、ロベルト様を裏切るような真似はできるはずがない。
すると、小さく唸ったロベルトは、左右に軽く揺れながら何事かを思案し始めた。癖なのか視線は天を向いている。
それから、ゆっくり三拍ほど数える間に良い案が浮かんだようで、ふわりと微笑んだ。
親の顔より見たことのある表情を真正面から喰らい、訓練されたリリスの心臓は早鐘を打つ。
淡雪のように儚げな笑みを浮かべたロベルトは、静かに立ち上がるとリリスの隣に跪き、右手を自らの胸元に、左手をリリスに向かって差し出した。
「レディ、愛しい人。どうか私の手を取って頂けないでしょうか」
「えっ、喜んで……握手しましょ。はい、おしまい」
「……ちぇっ、流されないか」
本音を言うと、とても危なかった。
「じゃあ、これは?」
素早く掬い上げた手の甲に触れるギリギリのところでリップ音を響かせる。
見上げる紫紺の瞳は、朝焼けのように燃えていた。
「ガーベラのように愛くるしくチャーミングなあなたを恋しく想う気持ちが、日ごと積もり積もっていくのです。そばに居られぬことが、なんと辛く切ない日々でしょう。あなたに恋い焦がれる私を少しでも憐れに思ってくださるのならば、どうかあなたの隣に侍る栄誉を賜れないでしょうか」
ごくりと唾を飲み込む音が、やけに大きく聞こえる。
いちいち前世との差異を気にせず会話できるのは気楽に違いないし、そうでなくとも、思ったことをぽんぽん言っても嫌な顔ひとつせずじゃれ合いを楽しむような態度はとても居心地が良かった。リリスが本気で拒絶したくなる前の引き際を心得ているところも良い。
いっそこの顔でなければ良かったのに。
そう思ってしまった時点で、既に負けは決まっていた。
しかし、リリスは早々に認める訳にもいかない。こんなちょっとばかりお茶したり散歩したりしただけの相手にそんな気持ちを持つだなんて、ロベルト様に申し訳がない。
少なくとも、ゲームを楽しんだ期間よりも付き合いの浅いうちには。
今はまだ、顔を見ればどうしてもキャラクターとしてのロベルトがちらつくので、義理立てに何の意味もないことはリリスも理解しているけれど、そんな軽い女じゃないと抵抗したくもなる。特に先程の台詞のような言い方をされると余計だ。
せめて自分の言葉で勝負せい!と思う反面、ヘタクソななりきりが無性に愛しい。
本当に、この顔でなければ良かったのに。
瞬きひとつせずにリリスを見つめる熱い双眸を前に、なんと答えたものかと頭を抱えた。
「……んー、これもだめか?」
へらっと表情を崩し、器用に片眉を下げた困り顔はどうにも胸にクるものがあった。
リリスが陥落するまであと少し。