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それは、リリスが楽しみにしていたおやつをぱくりと口にした時だった。
「うーん!このタルトタタン、おいしい!」
リンゴのほのかな酸味の後にじゅわっと広がる甘さ。それを引き立てる微かな苦味。最高~!と踊り出したくなったリリスは、控えめな笑い声を耳にした。
振り替えれば、いかにも微笑ましいといった顔の侍女。彼女は内緒話をするようにそっと囁いた。
「お嬢様、そちらはタルトタンタタンですよ」
なんでやねーん!
思わず縁も所縁もない関西弁の突っ込みを盛大に叫んだところで、リリスは、はたと気付く。かんさいべん?
それが引き金となったのか、一気に前世の記憶を思い出した。リリス、五歳の春だった。
すっと染み入るように馴染んだお陰で、寝込むだとか意識が混濁するだとかはなく、そういえば昔そんなことがあったなあという感覚で、リリスは紅茶に口をつけた。
どんな人生だったのかは薄ぼんやりしているものの、日本人として生まれ、なんとなく学生生活を送り、それとなく就職したような。何年も前のことを詳細に思い出せないそれと同じ気楽さで心の整理をつけたリリスは、次に現状を省みた。これは異世界転生というやつでは。
ふわふわのドレスは中世のそれというより、どことなくアニメっぽい雰囲気。いや、子どもだから?
それにタルトタタン……じゃなくて、タルトタンタタンを口にする前、お昼はハムとチーズのサンドウィッチ、朝はトウモロコーンのポタージュがおいしかったなあ。夜はエビチリがたのしみ!なんて無邪気に思っていたけれど。
サンドウィッチやエビチリもあるのにトウモロコシはトウモロコーン。いや、トウモロコーンって。
日本での記憶を思い出した途端、違和感がすごい。
なんともいえないモヤモヤを紅茶で流し込んだリリスは、次に、控えていた侍女へ今後の予定を尋ねた。
「この後ですか?変更の連絡もないので、いつも通りお稽古の時間かと」
そつなくお稽古と家族との夕食を終えたリリスは、行儀が悪いと自覚しつつもベッドへ飛び込んだ。流石に疲れていた。
家族仲は良好のようで、この日の夕食も一家揃って。
母はスレンダーな美人だが、代々騎士を勤めている家系らしく父も長兄も筋骨隆々。並んで座る様は圧迫感があり、カラトリーが玩具のように見えた。そんな二人は末の娘が可愛いようで、何かと構いたがるものだから、リリスは何かしでかしてしまわないかとヒヤヒヤした。急に思い出した前世の知識とこの世界の常識の線引きはあやふやだ。
ちなみに、次兄は魔法の素養があるからと全寮制の魔術学園にいるらしい。
そう、この世界では、なんと魔法が存在した。
魔力を有する者は十人に一人と決して珍しくはない。けれど、実際に火や水といった魔術を行使できる者といえば、その数は一気に少なくなる。次兄は後者だが、どのくらい凄いのかは家族にもよく分からないようだった。親類にも素養のある者はこれまでいなかったらしく、とにかく珍しいということだけは分かる。
ちなみにリリスは僅かに魔力はあるものの、魔術を行使するには至らないそう。家庭教師の言葉だ。
リリスが心底がっかりしたのは言うまでもない。チートはないのか、チートは。
むくりと起き上がったリリスは、ふと、壁に掛かった姿見に目をやった。
くりっとしたエメラルドの瞳が特徴的な少女で、非常にテンションが上がる。つい、魔が差していろんなポージングもしてしまった。我に返ったのは丁度水差しの替えを持ってきた侍女のくすくす笑う声が聞こえたから。リリスはさっと顔を赤らめた。
「お可愛らしかったですよ」
そう言う侍女もなかなか整った顔立ちをしていたので、リリスは自分が特別容姿に優れている訳ではないのではと推察した。それは、寮住まいの次兄が長期休暇で戻ってきた際、更に確信を深めることとなる。
リリスよりも濃いブロンドの髪に、瞳は同じエメラルド。身長は十センチと少し違うかどうか。ぱっちりとした二重も上唇が少し薄いところも一緒なのに、配置の妙というか、圧倒的に顔が良い。
寮住まいなんて大丈夫?!と余計な心配をリリスがしたところで、次兄はそのお人形のように可愛らしい顔をくしゃっとさせてリリスを抱き上げた。
「ただいま、我が家のプリンセス!」
直射日光のように眩しい笑みを至近距離で浴びたリリスは、あまりの尊さに目を細めた。もちろん父も長兄も大好きだけれど、記憶を思い出した今、暑苦しいまでの筋肉よりこういった可愛いものに癒しをおぼえる。ちょっと年上ぶっているところも堪らない。素敵なお兄様最高。
そのままくるくると回され、地面に優しく降ろされた頃には、すっかりめろめろになってしまった。
もともと長期休暇でなければ会えないというのもあって、リリスが他の家族同様、べったり構ってもらいたくなったのも仕方がないかもしれない。
「レオお兄様ってとっても力がおつよいのね!くるくるするの、とってもとっても楽しかった!」
「ああ、身体強化の魔術を使ったからだよ。腕力だけなら父上達みたいにできないけど……でもリリスが喜んでくれるならやってよかった」
魔術!
レオお兄様は私に出来なかったあれやこれを本当にできるんだ、とリリスの心は沸き立った。
体の幼さに精神も引っ張られるのか、どうにも気持ちが抑えられず、その場でぴょんぴょん飛び跳ねてしまう。
「レオナルドは中々筋肉がつかないみたいだが、魔法を使えば似たようなことが出来るようだよ」
戯れる子ども達に目尻をこれでもかと垂れ下げた父が告げる。
「他には?!ねえお兄様、他はどんな魔法が使えるの?」
「魔法じゃなくて魔術なんだけど……そもそも魔法は子ども向けの絵本なんかにでてくる空想の産物であり魔術は術式を」
「うーん、むずかしいことはいいから早くみーせーて!おねがい!」
「リリスはせっかちだなあ……まあ、たしかに見た方が早いか」
従者に荷物を預け、満更でもなさそうに胸を張って歩きだしたレオナルドに連れられて、リリスは裏手の訓練場へ向かった。
普段は父や兄や護衛達が稽古をしているその場所は、だだっ広いグラウンドのように地面が整備されている他、端には試し斬り用の的が突き刺さっている。レオナルドは迷うことなくそちらへ向かうと、いそいそとついてきていた父に軽く声を掛けた。
「的は壊しても良いよね」
「えっ、あー、もちろんさ」
少し困惑気味な父親の姿に、もしかしてお父様もレオお兄様の実力を知らないのかしらとリリスは小首を傾げた。あまりに堂々と壊す発言をするレオナルドからは、自信しか感じられない。
的からやや離れた位置に陣取ったレオナルドは、二人にも更に三歩程離れるよう告げ、右手を上に掲げて何事かを呟き始めた。いかにも何かやりますといった佇まいにリリスのボルテージも上がっていく。
と、おもむろにレオナルドが右手を振り下ろした瞬間。
視界が白く染まり、縁にピンクの残滓が走る。それを知覚するかどうかの刹那、思いきり鞭で叩いたような乾いた音がリリスの鼓膜を襲い、反射的に目を閉じながら竦み上がった。
一体、なにを。混乱する頭に暢気な声が届く。
「失敗したぁ」
恐る恐る目を開ければ、僅かに揺れながらも傷ひとつない的。そしてその横には、真っ黒焦げになった地面があった。
「折角だから良いとこ見せたかったんだけど。やっぱりコントロールが難しいんだよなあ」
えいっ、えいっ、と軽く腕を降る姿にリリスは恐怖をおぼえた。
初級の魔術として本で紹介されていた火球や風の刃でも見せてくれるのかな?なんて軽く考えていたが、とんでもない。なんだかよく分からないが当たれば確実に死ぬ何かが起きた。しかもきちんと制御もされないままに。
ひええっと涙目で隣を見上げると、笑顔のまま固まる父親がいた。顔色は酷く悪い。
「うーん、なんとなくいけそうだな!よし、もう一回」
「まってまってまって、もうおなかいっぱいですおしまい!」
慌ててリリスが止めに入ると、不思議そうにしながらもレオナルドは構えを解く。
「そう?」
「もっと、こう……危なくないのが見たいわお兄様」
神妙な顔で父も頷く。
「危なくないって言ったって……オレ、さっきの雷系が一番安定してて、あと氷系は広範囲だし……他はもっとダメなんだけど」
「えっ……教本には火や風、水なんかが初級魔術として紹介されてた、けれど」
「ああ、まあそれくらいならできるけど。でも的は壊せないだろ」
どうしても的を壊したいらしい。
物騒な考えに、父や長兄も似たようなところがあるから血筋かなあとリリスは遠い目をした。
「うーん、じゃあ、とりあえずもう一回やってみるか!」
制止の言葉はもとより二人が、え、とか、あ、とか口にするより速くレオナルドは手を振り下ろし、再び世界は閃光に包まれた。
「お、お、お~っ!っおにいさまの、おばか!ひどい!ひとでなし!私、おしまいって言ったのにぃ!」
結果、今度こそリリスは人目も憚らず泣き叫んだ。
「ご、ごめんって!そんなに泣くなよ~、もうやらないから!」
地べたに座り込んでしまったリリスを急いで抱き上げ、慌てた様子で謝罪をするレオナルド。まさか泣かれるとは予想だにしなかったらしい。
「ほんとの本当?ぜったい?」
「絶対絶対!リリスの前では、もう魔術は一切使わないから」
そう言うとレオナルドは、ハッとしたようにリリスを地面へ降ろした。
そうだ、魔術を使わないとレオお兄様は私を持ち上げることもできないんだわ。
なんだかそれは酷く残念なものに思えて、我が儘と分かりつつリリスは静かに首を振った。
「……くるくるは楽しいからしてほしいの、だめかしら」
「駄目じゃない!」
すぐさまリリスを掬い上げ、慎重に回り始めたレオナルド。リリスの顔にぎこちないながらも笑顔が戻るとようやく安堵の息を吐いた。
「泣いちゃってごめんなさい」
地面へそっと降ろされるや、リリスは謝罪した。
それから少し悩んで言い淀むそぶりを見せた後、真顔になってレオナルドを見上げる。
「でも、的を壊すなんてパフォーマンスは、ふつうの子にはウケないから、今後はやめたほうがいいと思います」
「アッ、ハイ」
教師に叱られた時のように、思わず背筋を伸ばして返事をしていたレオナルドだった。