07.常夜島 洗濯日和
果てしない夜の途中。
私はホテルのラウンジにて、夜明けの時を待っていた。
すっぴんで。
きのうは結局、小上がりでうだうだしてるうちに─この私が歯磨きもせず、ビーズソファで寝落ち。
ハッと起きたら朝の5時40分だった。
夜明けの予報時刻は6時5分。
一瞬、もう部屋で見ればいいかと考えたものの、滅多にない機会だ。
一生に一度の可能性もある。
そう自分を鼓舞して寝癖を撫で付け、ラウンジにやって来た。
「こんばんは。お好きな席にどうぞ。」
もう満席かなと焦っていたが、意外にもラウンジは空いていた。
おかげで窓際のソファ席に座れたし、モーニングコーヒーもちゃんと頂けた。
いや、この場合は夜明け待ちコーヒーと言うべきかな。
待ち時間を考慮してか、まぁまぁ大容量のマグカップで出てきたし。
ならば空はどんな様子かと、私は窓に顔を寄せた。
屋台の明かりが消えているからか、暗さが増して星がよく見えた。
そういえば、星空鑑賞も観光のオススメに載っていたっけ。
今夜はどこか、星空を楽しめる場所に行くのも良いかもしれない。
そんな物思いにふけること、十数分。
マグカップのコーヒーが残り半分になった頃だ。
誰かの「あっ。」という小さな声に、窓を見る。
遠く、採石場の山の上。
空の真ん中から、カーテンを開くように東雲色の空が現れ始めた。
東から日が昇るのとは違う、それはとても不思議な光景で。
常夜島は、天から夜色の天蓋を掛けられているのかも知れない。
そんな空想をかき立てる様な夜明けだった。
宿泊客が感嘆の声をもらす中、私は何となくラウンジ内に視線を移した。
印象的だったのは、入口に立つ給仕係の女性がどこか懐かしむような瞳で夜明けを見つめていたことだ。
そうして空から夜の色が消えた時、誰からともなく拍手が起こった。
口々に「おはよう。」と言い合う声と共に、拍手はどんどん大きくなっていく。
まるで素晴らしいショーの始まりに、胸を躍らせるような盛り上がりだった。
ようやっと朝がきた!おはよう!
常夜島の年に一度の洗濯日和が、いま幕を開けた。
***
素敵な夜明けを堪能した私は、充実した気持ちでベッドに寝転んだ。
二度寝する気満々だったんだけど、興奮と多量摂取したコーヒーの影響で眠気は全く来ないまま。
やっぱり起き上がって、動き始めることにした。
今日はシーツ交換があるから、清掃の人と鉢合わせたら気まずいしね。
さっさと準備して出かけちゃおう。
「よっこいしょういち。」と立ち上がった拍子に、下腹部にほんのり痛みが走る。
二日目だし、ちょっとやばいかも。
まだ我慢できるうちに対処しとこうと、私は持参した痛み止めを服用した。
あとは暑さと、体力を考慮した観光プランで動けば問題ないだろう。
となると、その暑さはどうかとバルコニーに出てみる。
相変わらず気温は高いけど、太陽のおかげでムシムシ感はなかった。
空は雲ひとつない青空で、カラッとした良い天気だ。
「わ、すご!」
見下ろした街の姿に、私は欄干から身を乗り出した。
まるで蜘蛛の巣みたい。
何百本もの物干しロープが、家々に連なり街中に張り巡らされていた。
それと一緒に山盛りの洗濯カゴを抱える人の姿が、あっちにもこっちにも。
無数のシャボンがぷかぷかと浮かんで、眩しい太陽に弾けてきらめいた。
「洗濯日和だなぁ。」
ばさっばさっ。ぱんっぱんっ。
皺を伸ばす軽快な音が響く風景に、私は晴れ晴れとつぶやいた。
***
洗濯日和とは、島中に洗濯物が干される朝から夕方までを言う。
その間、常夜島では許可区域外での強い匂いや煙が出る行為が禁止される。
それもあって、キビル通りのほとんどの屋台は一時休業していた。
代わりに屋台の骨組みを利用して、布団やカーペットがズラリと日干しされている。
商売しているのは、洗剤や石鹸を売る店がほとんど。
あとは『貸洗濯機』なる、言わばコインランドリーのような屋台が出店していた。
そこの洗濯機は心配になるほど、ゴウンゴウンと大袈裟な機械音を立てて洗いと濯ぎを繰り返していた。
私はキビル通りを抜けて、住宅街へと入っていった。
風雅な石造りの家が並ぶ小道は、洗い立ての清潔な匂いに満ちている。
庭で靴を洗う人や、軒下のベンチで日向ぼっこをする人。観葉植物を日向に並べている人もいた。
空を見上げれば、重みにたわんだロープに干され、色模様とりどりな洗濯物が風に揺れている。
ああ、この溜まった洗濯物を一気に片付ける感じ。
溢れそうな洗濯カゴがからっぽになるスッキリ感。
「気持ちいい~~。」
心の声をそのまま口に出す私。
玄関先でぬいぐるみを洗っていた少女にはポカンとされたけど、旅の恥はかき捨てである。
ついで私は軽やかな気持ちにのって、その場でくるりとターンした。
分かってる、共感性羞恥案件なことは。
しかもターンの途中、私の横をスっと誰かが横切った。
「え。」
ていうか、あの人じゃない?
昨日助けてくれた瑠璃色の瞳をしたお兄さん。
背格好はめっちゃ似てる。けど、あんな日焼けした肌だったのか暗くて覚えてない。服装は、着替えてるか。
私がモタモタと動揺しているうちに、お兄さんは傍らの路地をすっと曲がってった。
「あ、ちょ、待って!」
私も慌てて路地を追いかけたけど、時すでに遅し。
お兄さんの姿は忽然と消えていた。
***
私はしょんぼりとホテルに戻ってきた。
あの人にお礼を言う機会を逃して気落ちしたのと、気温の上昇でちょっと疲れたのもある。
日が落ちたら、また街に繰り出そうかな。
あの人とも運良くエンカウントできればいいが、そっちは期待できないだろう。
自分の反射神経のなさを恨むも、どうしようもない。
まぁ、向こうは私の事なんてスッカリ忘れて気にしてないかもだけど。
部屋に入るとベッドは空っぽで、『現在、日に当てております。できあがりは17時頃。』とメモだけが置いてあった。
今夜、洗いたてのシーツで寝るのが楽しみだ。
私は気を取り直して、昨日行き損ねたラウンジのアルコール飲み放題を覗いてみることにした。
軽食も置いてあるらしいし、ちょっと遅い昼食にピッタリだろう。
「お、いいじゃん。いいじゃん。」
朝は給仕係がいたラウンジだけど、日中は完全にセルフサービスだった。
スタッフを含めて私以外に人はおらず、これは気を遣わなくて良い。
カウンターにはサーバーやボトルで各種様々なお酒が置いてあって、割り物も豊富。
自分で好きにカクテルや酎ハイを作れるようになっている。
冷蔵ショーケースには缶や瓶のお酒も入っていて、1人2本まで部屋に持ち帰りオッケーの気前の良さ。
軽食はブルスケッタやピンチョス、ナッツやサラミ、生チョコと泡系のバーみたいなラインナップだ。
あとは昨夜食べ方が謎で諦めたフルーツ達が、切り分けて置いてあった。
なるほど、こうやって皮を剥くんだ。分かるわけない。
なんとなく甘いお酒が飲みたくなった私は、ズラッと並んだリキュールや割り物を片っ端から味見した。
結果、ピーチウーロンっぽいカクテルの精製に成功した。
ウキウキで小皿に軽食も盛り付けて、朝と同じ窓際のソファ席に腰を下ろす。
「ゴールデンウィークと太陽に乾杯。」
窓から入る日の光が影をつくるラウンジは、どこかアンニュイな雰囲気だ。
異国情緒ある民族音楽が最小音量で流されているのも、すごく落ち着く。
私はちびちびとピーチウーロン(仮)を飲みながら、夜鳴き牛の生ハムをかじった。
はぁあ、もう仕事とか婚活とかどうでもよくなるな。
ずっとここに座っていたい。週7で休みたい。
てか、このピーチウーロンまじで上手くできたな。
そういや、日暮れは何時予報なんだろう。
あれこれと考えはするが、意味も答えもない。
ぼんやり窓の外を眺めれば、風をはらんだシーツが大きくふくらむのが見えた。
***
時刻は18時を回り、私はバルコニーで日暮れの時を待っていた。
だんだん利用客が増えてきたから、根を張っていたラウンジから切り上げてきたのだ。
部屋に戻れば、ベットメイキングも完了済みで。
私はふかふかのベッドに速攻ダイブして、しばし微睡んだ。
寝かけては、起き。寝かけては、起き。
そんなことを繰り返すうちに、部屋が少しづつ薄暗くなっていく。
「あ⋯、オレンジだ。」
気が付けば、掃き出し窓の向こうは夕焼けに染まっていた。
私は今朝の素晴らしい夜明けを思い出して、日暮れも見なければと立ち上がった。
で、今に至る。
島中の洗濯物はすっかり取り込まれて、物干しロープも回収された。
ここから見えるマーケットは通常営業を始めていて、景色はほとんど元通り。
あとは、日が落ちるのを待つばかりだ。
ラウンジから持ち帰った缶ビールを飲みながら、欄干に頬杖をつく。
オレンジ色の空が、だんだんとネイビーを帯びてきた。
夜明けが開幕なら、日暮れは閉幕。
夜のカーテンが、ゆっくりゆっくりと両側から夕空を隠していく。
その狭間にポツッと、一番星を見つけた。
常夜島の果てない夜の再開を見届けて、ひとり小さな拍手を送った。
「はー、おわった。おわった。」
ところで、私は今朝、星空を見に行くなどと考えていたはずだ。
その証拠に、島の案内パンフレットがテーブルに置いてある。
しかも、星空鑑賞のページを開いた状態で。
うんうん、なるほどね。了解です。
海岸通りを行くと『星見の丘』っていう絶景スポットがあるんだよね。
海岸通りはまだ行ってないし、是非行きたい。
ただ、何かもうね。
今から外出るのは、すごい面倒くさいのよ。
ラウンジで食べ飲み放題が響いてんのかな。
ちょっと胃が痛いから、横にもなりたいんだよね。
「待って。別にいいじゃん。」
で、とりあえずベッドに横になって気が付いた。
今から行かなくても、明日はずっと夜なんだ。
そうだそうだ。チェックアウトしてからでも、見に行けるんだ。
まさか旅先でも出不精を発揮する自分には呆れるが、明日やれることは明日やれば良いのだ。
そうと決まれば気が楽になって、胃の痛みも和らいできた。
ならば先にシャワーを浴びるか、それとも温かいルピ茶を飲むか。
そこでまた、あっと名案を思いついた。
そうだ、線香花火をしよう。
ホテルからの粋な贈り物をやらない手はない。
ていうか、今やらないと絶対忘れちゃう。
私はベッドサイドに置いた線香花火を手に取った。
そして、再びバルコニーにて。
夜空はマーケットの明るさで、すこし白んで見える。
この夜があと364日続くなんて、私にはまるで実感がわかない。
想像する分には、一週間で気が滅入りそうだけど。
「え、どうしよ。先にマッチ⋯いや、置く?」
それはそうと、花火を持ったままマッチ擦るのって難しいよね。
線香花火は床に置いて、マッチを擦る。
で、箱と持ち変えるか。最適解が分からん。
あ、いますごく彼氏がほしい。
ひとりじゃ、線香花火一本つけるのにもまごつくんだもんな。
そんな深沈たる思いを抱えつつ、何とか着火。
マッチを擦るのって、小学校の理科実験以来だな。
つまり、十⋯いや、もう余計なことは考えまい。
「おー、いいねぇ。」
ぽってりとした橙色の蕾から、火花が散る。
線香花火を持つ右手がほんのり熱を帯びていく。
香り付けがされているのか、伽羅のような匂いが立った。
「⋯きれい。」
異世界でひとり、線香花火を見つめているなんて。
人生って何が起こるか分かんないね。
だって、異世界とか冒険とか魔法とか。
そういうのは10代の若い子だけが選ばれるもんだと思ってた。
まぁ、30歳の私が異世界でやってることは観光と飲酒だけど。
「現し世は夢、夜の夢こそまこと。」
これって、江戸川乱歩だったっけ。
そんなことを思いながら、私はじぃっとしゃがんだまま。
線香花火は散り菊、まだ落ちない。
2023.10.01