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02. 西の国ガルブ 旧魔王城周辺


ついに明日は異世界旅行!

今日は定時ダッシュしよって思ってたのに、夕方になってハゲ営業が急ぎの業務依頼をしてくるクソムーブ!

おかげで残業になりました!

これが華の金曜日のハイライト。はい、残念。



そして本日、土曜日の午後15時。

私は旅行用のリュックを背負って、自宅の隣駅を降りた。


異世界の宿でも飲めたら飲みたいので、今回も缶ビールとスナック菓子をコンビニで調達しておいた。

あと向こうの食べ物が大丈夫か分からないから、一応おにぎりと水も用意した。



駅から徒歩数分。

マルチバース.comから指定されたオフィスビルを見上げる。

これが廃ビルだったら即刻回れ右していたけど、普通にテナントが入った小綺麗なビルである。

土曜日で出勤している人は少なそうだが、入口の自動ドアは普通に開閉した。

ありがたい事に、警備員さんの姿はない。



「⋯⋯いってきます。」


エレベーターの上ボタンを押せば、私の旅が始まる。

西の国ガルブへの行き方が書かれた説明書を熟視しながら、私はエレベーターの昇降を繰り返した。


不思議というか、幸いと言うべきか、途中で乗ってくる人はいない。

エレベーター内に防犯カメラが付いているのも確認したけど、注意されることもなかった。


そのまま私は、全部の手順をやり切って最上階へのボタンを押した。

説明書通りなら、次にエレベーターの扉が開いた先はもう西の国ガルブの宿屋『夜』の前だ。


階数表示の画面が1階1階上がっていく。

さっきと同じ速度のはずなのに、焦れったい。



─ あ、もう着く。



ポーン。

屋上階へ到着を知らせる音。


そして、扉は開いた。


ざぁっと吹き込んだ風が私の前髪をかき上げ、潤んだ緑の匂いが辺りに広がった。



「⋯⋯まじだった。」



私は、呆然とエレベーターから進み出た。

鬱蒼とした森の中だ。

その木々の間に、宿屋『夜』の看板がかかった建物があった。


高床式倉庫にスロープを取り付けたような…と言うと、全然オシャレじゃなくなったな。

こういうの何て言うんだっけ。あ、ツリーハウスか。

透明度の低い泡硝子の窓がたくさん填められた、立派なツリーハウス。

自然のまま歪んだ木で組まれたスロープには、使い込まれたランタンが道標みたいに置かれている。


私はふっと、一度うしろを振り返った。


背後にはもうエレベーターの姿はなく、ただどこかへ続く均された山道があるだけだ。

そうなると、知らない場所に取り残された不安感が私の中にむくむくと湧いてきた。


とにかく安全な場所で、誰でもいいから人に会いたい。


私は目の前のスロープを一気に駆け上がろうとした。

が、もちろん30歳の体力はそう豊かではない。

わりと急勾配なのもあって、駆け上がるのは無理だった。


「あ”ー、しんどっ。」


息を切らし、しっかり手すりも掴んだ状態で、スロープを登っていく。

高校生の頃なんか、駅の階段を1段飛ばしで駆け上がれる体の軽さだったのに。

ほんと老いって残酷だよな。


何はともあれ、宿屋の入口にたどり着けた。

星と月の絵が彫られた可愛いドアを開けば、チリリンと来客を知らせるベルが軽やかに鳴った。


「えー、めっちゃ素敵。」


ロビーは、なんて言うか外国の田舎町にある祖父母の家って感じだ。

キルトのラグマットやギンガムチェック柄のソファもそうだし、暖炉や手織りのタペストリーなんかも雰囲気がある。

天井からは星のシルエットのペンダントライトがたくさん吊られてて、辺りをキラッキラッと照らしていた。


「お嬢さん。」


チェックインも忘れてロビーで見とれていた私に、柔らかい声がかけられた。

振り返ると、宿屋の奥さんがにっこりとカウンターに立っているではないか。


「あっ、あっ、すみません。」


なんか恥ずかしい。コミュ障全開にへこへこと頭を下げて、予約した旨を伝える。

サイトで見たまんまの優しげな奥さんは「こちらこそ、すぐに声をかけなくてごめんなさいね。」と、その笑い皺を増やした。



「ずいぶん熱心に見てらした様子が、トポノみたいで可愛くて。」

「えっ、あっ、へへ。すみません。」



奥さんの好意的な様子にホッとする。トポノが何かは分からん。

私はとりあえずヘラヘラと笑顔を返して、部屋の鍵を受け取った。

同時に、チェックアウトの時間や朝食についても説明をいただいく。

特に変わった制度やルールはなく、私はひたすらウンウンと頷いた。



「どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいね。」


穏やかにほほ笑む奥さんにつられ、私もほほ笑む。

お互い見つめ合うなぞの数秒。


「あ、では。」


私は軽い会釈をして、客室階に続く木製の螺旋階段を上がった。



***


客室は2階と3階にあり、今回私が泊まるのは2階の202号室だ。

2階フロアには客室が全部で6つ。廊下をはさんで3部屋ずつ扉が並んでいた。


さっき奥さんから渡された鍵。というか、石。

三日月型にカットされた手の平サイズの琥珀が、部屋の鍵なんだって。

さっきコレを渡されて、めちゃくちゃキョトン顔をさらしたよ。

こっちの世界でもスタンダードな鍵ではないみたいで、奥さんがすぐに使い方を教えてくれた。

使い方って言っても、単純明快。

扉には石と同じ型をした窪みがあるから、そこに石をはめ込めば解錠するらしい。


「これを、ここに⋯⋯おぉー!」


202号室の扉にある三日月型の窪みにカコッと石をはめると、一瞬だけ淡く光った。

すると、何もなかった扉にメキメキと音を立ててドアノブが生えてくるではないか。

ほんとビックリ。早送りで木の成長を見てるみたい。

魔法なのかもって興奮して、一人なのに声を上げちゃった。


意気揚々と扉を開けて、本日の寝床へイン。

意外にも室内は土足ではなく、スリッパに履き替える仕様なのが嬉しい。

扉には普通に内鍵も付いていたから、女性ひとりでも安心だ。

遠慮なく、はしゃがせていただこう。



「ロマンチックが止まらない…。」


ロビー同様に、客室もとってもかわいい内装だった。

小花柄の寝具で揃えられたシングルベッド─ちなみに私は糊のきいたパリパリのシーツが清潔な感じがして好き。ここのはめちゃくちゃ合格だった。

ベッドサイドには、読書灯代わりに灯すキャンドルが置かれている。

窓際にあるライティングビューローはピカピカに磨かれて、ちっちゃな夜空の絵が飾られていた。


窓からの景色は⋯うん、正直薄気味悪いというか。

ひたすら深い森が続いてるって感じだ。

多分、窓は開けない方がいい。


あとはバスルーム兼トイレがあって、アメニティは通常ホテルにある物が一通り置いてあった。


あ、コンセントはない。

多分そうだろうと思って、モバイルバッテリーを持参したのは正解だった。

まぁ、スマホは通信圏外だから充電は減らないと思うけど。


当然ポットやテレビもないのだが、冷蔵庫はあった。

見た目はただの木箱だから、冷蔵箱?保冷箱?

金庫かと思ってたから、触ったら冷たくて驚いた。

動力源が何かは分からんけど、ありがたくお酒を冷やさせて頂く。



「はー、落ち着くわぁ。」


さて、ここからだ。

とりあえずベッドにダイブして虚無の時間を味わう。


時刻はまだ午後16時。

明日は魔物園に行く予定なので、行ければ今から旧魔王城見学に行きたいところだ。



「ていうか、普通に異世界来てるな。」


覚悟して来たとはいえ、我ながら受け入れが早い。

私は寝転んだまま、乱雑に床に放ったリュックを引き寄せる。

中からクリアファイルにはさんだ一枚の紙を取り出した。

マルチバース.comから届いた六芒星が描かれた魔法の羊皮紙だ。

これが唯一の帰る手立てってのが信じらんないよね。

帰れなかったら笑い事になんないわけだし。まじで。



「⋯⋯帰れると信じよう。」


全てはあとの祭りなのだ。切り替え、切り替え。

私は反動をつけて起き上がって、貴重品だけを手に部屋を出た。




***





ロビーへ下りると、カウンターに奥様とご主人が並んでいた。

サイトで見るより筋骨隆々で厳ついご主人の肩には、立派な弓がかけられている。

私がカウンターに鍵を預けに行くと、ご主人は無言で会釈をして奥に引っ込んでしまった。

なるほど、無骨な宿屋の主人か。嫌いじゃない。



「無愛想でごめんなさいね。お出かけですか?」

「あ、はい。旧魔王城に行こうかと。」

「あら。それなら、入城割引券があったはず。」



そう言うと、奥様がカウンターの下から光沢のある黒いチケットを探して渡してくれた。ラッキー。



「あの、あと、夕食って、どこか美味しい所ありますか?」

「そうねぇ、んー。せっかくなら、お城の中にあるレストランはいかが?」



聞けば、城内の食堂でガルブの郷土料理を中心としたフルコースが食べられるらしい。

異世界のごはんを食べて大丈夫かは賭けだけど、旅先では名物を食べたいし。

予約も要らないらしいので、そこに決めた。



「あ、そうそう。さっき主人が、小路でちっちゃな魔物を討ったって。

しばらくは警戒して何も出てこないと思うけど、一応お伝えしておきますね。」



宿を出る直前、奥さんからついでとばかりに不穏な事を言われた。

確かにサイトにも、魔物の出現の可能性的な記載はあったけど。

ウサギとかネズミみたいな認識で舐めてかかるとヤバい感じ?



「お気を付けて、行ってらっしゃいませ。」

「は、はい。いってきます。」



まぁ、ここから旧魔王城へはたったの徒歩5分だ。

生い茂る木々で心なしか薄暗い小路を、私は俯き加減で駆け抜けた。


ガサガサとか、ザワザワとか聞こえる音は無視。

途中、行先表示の看板がへしゃげてたけど無視。



「⋯⋯よっし、抜けた!ハッ、こっわ⋯!」



幸い5分もかからず、小路からは抜け出せた。

帰りもダッシュだなと考えながら顔を上げた私は、目の前の光景にグッと息をのんだ。


入り口へ伸びる長い長い橋の先に。

灰色の煉瓦と蔦が絡まり合う、巨大なお城が聳え立っていた。


私の他にも多くの観光客が橋を行き来していて、辺りは賑わっている。

なのに、纏わりつくような重たい空気が拭えない。

これが瘴気ってやつなのかも。



「旧魔王城へようこそ!大人一枚3000ガローだよ!」


橋の手前にあるチケット売り場で入城券を購入する。

もらった割引券のおかげで、かなり安くなった。


余談ながら売り場では、旧魔王城に似合わぬ福々しいおばちゃんが対応してくれた。

此処で働くには、瘴気に負けぬ明るさが必要なのかも知れない。


ちなみにお金についてだが、出発前日にマルチバース.comのサイトから両替申請をしている。

クレジットカードで希望金額を入金すると、行先の世界の通貨に替えてくれるのだ。

今回はとりあえず1万円分をガルブの通貨に替えてもらった。

例によって申請した直後にポストにお金が届けられて、また恐怖した。

余ったら返金対応もしてもらえるし、足りなかったら旅先で申請すれば宿に届けてくれるホスピタリティ。


ていうか、異世界ってどこも現金主義なのかな。

電子決済の世界とか物々交換の世界もあるのだろうか。



「魔王気分を楽しんで!いってらっしゃい!」


さて。おばちゃんから入城券とパンフレットを受け取ったら、いざ旧魔王城内へ。


正門扉の前にいる騎士っぽい格好をした、もぎりのお兄さんにチケットを見せる。

この扉がもうすごくて。

デカいのは勿論のこと、全体にオーロラみたいな靄がかかってるのよ。

お兄さん曰く「この靄は聖女様がかけた浄化魔法の名残なんですよ。」とのこと。

とりあえず清らかなものってことで、安心安全。


さらに扉の両側には、槍を構えたオーク的な石像が乗っかった樹齢云百年の大木みたいな立派な柱もあった。

石像のセンスは疑うが、来る者を拒む意思はめっちゃ感じる。


あと、扉は鉄製でめちゃくちゃ重たいので、基本的に開けないらしい。

だから、見学客は潜り戸を通って城内へ入る。



「うわ、すっご⋯!」


城内は幾重も重なるシャンデリアの蝋燭で仄暗く、黒で統一された装飾品や敷物を妖しく照らしていた。

潜り戸をくぐって正面に構える大階段も見事だが、その上に並ぶ5枚のステンドグラスにも目を見張る。


─ 中央が魔王のリタディサプタ。

左右が四天王であるアネミオ、プルミト、アスターモ、カンチェロを表現している。─


私は貰ったパンフレットの解説を読みつつ、じっくりとステンドグラスを眺めた。


本当に四天王とかいたんだね。

じゃあ、この四人のうちの誰かが「こいつは四天王の中でも最弱。」とか言われてたんだ。可哀想。


ていうか、ここの魔王が勇者に倒されたのって50年前なんだって。

思ったより最近だよね。

でも宿屋のご主人が討伐隊所属の経験有りなら、そりゃそうか。

ただ、魔王の所業一覧みたいなのを読んでると、結構えげつない事が書いてあるわけで。

その記憶が色濃い内に諸悪の根城をここまで観光地化できるって、メンタルが強すぎる。



─勇者アールは謁見の間にて魔王を討ち取った。

魔王の遺体から放たれた瘴気は、聖女メルクの浄化魔法をもってしても未だ残り続けている。─



城内には、聖女様が結界を張った立ち入り禁止の部屋もある。


そのひとつが、この謁見の間だ。

ここの色濃い魔王の瘴気に当てられて、そのまま命を絶った兵士もいたらしい。怖すぎ。


聖女様の結界は石鹸の膜みたいだから、立ち入り禁止でも中を覗くことはできる。


拷問部屋や監獄がある地下も立ち入り禁止だけど、ちょっとだけ様子を覗き見れた。

まぁ、あんまり気分の良いもんじゃない。


配下達の個室や魔王の書斎なんかは浄化されているので、中に入って見学ができた。

調度品の一つ一つから家具の配置に至るまで、魔王陣営の方々は皆さん洒落れていたようだ。

特にプルミトの部屋にあったガラスペンのセットが素敵すぎたんで、売ってる場所を教えて欲しい。


城内見学は全体で一時間半位かな。

それほど混雑もなく、じっくり見て回れた。


そして最後は、城内食堂でのディナーだ。

当たり前だけど、食堂と言えど社食や定食屋さんの装いとは全く異なる。

言うなれば、高級フランス料理店みたいな雰囲気。行ったことないけど。


入口には紳士服の青年が直立不動で待機し、声をかけると席まで案内してくれた。


「こちらへどうぞ。」


食堂内はまさに豪華絢爛の装い。

天井には魔王の生い立ちを仰々しく描いた絵画が広がり、壁の大きな窓には重たそうなカーテンが何重にも垂れ下がっている。

過去には演奏家がいたのか、パイプオルガンと舞台まであった。


そして中央には、果てしなくながーいダイニングテーブルが鎮座していた。

魔王の食卓を再現した料理や飾りが置かれているのを見るに、現在は鑑賞用らしい。

一般客用には、ソファ席や人数別のテーブルが別で用意されていた。


私は、光沢あるグレーのテーブルクロスがかけられた少人数用の円卓に通された。

この煌びやかな空間に、私みたいなスウェット黒スキニーの普段着女がいるのが違和感ありありである。

ドレスコードはないようだけど、どう見ても私の姿は浮いていた。



「お客様、メニューをどうぞ。」



少々気まずいながらも、案内してくれた青年からドリンクメニューを受け取る。

お料理は【本日のフルコース】のみなので、ドリンクだけ選んで注文するようだ。

しかし、メニューにはビールとかワインといった馴染みあるお酒の記載はない。

読めはするんだけど、謎の飲み物の名前がいっぱい書かれている。


「えっと。じゃあ、ピ、ピヴェールを。」


いちかばちか。

リストの一番上にある飲み物を注文した。

ほら、居酒屋のメニュー表とかも大体はじめにビールが書いてあるし。

だから、多分、ここで一番スタンダードなお酒が来るはずだ。

店員さんも「えっ、一杯目からそれ?」みたいな反応じゃなかったし、大丈夫大丈夫。



他のお客さんの談笑する声や食器の当たる音を大人しく聞きながら、待つこと数分。



「ピヴェールでございます。」


テーブルに置かれた、発泡する薄黄色の液体が入ったグラス。

口元へ近付けると、ほのかな柑橘系の香りのあとにビールに似た香りがした。

勝った。

私は確信して、一気にグラスを傾けた。


「うっま。」


レモンビールだ、これは。

爽やかな苦味が渇いた喉に染み渡って、生き返った気分。

みんなもガルブでメニューに迷ったら「ピヴェール」って言えば、酒が飲めるぞ。


私が嬉々としてピヴェールを半分ほど飲んだところで、さっそく一品目の料理がやって来た。


「前菜の、ミラ菜とポルピのマリネでございます。」


食材は謎の名称なのに、マリネだけ共通なの笑う。

おかげで何となく味が想像できたのもあって、私は躊躇せず前菜を口に運んだ。


うーん、多分ポルピはタコに似てるかな。

ミラ菜は特に味はないけど、シャキシャキしてる。

とりあえず味付けは酸味があっておいしい。


食べた瞬間に舌が痺れるとか、吐き気が込み上げるとかいった身体的な拒絶反応も起こらなかった。


私は安心して、スープから肉料理までフルコースを全て平らげた。

名前はちんぷんかんぷんだけど、味は何となく知ってる食材が多くて美味しかった。

食器や盛り付けもめちゃ綺麗で、まさに気分は魔王の寵愛を受けたお姫様(30)である。


最後にコーヒー的な飲み物とプティフールを優雅に味わって、ディナーは終了。


「ごちそうさまでした。」


お腹いっぱい満たされて、旧魔王城を後にした。




***




「あ~、風呂めんどくさ~。」


そして再び、宿屋「夜」の202号室にて。

私はベッドに寝転がって、入浴へのやる気が起こるのを待っていた。


あ、ちなみに帰り道は全く怖くなかった。

宿屋の奥さんのナイスな采配で、ご主人が橋の所まで迎えに来てくれたのだ。

終始無言な上、ひたすら大股でご主人の後ろをついて行くスタイルだっけど、まじで助かった。

しかも最後は、宿のドアを開けて「どうぞ。」って私を先に通してくれたご主人。

突然の紳士な振る舞いに、軽率にキュンとした。


「いや~、あ~、風呂入るか~。」


めちゃくちゃ面倒くさい。

でも、風呂に入らず就寝するのも無理な質なもんで。

だから風呂に入らないという選択肢は無いわけで。



「よっしゃ。」

さっさと入って、ひとり飲みとしけ込みますか。



で、入ってしまえば最高なのがお風呂です。

シャワーの水圧も、バスタオルの吸水力も申し分なし。

備え付けのソープ類も違いはなく、ほのかにあまいバニラの香りだった。

私はスキンケアもそこそこに冷蔵箱から缶ビールを取り出して、風呂上がりの一杯をぐびーっとあおった。



「はぁーっ、なんも言えねぇ!」



この開放感の為に生きてるし、これからも生きる。

私はそのままフラフラっとベッドに腰掛けて、スナック菓子の袋も開けた。

今夜もビジホ飲みならぬ、宿飲みの開始である。


ここからはもう眠くなるまでチビチビ飲むだけ。

ひとりだから、なにもかも好き勝手していい。

暑けりゃ脱いでもいいし、急に寝落ちしたって誰にも気も遣わない。

屁もこき放題である。



「⋯⋯静か。」



テレビがないので、窓から見える暗い森のざわめきを眺めてみた。


魔王とか魔物とか勇者とか聖女とか。

異世界という有り得ない状況にいる実感が未だわかない。

だけど肌に触れる空気や温度は本物としか思えないし。


とにかく、この非日常に体は疲れているようで早くも眠たくなってきた。

私は缶ビールの残りを一気に飲みほして、ベッドに倒れ込んだ。


あ、待って。歯磨きせずに寝落ちはできん。


そういうとこは律儀なので、しっかり磨いてお口スッキリ。

これで完璧とベッドに舞い戻って、せっかくなのでキャンドルに火を灯す。

部屋の照明ってどう消すのかなって探したら、枕元に真鍮のダイヤルがあった。

0から5まで数字が書いてあって、0にしぼると真っ暗に。1だと豆電球くらいになった。

まじでこの世界の動力源って何なんだろ。


「あー、ねむ⋯⋯。」


いや、もう動力源とか何でもいいわ。眠い。


明日起きたら、宿自慢の朝ごはんを食べて、チェックアウトして、魔物園に行って、元の世界に帰る。


帰れるはず。


キャンドルのゆらぐ小さな火を見つめながら、私はゆっくりと眠りに落ちていった。












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