【痰カス】俺が憧れたホームレスの話
久しぶりの痰カス
とある駅の構内、丸ノ内線とJRを繋ぐ連絡通路の端っこにはホームレスがいる。眠る人。酒を飲む人。大抵は、この2パターン。
引っ越した今となってはもう通ることもない駅だが、遠方から仕事場へ通っている時に必ず乗り継ぐ駅だった。そんな場所で、夕方。必ず俺の目にとまるのが、柱の前で頭を垂れて、少しも動かないホームレスだった。
彼は、別のホームレスとは違った。物乞いだったからだ。
『金を稼ぐための金がないから、どうか恵んで欲しい』と震えた文字で書き記した紙と、いくらかの小銭が入った空き缶を置いて、毎日そこで頭を垂れていた。
彼が動いているのを、俺は見たことがなかった。何日も、何日も。ただひたすらに、ごった返すような人通りの中、冷たい床に蹲って、そこで救いの手を待っていた。
だから、毎日通って彼を見るたびに、俺はいつの間にかそのミステリアスな雰囲気に惹かれていた。
俺自身、土下座の経験は何度かあるが、あんなにも長い間頭を下げていたことは無かった。何であれ、あれだけ物事を継続出来るのは素晴らしい才能だ。
だから、ある日声をかけてみたのだ。
「コーヒー、飲みますか?」
しゃがみ込んで、近くの自動販売機で購入した缶コーヒーを床に置くと、彼は俺を暗く見上げた。しかし、「だからなんだ」といった様子で再び下を向くと、それっきり動かなくなってしまった。
「腹、減ってますか?」
声を掛けても、彼はもう顔を上げなかった。もしかすると、それがこの駅のホームレスのルールなのかもしれない。そう思って、俺はコーヒーを空き缶の横に置くと、千円札を1枚、畳んで彼の空き缶へ入れその場を去った。
……翌日も、彼はそこにいた。やはり、頭を垂れていた。
しかし、昨日までは無かった物があった。それは、コンビニ弁当のゴミと、酒の空き缶だ。そして、それは俺が入れた千円札を使って手に入れた物であるということは、容易に想像がついた。
その日も、俺は彼に声をかけて、缶に千円札を入れた。すると、翌日にはやはりゴミが置いてあって。その日も声をかけて千円札を入れ、翌日にはゴミがあって。
なるほど。
つまり、彼は物乞いではない。働く気がないのではなく、こういうビジネスをしていたのだ。
そもそも、俺は最初から彼に憐れみの感情を抱いたことはなかった。きっと、金を手に入れても変わらないだろうとも思っていた。
何故なら、その駅の一日の利用人数は約258万人。毎日これだけの数の人が通るのだから、過去には俺のように興味を持つ人間も少なからずいただろうと分かっていたからだ。
それに、凡人の自分が誰かを救えるだなんて思い上がっちゃいない。過剰な自意識は、毎日鼻水と一緒にティッシュへ包んで捨てている。
むしろ、そんな自由な生き方に憧れすら抱いていた。金を入れたのは、授かったリアリティと話しかけた事への対価だ。決して、恵んだワケではないし、そもそも俺は他人に恵めるほど裕福ではない。だから、今風の言い方をするならば、俺は彼にスーパーチャットを送ったのだ。
もちろん、言葉は返してもらえなかったけど。俺は俺の興味を満たしたのだから、実に有意義な金の使い方だと思った。
……それから一週間経って、俺が引っ越しをした日。
古巣の近くのレンタカーでハイエースを借りて、自分で作業を終えた21時半頃。電車に乗って、今の住処へ向かう途中、俺はやはり彼を見かけた。
「へへへ」
驚くことに、彼は笑っていた。隣にいるのは、恐らくホームレス仲間だろう。ビールと柿ピーを、冷たい床に置いていて。一体、何の話をしているのかは分からなかったけど。通りすがる時に覗いてみても、やはり本当に楽しそうで、何だか俺も嬉しくなってきてしまった。
本当によかった。
インターネットの中ではあるけれど。俺は、彼と同じく文字を書き記して頭を垂れ、誰かから興味を持ってもらう事を望んでいるから。俺もいつか、あんなに人を惹きつけられる文章を書きたいと思った。
俺は、千円札3枚で彼の小説を買ったのだ。