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星の海で遊ばせて  作者: ノマズ
3,孤独な言葉のために
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照らされて降る雨(7)

 詩乃は、カツン、カツン、という雨音に気づいて、窓を見た。一粒、二粒、三粒の大きな雨粒がガラスを叩き、その後は、ばらばらばらっと、バケツをひっくり返したような大雨が降り始めた。金平糖でも降っているのかという固い音。


 井塚はにやりと笑った。


「本当に非効率ですよ。今日、雷雨の予報出てたのに」


 ごろごろと、雷鳴が轟く。


 詩乃は目を閉じた。


 雨は好きなはずだった。終わりのない長雨や、全部流されていくような大雨なんかは特に良い。そのはずだったのに、最近は、雨も嫌いになっている。


 激しい雨の音と雷。


 自分の呼吸の音も聞こえない。井塚の気配も、嵐の音に消えてゆく。


 詩乃は、はげしい雨に打ち据えられて、地面に押しつぶされてゆくような心地がした。


 この雨と雷に、試されているような気になってくる。


 今までの雨は、自分を一人にしてくれた。自分を、他の色々な鬱陶しいことから分断して、一人の世界を守ってくれた。でも近頃の雨は、自分と新見さんを分断する川の様だ。彼岸の新見さんは、しかもあの男――橘昴と一緒にいる。


 詩乃は、目を閉じたまま、額と瞼を手の平で覆った。


 瞼の裏に浮かんでくるのは、新見さんの笑顔と、電子ピアノを弾くあの男。楽しげな笑い声。明るいピアノの音。体育館に背を向けて、駐輪場へと歩く、あの時の自分の背中は、どれほど惨めなものだったか。


 本当は今すぐ体育館に走って行って、新見さんの、濡れた髪を拭きたい。新見さんの家に初めて行ったあの日――あのお見舞いの日の帰り道、雷雨の中自転車を飛ばしたあの時と少しも変わらない衝動が沸き起こってくる。


 しかし、脳裏に浮かぶ光景が、その衝動にブレーキをかけている。


 部誌に没頭していたのは、詰まるところ、そのせいだった。考えたくないことを考えないために、モヤついた負のエネルギーを使って、作品を書いていた。四月から今日まで、出来上がった作品の総文字数は、二十万を下らない。そのうちの数作は、会心の出来になった。


 しかしこうして、部誌も出来上がってみると、空っぽの心に沸き起こってくるのは、新見さんの事ばかりだ。そして、橘昴という高校生ピアニストに対する敗北感。


 多目的ホールで彼のピアノを聞いた瞬間、詩乃は確かにそれを感じていた。負けた、と直感したのだ。


 新見さんには会いに行きたい。


 でも、あの男子生徒には会いたくない。


 あの男が、新見さんと一緒にいるところを、見たくない。


行けばまた、二人に決定的な何かを突き付けられて、その瞬間に自分は、新見さんを失ってしまうかもしれない。


 分かってるんだと、詩乃は心の中で、打ちつける雨に訴えた。


 新見さんの温かい家庭とあのピアニストの快活な音楽は、たぶん同じ世界にあるものなのだ。でも自分は、その世界の住人ではない。憧れはするけれど、あの温かい明りの部屋を前にすると、竦んでしまう。どうしても逃げ出したくなる。


 あの中に入ろうとしなければ追い出されはしない。


 最初から外にいて眺めているだけなら、出て行けなんて言われない。


 だからそれくらいは許してほしいのに、それなのに自分は、新見さんの温かい心の中に、無謀にも入り込んでしまった。だから自分はもう、次は、追い出されるしかない。


 ――そんなことわかってる。分かってるから、もう責めないでくれ。


 詩乃は、深く首を垂れた。


 雨音はやまない。一層強く窓を叩き、詩乃の心を打ち据える。


「失礼しまぁー、あれぇ!? なんでいるんですか!」


 突然、そんな声とともに、愛理が部室に入ってきた。


 どたどたと廊下を走る音がして、愛理の後すぐに、応援団の学ラン姿の健治も部室にやってきた。愛理も健治も、雨と汗でびしょぬれである。二人とも、部室で着替えようという魂胆だった。急な雨で、マスゲーム団も応援団も、部活前の練習はお開きとなっていた。


 急に部室は賑やかになり、結局CL棟のトイレで愛理と健治は着替え、そのあとで、部室に戻ってきた。二人は、部誌が出来ていることに驚き、早速それを手に取って、読み始めた。愛理は、井塚と同じように、「届くの明日って言ってたじゃないですか!」と詩乃に言った。詩乃は、笑ってそれを誤魔化してやり過ごした。


 折角だから常磐さんも呼ぼうと健治が提案し、十分もしないうちに、由奈も部室にやってきた。由奈は図書委員で、部活のない日は、大抵放課後も図書室にいる。健治はそのことを知っていたのだ。


「先輩、めっちゃ書いてるじゃないですか!」


 愛理も、目次を見て井塚と同じことを指摘した。


 詩乃は皆が読書をしている間に、人数分の紙コップを棚から出して、コーヒーを淹れた。新見さんが後輩にしているように、自分も優しい気持ちで振る舞えば、少しは新見さんに近づけるのだろうかと、そんなことを詩乃は思った。そんなことでもしなければこの瞬間、自分と新見さんの繋がりは、切れて流されてしまうような気がした。


 詩乃の後輩たちは部誌を読みながら、詩乃の淹れたホットコーヒーを飲んだ。


 活動日ではない今日この日。


 外は大雨。


 そんな日に、皆で集まっている。孤立したような小さな部室で。


 ――皆、何を思っているのだろうかと、詩乃は部員それぞれのことを考えた。もしこの部室が、皆にとっての温かい空間になっているのなら、それを、壊すようなことはしたくないなと、詩乃は思った。でももし、ここが暖かくて明るい場所になったら、自分はここにはいられないだろうと、詩乃はそう感じてもいた。





 体育祭の前日の金曜日は、授業も三時間で終わった。


 放課後は、各団体、明日に向けての準備をする。赤組のマスゲーム団は、放課後すぐに体育棟のアリーナに集まり、そこで一回だけ通しで踊った。その後、副長二人(うち一人は千代)と、最後にマスゲ長の柚子が、明日に向けての景気づけの挨拶を皆にして、赤組のマスゲーム団の最後の練習は終わった。泣き出す一年生や二年生もいて、三年生の生徒の目にも涙が光っていた。


 本番明日なんだから、泣くのはそれからだろ、と泣いている女子は男子にそんな突っ込みを入れられていた。しかし柚子にとっては、明日がどんな出来になろうと、もう関係が無かった。一年生も二年生も、そして三年生も一生懸命やってくれて、柚子はそれだけで、大きな充実感と満足感を覚えていた。


 アリーナを後にする後輩たちは、皆柚子に「明日頑張りましょう!」とか、「ありがとうございました」とか、声をかけて出ていった。柚子は、皆が体育棟を出てゆくまでアリーナに残った。今回のマスゲームの振り付け役や各練習グループのグループリーダーも、柚子と一緒に最後まで自然と残っていた。そんな生徒が二年生、三年生を合わせて全部で十五人。いつの間にか、柚子を中心とした小さな輪になっていた。


 何か言わなきゃいけない雰囲気を感じて、柚子は恥ずかしそうにしながら言った。


「えっと……皆さま、この一カ月は大変、ご迷惑をおかけしました……」


 ぺこぺこと、柚子が頭を下げる。


 衣装の枚数を間違えたり、練習場所を間違えたりと、活動の中で、柚子は随分と失敗をしていた。しかし皆、柚子の謝罪に、思わず声を上げて笑うのだった。


「俺もっと、新見さんってしっかり者だと思ってたんだよね」


 社交ダンス部でグループリーダーだった三年生がそう言った。


 どっと笑いが起きる。


「あの練習場所取り忘れてた時さ――」


 また別の一人が、活動中のトラブルの件を話題に上げた。皆、それだけでまた笑った。柚子の最大の失敗はそれだった。練習場所の取り忘れ。結局その日は、急遽、近くの公園で練習をした。


「ほんとねぇー……ごめんね、もう。あの時頭真っ白だったよ」


 柚子が言うと、皆が笑う。


 その輪の中で、一人の女子生徒が、感極まって嗚咽を漏らした。慰めようと、他の女の子が寄り添うが、寄り添うそばから、その生徒たちももらい泣きをしてしまうのだった。実は千代も涙もろく、目を真っ赤にして、泣いている後輩を慰めながら自分も泣いていた。柚子も、目元の涙を指で払った。


「新見さんも、お疲れ様」


 柚子にそう声をかけたのは、昴だった。


 昴は、赤組マスゲーム団の音楽部門を担当していた。


「橘君も、お疲れ様」


 潤んだ眼のまま、にこりと柚子は笑顔を向けて昴に労いの言葉をかけた。


 昴は、思わず口を開いた。


「――この後、どこか行かない? あー、その……個人的にも感謝の気持ちを示したくて」


 昴の突然の誘いに、柚子は戸惑ってしまった。


 本当はこの後、文芸部の部室に行こうと思っていたのだ。そうして、もし水上君に用事が無ければ、一緒にご飯でも食べようよと、誘おうと思っていた。今日はこの後は、ダンス部の練習も無い。


 柚子の戸惑う様子を見て、ダンス部の三年生、今回のマスゲームでは千代とともにマスゲ副長をした男子生徒――長江匠が口を挟んだ。


「それはいくら昴王子でもずるいだろ。――皆で行こうぜ。あぁ、部活の人はしょうがないけど、どう皆、行ける人挙手!」


 長江が訊ねると、全員が手を上げた。


「よーし、じゃあ決まりだな。王子、それでいい?」


 昴は微笑を浮かべて答えた。


「もちろん」


 そう決まってしまったので、柚子は、詩乃との昼食を諦めるしかなかった。それでも、やっぱり文芸部には行こうと思い、柚子は体育館を出た。


 ちょうどその頃、文芸部の面々は、SL棟の保健室の前に部誌の販売所を作っていた。明日の朝は皆忙しいので、販売所は今日のうちに作ってしまうことに決めたのだ。今日は、雨や夕立の予報も出ていない。


 折り畳みの長テーブルに簡易テント、段ボールで作った看板。『文芸部部誌、体育祭のための書下ろし』という宣伝文句が書かれている。


 一冊三百円。中庭に面したその場所は、目に留まりやすい。

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